「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)
より転記する。
(講堂)
--------
大正5年・高等科を併置し、大井尋常高等学校と改称す
大正9年・今上天皇・皇后陛下御真影を奉戴す
昭和8年・講堂起工・落成
昭和10年・御真影奉安殿を三好氏寄付により建築す
昭和11年・御真影奉還
昭和16年・大井国民学校
昭和20年・初等科2個学級増加
昭和22年・高等科廃止、大井小学校
昭和23年・1学級増加12学級
昭和46年・新校舎落成
・・・・・
旧職員の思い出
「終戦前後の思い出」 笠岡市吉浜 K男(昭和52年80歳)
昭和18年4月大東亜戦争の真最中、新山校から大井校へ転任、それから昭和24年まで6ヶ年勤務しました。
その間、多数の戦士を村人とともに戦場へ送りだしました。
当時の村長、助役、収入役、農協の組合長さん等の緊張された顔が浮かんで参ります。
戦況はいよいよ深刻になり、国民の食糧さえ乏しく、小国民も食糧増産に参加して、
蛸村と小平井の2個所に開墾畑を作り用具や資材を運び汗を流しての国の方針に尽くした風景が今も明確に眼底に残っています。
昭和20年8月15日正午、あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止めどもなく涙が流れ、職員室で何時間も机にかじりつき悲しく動けなかった事が思い出されています。
戦後はマッカサーの指令とかで、大切に使用していた掛図や図書は一纏めいして提出、どう処理されたかは不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし極度の動揺を来たしました。
尚、在任中青年学校が吉田校へ組合立で参加したこと、戦後六・三制の実施に当たっては西中に通うようになったこと、
PTAを初めて作り多数の参加を戴いたことは大きな出来事でした。
・・・・・
卒業生の思い出
「小平井分教場のこども」 M男・大正4年度卒業
大井小学校小平井分教場に入学したのは明治44年4月、ところは住山の公会堂のあたり。
現在の道路を挟んだ南の部分が運動場。
運動場の北が一段高くなって校舎。
校舎といっても上手水のついた農家の母屋と長屋で、ガラスの入った障子は一枚もない。
先生は3人、複式学級編成だ。
朝学校へ行く。
当番は七輪に火をおこし、薬缶をかけてお湯を沸かす。
近くの川のほとりの野井戸からバケツに水を汲んで、2人でさげて帰る。
それが使い水であり、飲み水でもある。
その頃、先生が見える。
岩倉から自転車のG先生、今立のY先生、園井のN先生。
服装は木綿の筒袖の着物。
冬は羽織を着る。明治45年頃からさるまたをはいた。
帽子は学生帽、祝祭日には小倉の袴をはいた。
女のことはよくは知らないがずーとノーパンだったろう。
大正4年9月、現在の位置に木造2階建て外部ペンキ塗りの、その当時としては一級の校舎ができあがった。
その時、自分は6年生だったのでその校舎の第一回卒業生ということになる。
その2年か3年前に、井笠鉄道が開通した。
・・・・・
「小学校時代の思い出」 M男(大正11年度卒業)
私は新校舎ができて第一回の入学生として70余名の学友と入学した。
担任のY先生は今井村より来られて、左ぎっちょの拳骨はかなり印象深かった。
家に帰ると殆んどの者は麦稈真田を編むか,或いは弟妹の子守をするのが日課で、家計の一翼を担っていた。
遊び道具も工夫して、コマ・飛行機・竹とんぼ・竹馬等を作って遊んでいた。
電灯が灯るようになったのは、大正6.7年頃だったと記憶している。
・・・・・
「思い出の記」 M男(昭和11年度卒業)
私たちが入学したのは昭和6年4月、高等科が2年それに補習科や青年学校が併設されて先生もすいぶん多数おられたようです。
その頃、満州事変が勃発----金浦の吉浜、山陽線わきに「大井小学校」の横断幕をたてて出征兵士を見送りに行きました。
列車が通過したたと、田んぼの中に兵隊さんが汽車の窓から投げていった名刺やキャラメル、乾パンをひろい家族の人に届けるのも小学生の任務だったようです。
・・・・・
「雑感」 F男(昭和13年度卒業)
昭和12年7月に始まった支那事変で大井の村もたいへんであった。
村の男たちがつぎつぎと招集で郷里をあとにされた。
赤いタスキと日の丸の小旗は井笠鉄道の大井村駅までつづいた。
一段高いところに立つ出征兵士、見上げて激励の言葉をのべる村長。そして万歳、満開の桜で送ったこともある。
こうした戦時下の6年間であり、勉強のことはあまり記憶にないが課外活動の思い出は鮮烈である。
冬から春に移る季節に、高学年お子供がめいめいに作ってきた割った青竹を手に手に、ウサギのひそんでいそうな山に向けて出陣する。
山のふもとに一線に横一列に展開し、若い先生の合図で、割竹を鳴らして大声をあげ、上へ上へとよじのぼってゆく。
「デタッ」という声がかかった時は、急に勢いずいてスピードが増してくる。
ウサギは脱兎のごとくかける。
山頂には高さ1mくらいの網を横に長くはられており、それにウサギは飛び込む。
もち帰った獲物は、皮をはがれ戸板にピンと張られて乾かされる。
毛皮は兵隊の防寒服の裏に使われる。
肉は蛋白源の補給として、まさに一石三鳥の役目を果たす。
・・・・・
「思い出」 F男(昭和20年度卒業)
私たちの入学は昭和15年4月で、この年から学校の名前も「国民学校」と呼ばれるようになりました。
4年生の頃には、戦争も激しくなり、授業は午前中くらいでした。
また土地におられる若いお父さんお兄さん(当時16才くらい)達が毎日のように戦争に狩りだされて行き、
その軍人さんたちを大井村の駅まで国防婦人の皆様と見送りに行くのが毎日のようにあったと思います。
全校生徒で先生に連れられて、お宮に参っていました。
毎月8日は、きまってました。
5年生のころは戦況も悪化して、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。
上級生と六道の山へ開墾に行き、戦争に勝つため食糧増産にと切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしました。
運動場も大半は耕して、もちろん遊ぶことも運動会もありませんんでした。
6年生の時は、戦況は最悪になり、本土決戦を叫ぶ声も強まって、初等科以外は授業を1年停止。
中学生・高等科の生徒は学徒動員で兵器を作る工場へ連れていかれました。
今思うと、戦争で始まり、戦争で終わった小学時代で、楽しい思い出がありません。
先般百年誌を作るに当たり、年代順に卒業写真を探してみたら私たちだけの卒業写真がありません。しかし71名全員健在でおられることは、何よりの喜びです。