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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学徒動員③笠岡男子国民学校・笠岡女子国民学校ほか

2020年12月29日 | 城見小・他校
国民学校の”学徒動員”は高等科に限定され、
期間も短かったようだが、・・・1~2日では邪魔になるだけ。どうだったのだろう。


「百年史」にも、下記の記述のみ。詳細はよくわからない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「笠岡小学校百年史」 昭和48年発行より

笠岡男子・女子国民学校



女子も男子と同様に軍需工場に動員された。





昭和19年11.27 動員学徒の壮行式(女子校)
昭和20年6.15 学徒出動(女子校・高等科2年)
    6.28 学徒出動(男子校・高等科2年) 大塚工場へ入所式
    7.23 学徒出動(報国鉄工所)(女子校高等科1年)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「笠岡市史・3巻」より

19年11月 神島外国民学校・高等科 女子2年 安田工業(淳和=学校工場)

20年1月 金浦国民学校・高等科 2年 小田造船

20年4月 吉田国民学校・高等科 2年 安田工業(淳和=学校工場)

20年4月 北川国民学校・高等科 2年 安田工業(淳和=学校工場)

20年6月 笠岡女子国民学校・高等科 2年 大塚工場

20年6月 笠岡男子国民学校・高等科 2年 大塚工場



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学徒動員②笠岡高等女学校

2020年12月28日 | 城見小・他校
「もっと勉強したかった」---講演「水島航空機製作所へ学徒動員された女学生」
「岡山の記憶第18号」 岡山.15年戦争資料センター 2016年発行より転記



昭和4年に笠岡町に生まれました。
小学校5年生の時に、紀元2600年、ああ一億はの歌で児童生徒の総決起集会が笠岡商業学校でありました。
昭和17年4月に、憧れの地元の高等女学校に入学しました。

入学した時の一番の希望は英語が習えるということでした。
ところが2年もたたんあいだに英語が廃止になったんです。

音楽は「うみゆかば」
体育は武道、薙刀。教練、号令とか行進、分隊競争。

強行軍、リュックサックの中に2~3キロの砂袋を入れ20~30㎞、今井村大井村を回ってくる。
夏休み薬草、ゲンノショウマとかドクダミの葉っぱを採って、洗って、乾かせて、くくり9月1日に学校へもっていく。

勤労奉仕は、わが家が人手不足でも出征されているお家に行きました。
開墾作業もしました。阿部山というところに、2時間半かかって山の上まで行って、40分開墾してまた学校に戻ってくる。

先輩が日赤の看護学校に入って戦地に送り出されることになって、私たちは駅まで送りに行って手旗を振って、男の人が兵隊に行くのと同じように看護婦さんが紺色の服着てかばんをさげて、窓から乗り出している。

放課後は千人針作り。

先生は、あら、あの先生いなくなったな、兵隊にとられるんです。
残った先生は、兵隊で言えば丙種。銃後を守る男の先生はそうゆう状態でした。

動員令がかかったのが3年生の10月。
それから10ヶ月三菱水島航空機製作所に入所しました。
先輩の4年生、5年生はちがう場所で仕事をしていたようで、3年の私は1分隊10何人ボール盤に配属されました。
夜勤と交代です。
同じ仕事の人と話したことが一遍もありません。もう専ら仕事です。

寮生活ではひもじい思いをしました。
さらさらの雑炊です。

3時に終わって、4時に寮へ着いて、順番に風呂待ちして、ご飯食べて、次の朝6時前に起きて、夜になれば寝るだけ。
新聞もなし、ラジオもなし、
付き添いの先生は30分でも教えてくれりゃよかったのにと思ましたよ。

玉音放送は聞いたけど、養成工が「負けたゆうことじゃ」と教えてくれました。
歓声も涙もなく、ほけーとたたずんでいました。

9月初め学校が始まり、3学期になると今までの穴埋めの特訓でした。
4年生で京都女子大を受験してみたら通った。

戦後の2~3年食べ物がなく困った。
父がコメ袋を寮へ送ってくれるが、駅員が抜いとるんです。
お金にも、食べ物にも困った。

家は爆撃も受けてないし、兵隊にもとられていません。
何の被害も被害も受けていませんが、
女学校の時の戦時教育は・・・・(※管理人記・抗議したいような、納得できない記憶になっている)。




