しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

子供の遊び

2020年06月17日 | 城見小・他校
みたどん
かくれんぼ。
見つけたら「みたどん」という。見つかった人が鬼に変わる。
木の上に登って隠れると、鬼から逃れることがよくあった。
ただし、
夕暮れに始めた遊びは、暗くなっても木から下りれなかった。

缶蹴り
これも、かくれんぼの一つ。
鬼がいない隙に、おもいっきり大きな音が出るように缶をけっていた。


カンカン(空の缶詰)に穴をあけ、ひもを通して、両足にカンカンを履いてあるく。それだけ。

たこあげ
奴だこをあげていたが、ひきずるので尻尾はちぎれるし、飛ばせばトウガキの枝にかかって破れ、
たいてい2度ほどでおじゃんになっていた。
それでも正月が近くなると毎年あげていた。

こま
小学の2年生くらいまで。
男子は必ず体験する遊びだった。

ゆきだるま
雪だるまが可能なほど、雪が降ったことがない。

へび
つかまえたら、しっぽを持って振り回して遊ぶ子がいた。

蝉の幼虫取り
夏休みの夕暮れの楽しみだった。
家に持ち帰り、
えんだの柱を上って、途中止まって、蝉に脱皮していた。
それは晩飯後の楽しみだった。

たきび
子供の焚火は危険なので、大人がしていたら、近寄って温もっていた。

すもう
学校でも野原でも田んぼでも、相撲は大人気だった。
おかげで、いつもバンドを通すところが破けていた。

釣り
海で釣るのは2~3度あるだけ。
ため池でフナを釣っていた。

杉でっぽう
細い青竹で作る。
杉の実を集めに山へ行く。
飛ばすときパンと音がして2~3m飛んでいたような気がする。

くぎ打ち(くぎさし)
地面に図を描き、その内部に
釘を地面に力いっぱい打ち付ける。

ヨーヨー・けんだま・びーだま
お金が要るものはしなかった。

すごろく
漫画雑誌の付録にあった。それで遊ぶ。

うつし絵
店で買うもので、一番安い玩具。
紙を手に貼って、模様が腕に映っていた。

木登り
お宮の参道前の木に登って遊んでいた。
その他、各人の家の前後の木に登っていた。

ターザンごっこ
茂平の宮ノ端のふきんや、浜の荒神さん。
荒神さんには、いいカズラがあって”アアアーーーー”
とブランコのように飛んでいた。

水晶取り
高丸で水晶が出ていた。
畑から見つけたらもって帰っていた。

幽霊屋敷
近所に大きなお屋敷があり、塀も立派で、中庭に大きな椿があった。
土蔵や母屋は空き家で、
持ち主は、満洲で財を成したが、帰国できなかった(外地で殺された)という話だった。
その家に入って遊んでいた。
大きな家なので、何度入っても違うスリルが楽しめた。
(・・・・それから20~30年経って更地になった)


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城見小学校の様子

2020年06月11日 | 城見小・他校
学校
子供は、ほぼ100%城見小学校へ入学。
稀に城見よりもレベルが高い笠岡西小や東小へ行く。
中学校は金光学園に進学の人がいる、残りは全て金浦中学校。

先生
男女はんはんくらい。
大津野村と笠岡市内。
徒歩と自転車通勤。バスや自家用車はいない。
代用教員が何人かいた。「ダイヨウ」と呼ばれていたが、その言葉は、子供心にいい響きでなかった。


通学
保育園から小6まで列で学校へ行く。
茂平の場合、銅山、西ノ谷、青木、旗涯地などに分れ、男女別々に出発。
学校が近くなると茂平や大冝や用之江の列も集まり、一応壮観な感じがしていた。


順番
クラス番号は生年月日順、整列は背が高い順番。

男女
机は二人で一つ、男女で一つだった。男女同席。


便所
城見小の便所は怖かった。


廊下の掃除
長い廊下を米ぬかの袋で、端から端まで一直線に走って拭いて、ぴかぴかにしていた。


学科
算国理社と音楽・体操・図工だったかな?
5年生までは、全科目を担任の先生が教えていた。
6年生になって、一部科目を6年生の担任同士で取り替えた。


授業
黒板に書く。説明する。本を読ます。生徒に質問する、生徒が答える。
テストをする。
宿題を出す。


行事・正月
学校へ行って、講堂で校長先生の訓話を聞いて、担任の先生から菓子袋をもらって帰宅する。それだけ。
せっかくの正月を半日潰され、毎年不満に思っていた。
校長先生の訓話に必ず「年の数だけ雑煮を食べた人は手をあげてください」があった。


行事・学芸会
学芸会は二日間あった。
大冝を二班に分けて、用之江と茂平にはんぶん配置した。
歌あり、芝居あり、楽器アリ。
暗幕を張って、照明を使い、舞台は楽しかった。
席の中央付近に写真屋がいて、写真を撮っていた。
三学期は学芸会に始まり、終わるとその学年が終了していた。


行事・入学式
6回見たり、経験しているけど、ほとんど記憶にない。

行事・遠足
旅行は楽しかったけど、歩くだけの遠足は結構しんどかった。


行事・運動会
秋の最大の行事。
準備の訓練を何度もし、一日かけての予行演習もあった。

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少年雑誌(漫画雑誌)を買いに

2020年06月11日 | 城見小・他校
少年雑誌(漫画雑誌)を買いに

年に2~3度、少年雑誌を買いにいくことがあった。
行先は大門駅前の商店街(という程ではないが)の小さな雑貨店だった。
行くのは3人くらい。
自転車に1人、その前を走る人、その後ろを走る人。家で待機が1~2人。
3人で出発。
まず坂里峠を目指す。
峠からの坂道は山賊が出るという場所があるので、特にスピードで坂を下る。
野々浜の山際の道を大門駅へと向かう。
お寺の踏切を渡ると、来たなあという感じになる。
駅前の小さな店のガラス戸を開けて、少年雑誌を選ぶ。
行く前から決めているが、小さな店なので売り切れて無いこともあった。
買ったら、同じ道を帰る。
坂里峠を越えると茂平。
家まで帰ると、買った人が本を読む。付き添いと、待機していた人は付録の本を読む。
そうして、全員が本と付録をすべて読み終わると、
「本を買いに行く」ことが終わったことになった。

・・・・・・・・・・・・・・・


宮ノ端の三角ベースボール

宮ノ端は茂平の少年の草野球場だった。
内野と外野の間に道が通り、内野は岩凹もあり斜面にもなっていた。
いちばん惨めが、キャッチャーが後逸すると葦の沼に入って球を拾う必要があった。
それでも貧しい昭和の茂平の少年には楽しい場所だった。
両チーム併せてもグローブを持っている子は1~2名。
バットも1~2本。
ボールも1~2個。
バットやグローブを親に買ってもらうということは、遊びの時は全員の共有物になっていた。
低学年の時は、バットは山の木を削ったものを使っていた。
手の器用な少年が作ったバットだが、円形ではあるが、不自然そのものの形をしていた。
グローブは簡単だった。肥料や飼料の空袋を折ればいい。折り方も簡単だった。
上級生は素手が基本だった。
松の大木がホーム近くにあり、
暇人が「なんと申しましょうか・・・」と松の木に登って、一人で高いところからラジオ中継をしていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

運動会は秋に三度あった


運動会は、城見小学校の校庭で三回あった。
小学校の運動会。
地区の運動会。
青年団の運動会。
祭りと並ぶ、秋の大きな楽しみの行事だった。

小学校の運動会は、小学校と保育所が合同。子供専用。
地区の運動会は、城見公民館が主催。子と親と祖父母の三世代。
青年団の運動会は、城見青年団が主催。青年団の専用。
運動会はどれも盛大だった。
子供にとっては、
小学校は出番が多い。
地区は出番が少なく、娯楽として楽しめる。
青年団は出番がないが、主催者が若者で勢いがあって、見て楽しかった。