(写真は「笠岡高校七十年史」)




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学徒動員①生石高等女学校

2020年12月28日 | 城見小・他校
学徒動員①生石(おんじ)高等女学校

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【学徒動員】とは
ブリタニカ国際大百科事典


第2次世界大戦中に中等学校以上の学生が軍需産業や食糧増産に動員されたことをいう。
1938年から文部省は中等学校以上の学校に対して集団的勤労作業の実施を指令し,
41年には学校報国隊を組織して勤労動員が行われた。
43年に「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議で決定され,本格的に学徒動員が実施された。
44年には動員はさらに強化され,「学徒勤労令」が公布された。
45年の春には国民学校初等科以外の授業は原則として停止され,全学徒は決戦体制に総動員された。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行

1941年(昭和16)学徒の動員が行われる。
1944年になると緊急学徒動労動員要綱が決定され、動員は年間4ケ月継続とされた。
「国民学校令戦時特例」で就学義務を12歳まで引き下げ、次いで
「学徒動員実施要項」を国議で決定。
1945年(昭和20)「決戦教育措置要綱」で国民学校を除き、4月より授業1年間停止とされた。
そして「戦時教育令」により全学校に学徒隊が編成された。





生石高女四年 A子

頭に白鉢巻をしっかりとしめたもんぺ姿の女学生、
それは、当時4年生だったわたしたちの姿でした。
わたしたちは、最も大事な最後の学年を、倉敷の万寿航空機製作所へと動員されて行きました。
そこでは、航空機の補助翼、水平翼、尾翼等を作っており、それらを水島に運んでは、完全な飛行機に組み立てていたのです。

「ばりばりばり」どんなに大きな声を出しても、隣の人に通じないような騒音の中で、ジェラルミンの板に電気ドリルで穴を
あけては、びょうを入れ、リヤーハンマーで打ちつぶして接合していくのです。
わたしたちは、全寮生活を余儀なくされ、ときどき母が面会に持ってきてくれる物を楽しみに--といっても菓子などあろうはずはなく、「はったい粉」を大事に食べていたものでした。

二交替制のころ、冬の寒い朝、暗いうちに氷を割って顔を洗い、渡り廊下の雪を踏みながら工場へ急いだこと、夜9時ごろ、仕事を終えて冷えきった体ですすった一杯のおかゆのあたたかさ・・・・。
戦争の激化とともに学校教育はまったくあるべき姿を変え、家庭が社会が崩壊していった。







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戦中・戦後の学校変遷(笠岡商業・笠岡女学校)

2020年12月24日 | 城見小・他校
戦中・戦後の学校変遷(笠岡商業・笠岡女学校)


明治以来、何度かの学生改革はあったが、戦後のGHQによる体系の変更は大きい。「複線型教育」から「単線型教育」の「6.3.3.4制」になった。
生活貧困・物資不足と混乱の時代に学校の制度は変わった。


笠岡商業学校と笠岡高等女学校の戦中・戦後をみる。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・
下記より転記。

笠岡商業 「笠岡商業創立90周年記念誌」  平成3年発行
笠岡高等女学校 「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行
・・・・・・・・・・・・・・・・・・



笠岡商業学校

昭和19年4月1日 工業学校に転換、校名を「笠岡工業」とする。
昭和20年3月28日 戦時特別措置として4年制度になる。
(終戦後)
昭和21年4月1日 商業学校と工業学校を併置。
昭和22年4月1日 学生改革により1年生の募集停止。
昭和23年4月1日 岡山県立笠岡第一高等学校と改称。商業・工業・普通の3科。定時制商業化も併設。
昭和24年9月1日 笠岡第二高等学校と合併して笠岡高校と改称。吸江校舎、千鳥校舎の二校舎とする。
昭和25年4月1日 商業・機械の2課程を置き、定時制商業化を併置する。男女共学になる。
昭和28年4月1日 吸江舎・千鳥校舎を分離独立して、岡山県立笠岡商工高等学校と改称。
昭和36年4月1日 工業課程を分離して岡山県立笠岡商業高等学校と改称する。