青年団のプログラムの最後はマラソンで(校庭を10周くらい)、いつも”浜のKちゃん”が優勝していた。
特にラスト一周はすごかった。
そうゆう”浜のKちゃん”でも、笠岡の大きな大会に出ると優勝はできないという噂だった。
”浜のKちゃん”は好漢、絵に描いたような善人だったが、労働災害のため、40才位の時に亡くなられた。


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ところてんを作る

2020年06月09日 | 城見小・他校
ところてんを作る

満潮の海は必ず6時間後に干潮になる。陸地が沖へ延びる。
大潮の干潮でトコロテンを採って遊ぶ。
そのトコロテンを家に持って帰る。
クドで煮る。
熱い真夏のクドは汗が飛び散った。
どろどろになったトコロテンをアルミの弁当などに流し込む。
少し経つと固まってくる。この時が面白った。
固まったトコロテンを包丁で切って食べる。
まだ温いトコロテンで、海藻の匂いがするだけの、美味しいものではなかった。


・・・・・・・

越中褌

海で遊ぶ男の子は、海パンか褌だった。
褌は黒くて細く、少量の布と紐でできていた。
褌でなく”越中フンドシ”と呼んでいた。
半分か、それ近く越中フンドシの人がいたから、それなりに着心地がいいのか機能的だったのだろう。
管理人は海パンだった。
女の子の水着は覚えていない。
海で遊ぶのは男の子だった。


・・・・・・・

図柄の浮き輪

家から海までは、どの子も水着で行っていた。
手に持つものは、
水中メガネ
浮き輪か桐の丸太
があったが、多くは何も手にしないで海に行った。
水中メガネは、
付けても水が漏れて入る。
桐の丸太は、
浮き輪の代わり。茂平の子で低学年。高学年は持って行かない。
浮き輪は、
町から来た子。
笠岡や福山から来た子は、白一色の浮き輪だった。
大阪や東京から来た子は、カラーでデザインがしてあった。
図柄の浮き輪は、茂平の子供にとって、それはまぶしかった。


・・・・・・・

ムカゼとカブトムシ

桃の出荷が最盛期になると、どこの子も手伝いをしていた。
畑からホボロに10箱20箱と家の裏小屋まで持って帰る。
そこでは、ゴザを敷いて、その上に桃を置く。
桃は親が手にして等級(3等級くらい)に分けていた。
その準備作業で、
子供はホボロから一個づつ手にして紙袋から取り出していた。
桃は甘い果物なので、紙袋から桃といっしょに虫が出ることがあった。
カナブン。これは逃がす。
カブトムシ。角がある雄は歓迎。雌は逃がす。
ムカゼ(むかで)。問題はムカゼ。下手をすると紙を破った瞬間に噛まれる。
ムカゼも大きいのから小さいのがいた。桃と一緒に出てきても、どうしょうもなかった。
いないことを願うだけ、見たら触れずに、落としてずたずたにする。
ムカゼはほんまに嫌だった。



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小学生の生活・・・その1

2020年06月07日 | 城見小・他校
「昭和こども図鑑」奥成達著 2001年ポプラ社発行
に出てくるものを自分の経験範囲で書き残す。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ちゃぶだい
ちゃぶ台の定義は知らないが、円形か四角形のテーブルはあった。
家族7人が揃って食べるということは、ほとんどなかった。
親は食べる事よりも仕事が大事で、(仕事が好きというのでなく、稼ぎのため)
落ち着いて食事をするのは年に数度のことだった。
食事の前後は、蚊やハエを防ぐ網傘をテーブルに置いていた。


トースター
冷蔵庫
洗濯機
テレビ
トースターは高校卒業してから
冷蔵庫は高校の2年生の頃だった。
洗濯機、中一か中二の時に買った。
テレビは中二の時だった。
大好きな相撲を見ようと思ったら、大ファンの若乃花が引退し一度も家で見れなかった。



縁台
夏の夜は、縁台を庭に出していた。
夕方は、蝙蝠が飛ぶのを眺め、
暗くなると、天の川を眺めていた。
時折、流れ星が落ちていた。
たまに、花火をしていた。
夏休みの好きな時間だった。