笠岡高等女学校

(終戦後)
昭和23年4月1日 学生改革により、笠岡第二高等学校として発足。
昭和24年3月16日 旧制高等女学校の最後の卒業式を行う。
    9月1日 笠岡第一高等学校と統合、笠岡高校千鳥校舎。組合立笠岡高等学校を併設(←定時制)
昭和28年4月1日 独立校となる、「岡山県立笠岡高等学校」。
昭和35年3月31日 併設の笠岡市立笠岡高等学校廃止。



笠岡女学校・和20年卒手記  (O子)

昭和19年6月、私たち4年生にも動員令が下った。
昭和20年の新年を迎えたころから、敵機の襲来の数が増した。
がんばっている私たちに、予想もしなかったショック的な知らせが報じられた。
それは4年生で学校の終了課程を終えるということだった。
仕事をしながらも、書物をひもとき、友だち同志で研究はしあっていたけれでも、
もう一度、千鳥ケ丘の教室で勉強したいと思った。
もう少し、女学生生活を明るく楽しいものにしたかったと願ったが、それは時世的にもゆるされなかった。
万寿工場の川べりの柳の芽がふくらみかけた昭和20年3月31日、
動員生徒の合同卒業式が、三菱重工業水島製作所の講堂で行われた。


(昭和20年3月31日 笠岡高等女学校の4年生と5年生が同時に卒業した)




・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なお、本記事とは関係ないが

笠岡市は「成人式を」令和3年は新型コロナウイルスのため来年に延期して、
令和4年1月に2年ぶんの成人式を開催する。合同でなく、日にちは少しずらすそうだ。



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紀元二千六百年記念行事(笠岡商・笠岡高女・笠岡男女校・大井校)

2020年12月23日 | 城見小・他校
紀元2600年記念式典


笠岡商業 「笠岡商業創立90周年記念誌」  平成3年発行


昭和15年11月10日 紀元二千六百年記念式典を行う。
         式後全校旗行列を挙行する。
         記念事業として大井村に二段三畝の造林を行う





笠岡高等女学校 「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行

同窓会館建設「千鳥会紀元2.600年記念事業と合流して同窓会館建設を決定した」



千鳥会館の落成




(千鳥2600年奉祝号)


橿原神宮建国奉仕隊に参加して

 紀元2600年記念橿原宮聖域拡張工事は、去る11月26日めでたく終了した。
其の間本校は6月10日学校長引率下に4年生の諸氏が同校代表として奉仕隊に参加され、
その目覚ましい活躍ぶりは当時新聞にも写真入りで特筆大書された程であった。
各地からの代表5600人は「ああ緑濃き橋原の・・・」と畝傍山にこだまする勇壮な建国奉仕隊の歌に合わせ乍ら、
知るも知らぬも諸共に、只だ日本人なるが故に、聖業への奉仕のために一つに融け合い、寒気も忘れて黙々と作業を続けた。
(千鳥2600年奉祝号 S教諭)





笠岡男子校・女子校 「笠岡小学校百年誌」 笠岡小学校編 昭和48年発行

昭和15.2.6 伊勢神宮参拝旅行出発(9日帰笠) 
   6.19 紀元2600年奉祝銃後奉公祈誓式(笠神社)
   11.5 紀元2600年奉祝小田郡南部児童体育会参加 尋5以上(笠商)
   11.10 紀元2600年式典参加(古城山)






大井国民学校
 
「大井小学校誌」 大井小学校 山陽印刷 昭和52年発行

(記載なし)