扇風機、エアコン
なかった。
田舎の農家に、
そんなものは必要がなかった。


蚊帳
蚊帳の中に入るのは、
夏の夜の寝る前の楽しみだった。


火鉢
火鉢は10個くらいはあった。
陶器や金属。
普段用と来客用。
その頃、
集会所や公会堂はなく、各家での輪番制で寄り合いをしていた。
ふすまを外して大広間、座布団、灰皿、火鉢は必需品だった。
金属は装飾品を兼ねるのもあった。
会合が終わると、飲めや歌えの時があり
茂平の飲み会は、終了無制限でつづいていた。
まあワヤだった。
でもこれ以上ない平和の時代だった。


練炭、堅炭、豆たん、消し炭、たどん
メインは消し炭だった。唯一無料のもの。
練炭は干しイチジク用のウムシに使っていた。
堅炭は、来客時に火鉢と、ふだんの七輪の料理に使っていた。
豆炭は、炬燵や、その後の豆タンあんかに使った。
たどんは何に使っていたかな?


煙管
祖父は人生キザミたばこ、いっぽん。
キザミを手にして
指で煙管に詰めていた。
火をつけて、ふぉ~~と、吸うような、吐くようなタバコだった。
晩年には茂平の最後のキザミの人となり、
吉本商店が、祖父一人のためにキザミを仕入れてくれていたという。
祖父は昭和60年くらいまでタバコを吸っていた。


煙草盆
祖父は、家で吸うとき煙草盆を身の前にもってきて吸っていた。
父のタバコは両切りタバコで、
昭和40年代になってフィルター付きのタバコに変えた。


ミシン(足踏み)
母は嫁入り道具にミシンを持ってきたことを自慢していた。
そのことは子供でも管理人にしか言わなかった。
管理人もまた、だれ一人母の自慢を話さなかった。
人様に自慢できる話でなことは母もわかっているが、自己満足だけではさみしかったのであろう。
母はミシンを大切に使った。
”織物ができなければ嫁にいけない”時代は過ぎていたが、
裁縫、縫物は大切な嫁入り条件だった。
最晩年の母は、毛糸でタワシを編んでデイサービスの仲間に配って喜んでもらうのを楽しみにしていた。


鏝(こて)
火鉢には鏝が入っていた。
こてはアイロン代わりに使っていた。


電信柱・枕木
クレオソートが塗られた丸太や各材。


裸電球
時々、フィラメントが切れた。
取り替えるのは子供の役目。
電球は、
♪お花になった・・・とんとん東芝の~マツダランプ、


電話
用之江の農協に1台あった。
城見小学校にはなかったような。


アッパッパ
祖母の夏服だった。


もんぺ
母の日常着。ふだんぎ。年中、朝昼晩がもんぺ。


日向ぼっこ
冬の寒い日、庭のいちばん日当たりのよい場所。
そこで老人が日向ぼっこをしていた。
猫といっしょで、ほとんど動かない。
年齢は80才を越えた人。
その当時の80才は、今で言えば95才位に相当する。


イガグリくん、おかっぱ
男の子は坊主頭。人気漫画に「イガグリくん」があり、イガグリ頭とも言っていた。
女の子はおかっぱ。三つ編は小学生にはいなかった。
男は家で刈っていたが、女の子は床屋か理容院に行っていたようだ。


蝉とり
蝉取りは道具は、
母が切れ端の布で作った袋を番線(はりがね)に通して竹竿の先に付けたもの。
竹竿の先の番線にクモの巣を付けたもの。
素手(手のひら)。
このうち、クモの巣が多かった。
良いクモの巣を探して歩くのが、すでに一つの遊びだった。
にいにい蝉に始まり、あぶら蝉、大きなクマゼミが出てくるころは、近所で誰が最初に取るか気になっていた。
遊び95%、残りの5%は「昆虫採集」がたまにあった。