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笠岡男子校・女子校時代の思い出

2020年12月23日 | 城見小・他校
「笠岡小学校百年誌」 笠岡小学校編 昭和48年発行





笠岡町男子国民学校の思い出


〇スパルタ教育の一語につきる。

〇昭和4年ごろから毎月はじめに笠神社へ行くようになった。途中から毎月8日に変わった。

〇昭和18年頃海洋少年団ができた。その後、航空少年団ができた。

〇学級編成は忠・孝・敬の3組だった。1学年140~150人くらいで、6年になると進学組と高等科に分かれ2クラスだった。
進学組は成績順に後ろから並んだ。

〇遊び場所は、仁王堂は遍照寺、スサキ通りは智光寺というようにお寺や神社が多かった。

〇にくだん、陣取り、馬飛び、けり馬、たけ馬、パッチン。夏はだいたい海で、東と西の波止場の間が泳げないと一年前ではなかった。

〇笠神社の祭りと正月が小遣い10銭、大仙様の縁日は5銭。








笠岡町女子国民学校の思い出

●印象に残る楠公母子銅像

校門を入ると楠公母子銅像がありました。
なにかあると、その前に全校生徒が並んでお話を聞いたものです。





●ちしゃの木
昔の本館の玄関右にあり、
岡山の後楽園にある木だと言われていました。

●六甲国民学校の児童
昭和18年9月、六甲国民学校の5.6年生が疎開してきました。
玄忠寺や遍照寺などに泊まっていました。
学校から帰ると、よくいっしょに遊んでいました。

●空襲警報
5.6年生を先頭に、畑の中に伏せたり、商業の山に登ったり、墓の中に伏せたり。
陣屋のどぶ川にはいって伏せていた時、すぐ頭の上をB29が通ったこともありました。


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昭和の笠岡男子校・女子校

2020年12月22日 | 城見小・他校
 「笠岡小学校百年誌」 笠岡小学校編 昭和48年発行


(大正5年男女両校御真影奉戴、県庁通りにて。左男子校児童、右女子校児童)




(大正末の笠岡)



(女子尋常高等小学校、町立笠岡女学校も校内にあった)




・・・・・

昭和2年5.21 アメリカ人形展覧会開催(女子校)


・・・・・

昭和3年11.10 今上天皇即位の大典、全児童旗行列(男女両校)



・・・・・

昭和4年10.2 遷宮遥拝式挙行(外宮建てかえ)


・・・・・

昭和5年10.20 御真影奉安殿竣工(男女両校)


・・・・・

昭和6年1.13 御真影返還(男女両校)
    1.21 御真影奉戴し奉拝式挙行(男女両校)
    3.30 国旗掲揚台竣工(男子校)女子校は4.1竣工


・・・・・

昭和7年 2.9 二宮尊徳翁幼時銅像建立(男子校)
    9.18 満州事変一周年記念旗行列(女子校)



・・・・・

昭和12年4月29日 大楠公銅像 男子校正面玄関脇に建立





・・・・・


昭和15年2.11 学校神社建立(男子校)
   10.7 楠公母子銅像除幕式(女子校) 





・・・・・

昭和17年1.30 二宮尊徳銅像供出(男子校)
    2.13 二宮尊徳陶像建立(男子校)
    2.18 シンガポール島陥落、祝賀式ののち、旗行列


・・・・・

昭和18年8.27 大楠公銅像供出(男子校)
    11.25 楠公母子銅像除魂式、楠公母子陶像入魂式を挙行(女子校)







・・・・・

昭和19年11.27 動員学徒の壮行式(女子校)



・・・・・

昭和20年.1.23 鍛錬遠足を兼ねた、どんぐり蒐集を行う(女子校)
   2.28 6年の疎開児童のための送別式を挙行(女子校)
昭和20年4月3日 6年生の代表児童、高島宮参拝(この年をもって終わる)
    4月15日 井戸公例祭参拝(この年をもって終わる)
    6月15時 学徒出動(女子校高等科2年)
    6月28日 学徒出動(男子校高等科2年)大塚工場へ入所式 8月27日退所式
    7月23日 学徒出動 報国鉄工所 女子高高等科1年
    8月16日 児童を臨時招集し、戦争終結について校長訓話



・・・・・




昭和21年
1月11日 御真影を地方事務所へ奉還
    8月27日 連合軍司令部の指令により、奉安殿・学校神社撤去
    12月5日 連合軍司令部教育係大尉2名が本校を巡視し、事務室の検査、校舎の巡視、学校長、児童、教員に質問を行う



・・・・・


昭和22年10月1日

笠岡男・女校が西小・東小による男女共学
全児童が運動場に出て、各クラスとも東小から西小、西小から東小へ行く児童、そのまま残る児童と二列に並び、
行進曲でいっせいに別れていった。

本日をもって実質男女共学となった。
どちらもライバル意識を持ち勉強、遊びに対抗意識が強かった。
しだいに学校全体の空気が和らいできた。


・・・・・

昭和33年頃 笠岡東小学校




昭和42年頃 笠岡東小・西小










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奉安殿(笠岡商・笠岡高女・笠岡男女校・大井校)

2020年12月20日 | 城見小・他校
奉安殿(ほうあんでん)も二宮金次郎像も、昭和10年頃から20年頃まで、どの学校にもあったが、
ほぼ10年で消えた。


金次郎像は奉公に出されて溶かされた。その2~3年後、奉安殿はGHQの指令で解体除去された。



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笠岡商業創立90周年記念誌」  平成3年発行



御真影に向かって











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「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行

笠岡高等女学校




奉安殿 (昭和4年3月落成)





奉安殿落成式

昭和4年3月25日第15回卒業式の当日午前9時から、
奉安殿の落成式が挙げられました。
一同殿前に集合、祝詞を奏し、次に校長が恭しく御影を奉遷せられ、
職員総代生徒総代工事請負人の順に玉串を献ぜられました。
最後に本工事功労者、森岡氏の表彰があって厳粛裡にその式を終りました。

因みにこの奉安殿は御登極記念事業として、本校職員生徒全部の寄附になるもので、
石川本県技師の設計になり、様式は住吉造、屋根は銅葺、鉄筋コンクリートの永久的建築でありまして、
場所は玄関の西側、その後周囲に10幾本の松樹が植付られたので、
緑の枝の中に千木高く聳え、宮柱太しきたちにて、自ら頭の下がる神々しさでございます。
(千鳥18号)








桜道を登り、いくつかの石段をあがると、左に奉安殿がありました。
奉安殿を通るときは、皆必ず最敬礼をしたもので、
袴をはいた女の先生の最敬礼の独特なスタイルが、今も目に浮かびます。
(M子 昭和6年卒)









・・・・・・・・・・・・・・・・・


「笠岡小学校百年誌」 笠岡小学校編 昭和48年発行

笠岡男子校
笠岡女子校




学校神社建立(男子校) (昭15.2.11)







奉安殿前に整列する女子国民学校児童




昭和21.8.27 連合軍司令部の指令により、奉安殿・学校神社撤去




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大井小学校誌」 大井小学校 山陽印刷 昭和52年発行


昭和10年 御真影奉安殿を三好佐太郎氏寄付により建築す
昭和11年 御真影奉遷(昭11.3.4)



奉安殿(昭和10年落成)

天皇・皇后陛下の御真影を安置申し上げた。
校門を出入りする時、必ず奉安殿に向かって最敬礼をした




 
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昭和の学校史⑤大井小学校その2

2020年12月20日 | 城見小・他校
「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)

【座談会】

明治生まれ


・学校は、本校が宗岡、分教場が小平井住山と西大戸に分かれていた。
現在の地には大正4年9月に移転した。
・読み書きそろばんが主で、理科や図工は5年生から、唱歌は君が代を歌った程度。
・服装は、着物・帯・前だれ・そうり履き、冬は袖なしを着ていた。
・勉強道具は風呂敷に包んで腰にくくっていた。
・パンツをはいている子が少なかった。
”ひざを曲げ””足を上げ”の号令の時にはまる見えになっていた。
・石筆で石板に書いて習った。
・勉強は真田くみや牛飼いが終わらなければしてはならなかった。
・明治41年に学生改革があり、4年で卒業して、また6年で卒業式をしてもらった。
・尋常高等小学校は、大井になかったので東大戸と小平井は笠岡へ、西大戸は金浦へ行かされた。


・遊びは、ぶちごま、たこ、竹馬、なわとび、陣取り、お宮で木に縄をかけてブランコ。
・おはじき、お手玉、チリンコ、けまり。



(「明治から大正初期の服装」全員和服、最前列はべべちゃんこ、右側の女先生は横を向いている、頭は束髪)