トンボとり
トンボは近寄っても逃げないので、人差し指をぐるぐるしてつかまえようとするが、取ったためしがない。
ヤンマを捕まえると自慢になっていた。


ローラースケート、ホッピング
なし。


少年雑誌
男の子は「冒険王」「漫画王」「痛快ブック」「野球少年」「少年倶楽部」「少年」「少年画報」があった。
どの本にも看板の漫画作品が一つ二つあった。
最初のころは、付録は漫画本が2~3冊つく程度だったが、次第に付録を競うようになって十大ふろく、十五大ふろくとなっていった。
年に3回くらい親が買ってくれた。
その頃の子供は、同じ漫画(読んだ漫画を)50回、100回と繰り返し読んでいた。それでも飽きなかった。


おまけ
グリコキャラメルは「おまけつきグリコ」、使えないオモチャがおまけだった。
ハリスチューインガムを買うと、たまに「当り」があり、もう一つもらえた。
カバヤキャラメルは「カバヤ文庫」で一時代を残した。
日の丸キャラメルは券を集めると、何かもらえたが、「何か」を思い出せない。


懸賞
 家で近所の子と遊んでいたとき、郵便屋さんが来て小包を渡した。
子供あてになっていて、みんなの目の前で、全員注目のうちに箱を開けた。
すると(漫画王だったと思うが)雑誌の懸賞の三等賞に当たりました、という紙と共に、更に小さな箱が出た。
箱はトランプだった。
そのトランプは10年間ほど使った。
 懸賞に応募するにはクイズの正解を求められた。
ある時「野球少年」は選手名を書かなければいけないが、誰かわからない。
困っていると、野球大好きなおじさんがいるいのを思い出した。
宮の端で三角野球をしてると、野球好きなおじさんが来た。
おじさんに雑誌の写真を見せると、即答があった。
「これは別所毅彦じゃ」
さすがにおじさんと思った。
今のようにテレビや映像がある訳でなく、新聞のスポーツ蘭は全スポーツで半ページ程度の時代に、なかなか即答はむずかしい。


街頭テレビ
力道山のシャープ兄弟や木村正彦とのプロレスを、国民は熱狂しながら街頭テレビを見ていた・・・ことになっているが。
部分的な事実だが、真実ではない。
いったい何処のどこであった話だろう?
すくなくとも、笠岡や福山や倉敷では、無かった。
中国地方で可能性があるとすれば広島市と岡山市程度。
おそらく映画館のニュースで何秒間か見たのが現実であって、
街頭テレビで昂奮したのは国民のパーセント以下の数であろう。


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小学生の食べ物

2020年06月06日 | 城見小・他校
「昭和こども図鑑」奥成達著 2001年ポプラ社発行には、
下記の食べ物が出てくる。
それを自分の城見小学校時代と重ねてみる。

【重なるもの】と【重ならない】ものがある。


・・・・・・・・・・・

【重なるもの】

コッペパン
ごはん給食はなかった。
給食ではパンだった。
このパンを”コッペパン”と呼んでいた。
ふつうパンは、かじって食べていたが、学校ではちぎってから食べていた。
断面に人造バターを塗ったり、汁に漬けてから食べていた。
もちろん、学校給食でパンに限らないが、残したことは一度もない。


脱脂粉乳
バケツに入った牛乳を先生が一人いっぱいづつ、金属の容器に注いでくれた。
(途中から生徒がするようになった)
脱脂粉乳はうまくない、という声もあったが、まずいと思ったことは一度もない。


クジラの竜田揚げ
クジラの揚げものはよく出た。二日に一度は出たような気がする。
それほど定番中の定番だった。
「竜田揚げ」と呼ぶのは後年に知った。


人造バター
給食にパンの側についていた。


バター
たいてい人造バターだったが、週に一回くらい、ほんとのバターが出た。
人造バターもバターも、学校給食以外で食べることはなかった。


ライスカレー(カレーライス)
給食で食べた。
家で食べたことはない。


缶詰
家でたまに、サバか魚の缶詰が出ることがあった。
缶切りで円に沿って蓋を切った。
缶詰から出る食べ物は珍しくて好きだった。
父が「兵隊の時はよう食うとった」というので、
兵隊はええなあと思っていた。