大正生まれ

・大井は陸上競技が優秀で、他校との合同運動会では優勝旗を8本も持って帰ったことがある。
・女子は5年まで着物、6年から白黒の縞のスカートをはくようになった。
・授業の始まりと終わりは高等2年の生徒が太鼓を叩いて知らせていた。
・体操の時間には道上池で水泳訓練をした。

・遊びは、ケンケン相撲、背とび、リームころがし、ブリキごま
・まりつき、お手玉、チリンコ




(「高等科生徒」、大井小には大正5年4月高等科ができ、大井高等尋常小学校と改称した)



(「昭和初期・尋常科生徒」)





昭和初期生まれ

・「ハナハト」から「サイタサイタ」に変わった。
・1クラス72~73人の大学級だった。しかし男子と女子が並ぶことはなかった。
・満州の兵隊さんにウサギの皮を送るというので授業そっちのけで、学校の裏山でウサギを追い回した。
・紀元2600年の記念式典があって、旗行列や運動会をよくした。

・遊びは、ラムネ玉、釘立て、パッチン、竹とんぼ、コマ。

  


昭和中期生まれ

・開墾開墾で、小平井の分教場跡、六道、門田、鳴淵などへ鍬をかついでよくいった。
畑には芋やとうきびを植えて、学校でふかしたり、焼いて食べていた。
・運動場は大半が芋畑で、勉強も運動もなかった。炭焼きをして学校で使っていた。

・遊ぶことは少なかった。
・学校から帰れば、牛飼い、さなだ組み、子守、トラックや魚売りの押し子(才の神の坂を押してお金をもらう)
・出征兵士を吉浜まで送りに行った。大井出身の兵士は大井村駅まで旗をもってみんなで送ったものだ。




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昭和の学校史⑤大井小学校

2020年12月20日 | 城見小・他校
「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)
より転記する。


(講堂)

--------

大正5年・高等科を併置し、大井尋常高等学校と改称す
大正9年・今上天皇・皇后陛下御真影を奉戴す
昭和8年・講堂起工・落成
昭和10年・御真影奉安殿を三好氏寄付により建築す
昭和11年・御真影奉還
昭和16年・大井国民学校
昭和20年・初等科2個学級増加
昭和22年・高等科廃止、大井小学校
昭和23年・1学級増加12学級
昭和46年・新校舎落成


・・・・・



旧職員の思い出
「終戦前後の思い出」 笠岡市吉浜 K男(昭和52年80歳)

昭和18年4月大東亜戦争の真最中、新山校から大井校へ転任、それから昭和24年まで6ヶ年勤務しました。
その間、多数の戦士を村人とともに戦場へ送りだしました。
当時の村長、助役、収入役、農協の組合長さん等の緊張された顔が浮かんで参ります。

戦況はいよいよ深刻になり、国民の食糧さえ乏しく、小国民も食糧増産に参加して、
蛸村と小平井の2個所に開墾畑を作り用具や資材を運び汗を流しての国の方針に尽くした風景が今も明確に眼底に残っています。

昭和20年8月15日正午、あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止めどもなく涙が流れ、職員室で何時間も机にかじりつき悲しく動けなかった事が思い出されています。

戦後はマッカサーの指令とかで、大切に使用していた掛図や図書は一纏めいして提出、どう処理されたかは不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし極度の動揺を来たしました。

尚、在任中青年学校が吉田校へ組合立で参加したこと、戦後六・三制の実施に当たっては西中に通うようになったこと、
PTAを初めて作り多数の参加を戴いたことは大きな出来事でした。



・・・・・

卒業生の思い出
「小平井分教場のこども」 M男・大正4年度卒業

大井小学校小平井分教場に入学したのは明治44年4月、ところは住山の公会堂のあたり。
現在の道路を挟んだ南の部分が運動場。

運動場の北が一段高くなって校舎。
校舎といっても上手水のついた農家の母屋と長屋で、ガラスの入った障子は一枚もない。

先生は3人、複式学級編成だ。
朝学校へ行く。
当番は七輪に火をおこし、薬缶をかけてお湯を沸かす。
近くの川のほとりの野井戸からバケツに水を汲んで、2人でさげて帰る。
それが使い水であり、飲み水でもある。
その頃、先生が見える。
岩倉から自転車のG先生、今立のY先生、園井のN先生。