稲荷ずし・巻きずし
遠足や運動会や学芸会の日の弁当だった。
稲荷すしは、
狐すし・コンコンすしとも呼ばれていた。
巻きずしは、家の家計状況を反映し、黒い海苔から青茶色の海苔があった。
10年ほど前から、
節分の日限定の”恵方巻”という巻きずしができた。


かき氷
かき氷は夏の最大の楽しみだった。
茂平の番屋のお店。これが一番。
大門駅のお店。かき氷よりも、お店のテレビが楽しみだった。
笠岡駅前の金光眼科の隣の店。
どれも、食べれるだけで嬉しかった。


ラムネ
ごく稀に買ってくれていた。
ラムネの玉が気になる飲み物だった。

三ツ矢サイダー
シュワーとして、瓶の量が多かった。兄弟3人で分けて飲んでいた。

アイスキャンデー
自転車で笛を鳴らしながらやってきた。
何回かに一度買ってもらった。
1本5円のと、10円のがあって、いつも5円。
10円の人がうらやましかった。


・・・・・・・・・・・


【重ならない】もの

お子様ランチ,チキンライス
まったく縁がない。

トンカツ
言葉も知らなかった。


にぎり寿司
まったく縁がない。20才を過ぎてから。

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ザクロを食べる

2020年06月06日 | 城見小・他校
ザクロを食べる

よその家の熟れたザクロを見て、食べたくて仕方なかった。
それを親に言うと庭に一本ザクロを植えてくれた。
それから毎年・毎年秋が来るのを待っていた。
何年か経って、ようやくザクロに実がなり、その実が熟れてきて食べごろになった。
待ちに待ったザクロの実を採って食べ始めた。
しかし、
目で見るイメージとは違って、食べてもうまくない実だった。
あれは観賞用の実であると知った。
翌年も、それ以後も秋になるとザクロの実はきれいに熟れるが、
もう食べたいと思ったことは無かった。
人生一個のザクロで終わりそうだ。

・・・・・

サッカリンで煎り粉を食べる

おやつ代わりに煎り粉(いりこ=はったい粉)を食べていた。
粉に水と砂糖を入れて箸で混ぜるだけ。
しかし、
砂糖は貴重品でめったに使うものでなかった。
代わりにサッカリンがあった。
包丁を逆さにしてサッカリンを半分に割って、砂糖の代わりに利用していた。
このサッカリンは強烈な甘みがあって、いやありすぎて、
空いた腹に通すだけのおやつだった。


・・・・・

きな粉ご飯を食べる

戸棚に、皿にきな粉(きな粉に砂糖を混ぜたもの)があることがあった。
そうゆう時は、おやつにきな粉ご飯を食べていた。
きな粉にはサッカリンを使わず砂糖を使っていた。
砂糖を使うのでずいぶん美味しい粉だった。
茶わんに冷えた麦飯をつぎ、そのうえにきな粉を振りかけていた。
大好物だった。


・・・・・


鯉を食べる

母方の祖父母の家には、庭にため池があった。
その池に錦鯉が何匹か泳いでいた。
おる時、お祖母さんが
「今日は鯉を晩のおかずにしよう」と言ってくれた。
その日は、晩飯が楽しみで、楽しみで、どうしようかいうほどうれしかった。
やっと晩になり、
晩飯に皿にのった鯉が出た。
喜びと感激の時だった、が
それで終わった。
なんな不味い魚は無いというのを知った。



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遠足に行く

2020年06月04日 | 城見小・他校
遠足に行く

~遠足は喜ぶほどの行事ではなかった~
リュックサックにお菓子を持っていけるのが楽しみだった。
前日に親から20~30円もらい、自分でお菓子を買えることがうれしかった。


吉浜の天神・・・1年生
茂平や用之江のお宮より、すこし立派な感じがした。
眼鏡橋やツツジの庭園で遊んだ思い出がある。
※大正時代に父も遠足でいったところ。そして管理人の子も遠足で行った。


古城山・・・1年生または2年史
学校から国道2号線(旧)を歩いて行った。
遠かった。
途中、吉浜や金浦では、
道路沿いで親類の叔母さんやお祖母さんが、遠足の生徒を待っていた。
目的の子にお菓子や飴玉を手渡ししていた。
それを見ながら、うらやましくて仕方なかった。
古城山では、唯一”お猿さん”が楽しかった。
あたりまえだが、木山捷平さんのように、海を見て感激は全くなかった。
ただ、笠岡湾に浮かぶ打瀬の船の風景は高い場所からみてきれいだった。
帰りは徒歩でなくバスだった。
バスの運転手さんが飛ばしてくれた、それに感激した。



津之下の飛行場(跡)・・・たぶん2年生
保育園から高校まで、学校の遠足や旅行に数々行けど
いちばん行ってつまらなかったのが津之下の飛行場。
飛行場は当時、予備隊だったのか、病院?かわからないが
内部見学はまったく興味一つなく、
外部といえば、前に海辺があるだけ。
帰り道の大津野の土手を歩いている時、疲れをどっと感じた遠足だった。


福山城と草戸・・・2年生か3年生
学校から大門駅まで歩いて行った。
そこから汽車で福山駅まで行った。
福山駅から福山城跡に行った。
弁当を食べた残りをごみ籠に棄ていると、それをあさるルンペンが一人か二人いた。
その時、初めてルンペンを見た。
福山城からは、バスで草戸に行った。
バスから降りて”五重塔”を見た。
初めて見る五重塔に少し感動した。
そのあとで芦田川に降りた。
芦田川ではとてつもないカルチャーショックを受けた。
こんな川幅ある川があることにびっくり仰天した。
茂平にはジャンプすれば飛び越えられる川しかなかった。
丸い小石を水面に投げて遊び(水切り)は、海でする遊びと思っていたが、川でもできることを知った。
初めて、世の中は広いことを実感した。
(それまでが狭かっただけだが)


金光教・・・4年生
汽車に乗って金光駅まで行った。
駅から門前町を歩いて金光教本部に行った。
庭にゴミがなく、箒の跡がついていた。
その後、金光教の裏山で遊んだような記憶がある。


尾道の千光寺・・・5年生
駅から千光寺山に登ったという記憶はないし、
ロープウェイで登った記憶もない。
ということはバスで尾道まで行ったのだろうか?
造船所のクレーンだけが思い出に残っている。


岡山城と後楽園・・・6年生
6年生の春、岡山に行った。
岡山城と後楽園に行ったように思うけど、
それ以上の記憶が戻らない。


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動物②

2020年06月04日 | 城見小・他校
ニワトリ
小学校に上がる頃、家の裏に鶏舎を建てた。
そこでニワトリを20~30羽飼い始めた。
その頃は、庭で数羽飼うのが主流で20~30羽は多かった。
そして1~2年後にゲージ飼いになった。
200羽ほど飼うようになった。
水の他に、三度飼料を与え、卵を籠に取る。
適時に糞を除去していた。
冬か春にヒヨコを仕入れていた。
父は数日間ヒヨコと寝泊まりをした。
管理人もいっしょに寝たことがあり、ヒヨコが来るときは楽しかった。




養蜂
どこから来る人が知らないが、毎年春になると養蜂の人がやってきた。
蜜箱を、宮ノ崎の畑に3~4箱、家の裏畑に1箱ほど置いていた。
3週間後位に、再びきて箱を引き取った。
その時は必ずお礼に大きな瓶に入った蜂蜜をくれていた。
父が、蜜の他に礼金をもらっていたのかは知らない。
その蜜は液体でなく個体。金属であるサジでほじってもとりにくい程の純度だった。