服装は木綿の筒袖の着物。
冬は羽織を着る。明治45年頃からさるまたをはいた。
帽子は学生帽、祝祭日には小倉の袴をはいた。
女のことはよくは知らないがずーとノーパンだったろう。

大正4年9月、現在の位置に木造2階建て外部ペンキ塗りの、その当時としては一級の校舎ができあがった。
その時、自分は6年生だったのでその校舎の第一回卒業生ということになる。
その2年か3年前に、井笠鉄道が開通した。


・・・・・


「小学校時代の思い出」 M男(大正11年度卒業)

私は新校舎ができて第一回の入学生として70余名の学友と入学した。
担任のY先生は今井村より来られて、左ぎっちょの拳骨はかなり印象深かった。

家に帰ると殆んどの者は麦稈真田を編むか,或いは弟妹の子守をするのが日課で、家計の一翼を担っていた。
遊び道具も工夫して、コマ・飛行機・竹とんぼ・竹馬等を作って遊んでいた。

電灯が灯るようになったのは、大正6.7年頃だったと記憶している。


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「思い出の記」 M男(昭和11年度卒業)

私たちが入学したのは昭和6年4月、高等科が2年それに補習科や青年学校が併設されて先生もすいぶん多数おられたようです。

その頃、満州事変が勃発----金浦の吉浜、山陽線わきに「大井小学校」の横断幕をたてて出征兵士を見送りに行きました。
列車が通過したたと、田んぼの中に兵隊さんが汽車の窓から投げていった名刺やキャラメル、乾パンをひろい家族の人に届けるのも小学生の任務だったようです。


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「雑感」 F男(昭和13年度卒業)


昭和12年7月に始まった支那事変で大井の村もたいへんであった。
村の男たちがつぎつぎと招集で郷里をあとにされた。
赤いタスキと日の丸の小旗は井笠鉄道の大井村駅までつづいた。

一段高いところに立つ出征兵士、見上げて激励の言葉をのべる村長。そして万歳、満開の桜で送ったこともある。
こうした戦時下の6年間であり、勉強のことはあまり記憶にないが課外活動の思い出は鮮烈である。

冬から春に移る季節に、高学年お子供がめいめいに作ってきた割った青竹を手に手に、ウサギのひそんでいそうな山に向けて出陣する。
山のふもとに一線に横一列に展開し、若い先生の合図で、割竹を鳴らして大声をあげ、上へ上へとよじのぼってゆく。
「デタッ」という声がかかった時は、急に勢いずいてスピードが増してくる。
ウサギは脱兎のごとくかける。
山頂には高さ1mくらいの網を横に長くはられており、それにウサギは飛び込む。

もち帰った獲物は、皮をはがれ戸板にピンと張られて乾かされる。
毛皮は兵隊の防寒服の裏に使われる。
肉は蛋白源の補給として、まさに一石三鳥の役目を果たす。


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「思い出」 F男(昭和20年度卒業)

私たちの入学は昭和15年4月で、この年から学校の名前も「国民学校」と呼ばれるようになりました。
4年生の頃には、戦争も激しくなり、授業は午前中くらいでした。
また土地におられる若いお父さんお兄さん(当時16才くらい)達が毎日のように戦争に狩りだされて行き、
その軍人さんたちを大井村の駅まで国防婦人の皆様と見送りに行くのが毎日のようにあったと思います。

全校生徒で先生に連れられて、お宮に参っていました。
毎月8日は、きまってました。

5年生のころは戦況も悪化して、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。
上級生と六道の山へ開墾に行き、戦争に勝つため食糧増産にと切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしました。
運動場も大半は耕して、もちろん遊ぶことも運動会もありませんんでした。

6年生の時は、戦況は最悪になり、本土決戦を叫ぶ声も強まって、初等科以外は授業を1年停止。
中学生・高等科の生徒は学徒動員で兵器を作る工場へ連れていかれました。

今思うと、戦争で始まり、戦争で終わった小学時代で、楽しい思い出がありません。
先般百年誌を作るに当たり、年代順に卒業写真を探してみたら私たちだけの卒業写真がありません。しかし71名全員健在でおられることは、何よりの喜びです。


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