野兎
うつろの山畑には、小さくて丸い兎の糞が落ちていた。
糞はよく見るが実物に遭遇することは滅多になかった。
たまに見つけると、すごい速さで消え去っていった。




庭に来る雀を捕ろうと・・・日本全国の子供の共通だが・・・円形のフルイに箸を立て、
箸には糸を結び戸の内側に入って身を隠す。
エサを目当てに数匹の雀がやってくる。
その瞬間に糸を引っ張る。
落ちたフルイの中に、逃げ遅れた雀が居た・・・・ことは一度もない!
必ず逃げられていた。
毎年わかってはいてもフルイを出していた。
わかっていても、してたのは雀がフルイの下にいて、その時を見計らうのが面白かったように思う。




ドジョウ
田んぼでおなじみのドジョウを一度だけ食べたことがある。
あまり旨くないというのは聞いていた。
偶然多く取れたので料理にした感じだった。
半分はドジョウ汁で食べ、
残り半分は煮て食べた。
どちらの料理も不味かった。もうええと思った。



毛糸が貴重品の時代、家で羊を一匹飼っていた。
毛がふさふさし、手触りがいい動物だった。
毛が伸びると、専門の人が来てバリカンで毛を刈っていた。
ある時、
その羊が死んでしまった。
それから毎日・毎日・毎日・・・・・・羊の肉を食べた。
何日連続して食べたか、人生で一番長期間の食べ物となった。
一回で終わって良かった。

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動物①

2020年06月04日 | 城見小・他校
家ネズミ
寝る前、家の外から聞こえるのは、雨や雷や風の音くらい。
しかし家の中から聞こえる音が二つあった。
ひとつは、柱時計の音。チックタック、と昼には耳に入らない音が大きく聞こえた。
もうひとつ、それがネズミが走る音だった。
寝ている真上から聞こえる。ネズミの運動会で天井裏を走りまわっていた。
うるさい、わるい音だった。
(猫いらず)
母は蔵に猫いらずを撒いていた。
そのせいか、蔵にはめったにネズミはなかった。
(猫)
飼い猫がいた。
ネズミと遭遇すると責めるのでなく、後ずさりしていた。
たまに、死んだネズミを口にくわえて家人にアッピールし、嘲笑されていた。


マムシ
管理人の祖父は、畑で見つけたハミ(まむし)を握ったまま、生血を吸うので
・・・見た人には・・・有名だった。
私は残念ながら、その場面に遭遇したことは無いが、母は年度も経験しているみたいだった。
(「動物民族Ⅱ」長澤武著 法政大学発行より)
マムシ
マムシの毒は強く、咬まれると死亡することもあると言われ、昔から恐れられている。
咬症例は年間2.000件、死亡例は20件くらいあるとのことである。



オオカミ
オオカミは怖かった。
赤ずきんちゃんを食べたので、そのイメージが強かったのだろう。
山の奥には、オオカミがいると思っていた。


イノシシ
絵本などで、鉄砲撃ちが仕留めたイノシシ見た。
イノシシはこのあたりにはいない、遠くの山の、そのまた奥に住む生き物だと思っていた。
平成より急に身近な動物になった。
こんなことは、まったく予想もしていなかった。


フカ
上級生から「フカに注意せい」と言われる年があった。
たぶん、大人のニュースや話から、茂平の海にも出現の可能性があるからだろう。
その年は海で泳ぐ(小学生が一年でいちばんの楽しみ)ことが少し気になった。
フカは人間の脚などを食べると言われていた。


ひいる(ヒル)
学校の田植え休みは毎年3日間(4日間だったかな?)あった。
田植えの手伝いをしに、田んぼに入るとひいるに噛まれるのは当たり前のこと。
田んぼの”吸血鬼”だった。
この吸血鬼はにゅるにゅるして指でとりにくかった。
やっと引き取ると、ちょっと痛みと、血が出ていた。
農薬に弱く、今はいないそうだ。


ノミ
ノミは体や下着に付いていて、ものすごいジャンプ力があった。
母に特技があって、
そのノミをつかまえて殺す名人だった。
夏の頃、寝る前に子守唄代わりにノミを捕まえては何匹も殺していた。


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