しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「聖バレンタインデー」

2023年02月14日 | 暮らし

”バレンタインデー”という言葉も行事も30才ころまで、まったく知らなかった。
ある時、他業種の独身女性から
「上司(妻帯者)にチョコレートをあげたら、顔を紅くして喜んだ」
という会話を耳にした。
彼女はその上司を、いくらかおちょくるような言い方だった。

それで、”バレンタインデー”という日があることは知った。
その日は、女性から男性へ愛の告白をしてもいい日、だそうだ。
だが自分にも、自分の勤務先にも縁のない行事だった。

それから数年してから、急にその行事は有名になった。
スーパーに行けば、いちばんいい置き場に、チョコレートが山と積まれるようになった。
そして自分にもチョコレートが届くようになった。

自分に届くようになった時は、すでに”義理チョコ”全盛の時代で、
おまけに”ホワイトデー”があり、同等または倍相当のお返しチョコが必要とのことだった。

チョコレート菓子の業界が仕組んで、それに日本人が乗ったイベントとしか思えなかった。

・・・・・・

地方の民俗や行事の本を、何冊か調べてみた。
”バレンタインデー”は記載されているだろうか、と。
予想通り、まったく出てこなかった。

・・・・・・

1970年頃、生活の本のベストセラーで知られた「自由国民社」の本を手にしてひろげた。
すると、この本にはバレンタインデーが載っていた!!!

 

 

「365日べんり手帳」  自由国民社  昭和46年発行
「聖バレンタインデー」

2月14日
バレンタイン聖人の殉教の日。
鳥が春情をおぼえる日とされ、
お化粧した卵の贈答が行われ、
若い男女が公然と愛をささやいてよい日とされている。

・・・・・・・

「バレンタインデー」ではなくて、「聖バレンタインデー」であり、
チョコレートは、まったく関係ない。

そうしているうち、
自然と、ではなくて、社命のような感じで職場からは消えていった。

行事の内容が時に変遷したり、ところにより違うのは当然だろうが、
「義理チョコ」と「ホワイトデー」の時代は・・・ほんま、どうでもよかったな。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

節分

2023年02月03日 | 暮らし

子どもの頃、
父が枡を手にして炒った大豆を投げていた。
「鬼は外」の豆は、庭(カド)に投げる。
「福は内」の豆は、畳の間に投げる。
畳の豆は拾って食べていたが、カドに投げた豆はそのままだった。
縁起物なので楽しく食べていた。

 

”恵方巻き”という言葉は、十数年前に初めて知った。
↓「鴨方町史」「岡山県史」にも、一文字もないので、
平成時代になって始まったものだろう。

 

神社・寺院の行事ではなかったが、いつのまにか寺社になったことも不思議だ。

 

・・・


「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行


節分

立春の前日を節分と呼ぶのが通例である。
正月と同じように、
立春を年の初めと考えるところから、
大晦日と節分には混交した感覚が多い。

笠岡市真鍋島では大晦日にも節分にも豆を撒く。
寄島町では節分に豆を撒いてから麦藁舟を海に流すという。
この日は婚礼が多い。
節分に来た嫁は、福の神だといって喜ばれるからである。
総社市や芳井町では豆撒きをしないという。

節分に麦飯を食う習わしは県内のほとんど全域にある。
節分には麦の豊作を祈る儀礼に重点が置かれたのである。

 

・・・・

「鴨方町史」 鴨方町 昭和60年発行

節分

二月の節分には、大豆を炒ってイリ豆を作り、
一升枡に入れて年神様にお供えしておく。
それを一家の主人が夜、
「鬼は外、福は内」といってまく。
子供たちが拾って食べる。
豆まきをしない家も多い。

 

・・・

「矢掛町史 民俗編」 矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行


豆まきはいつごろしましたか。

そうじゃなあ。二月四日頃じゃなあ。
節分にゃあ、豆まきをしょうたなあ。



三月三日は。

桃の節供ゆうてなぁ。
四日に「ヒナアラシ」じゃゆうてなぁ。
初びなの家で、近所の子供をよんだりしとりました。
今ごろはしゃあしましぇん。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

2023年2月3日、尾道の西國寺の節分豆まきに行った。

とにかく拾うのは楽しい。

 

 

 

 

・・・

 

尾道ついでの寺社めぐり。

 

 

千光寺。

 

 

 

国宝が多い「浄土寺」。

 

 

この後、温泉にはいって笠岡に帰った。

 

来年は、福山の艮神社か倉敷の阿智神社の豆まきに行こう。

 

・・・・・・・・・・・・

 

追記・2023.2.4

 

中国新聞(2023.2.4)の写真記事

 

 

・・・・・・・・・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸の花嫁 (戦前の結婚園)

2023年02月01日 | 暮らし




城見小学校の同級生は、当時兄弟が多く、従兄妹まで気にするとは少なかったが、
学校内に従兄妹同士が多かった。
茂平の子どもも、同じヒラで遊び、ましてや用之江や大冝に行くということは少なかった。
交通事情も悪い時代は、結婚相手も、狭いというか(今では)近距離に住む人との結婚が多かった。

・・・

 

「岡山県史 第16巻民族Ⅱ」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行

備中町の北部、西山地方の通婚園は、北は哲西町、西は広島県の東城町などとの交流が深く、この方面との縁組が多い。
平川でも県境に接している関係から広島県神石郡の油木・豊松などとの縁組が目立って多い。
吉井川・旭川・高梁川流域なども、昔は高瀬舟によって関連を持つ川筋との縁組もかなりあった。


笠岡市真鍋島などの笠岡諸島は、昔から島内婚が多く、しかも同じ部落の縁組が多い。
たとえば白石島でも、明治の終わりごろまでは島外からくる嫁はまったくなかったといわれる。

 

・・・・

 

小柳ルミ子が歌った名曲、”瀬戸の花嫁”の歌詞にある

♪あなたの島へ
生まれた島から
島から島へと渡ってゆくのよ

というのは戦後になってからのケースが多いようだとは、いくらか感じていた。

 

・・・

 

管理人の場合、 (現在の市町村名)
父母は笠岡市と井原市、
祖父母は笠岡市と神辺町、
これでも遠方との結婚だったように思う。

 

・・・

 

当ブログに載せるのは初めて

ではないが、


「瀬戸の花嫁」の写真。

茂平で最後の”瀬戸の花嫁”。

花嫁は神島から船に乗って茂平の港に着いた。


(昭和30年)

 

おじ(父の弟)の結婚式。花嫁が船に乗って着くのを待つ、茂平の子どもたち。

 

 

 

”嫁どりがある”
それは、茂平の子どもたちにとって、最高の娯楽のひとつだった。

 

(花嫁のあとを、ぞろぞろついて歩く茂平の子どもたち)

 

 

 

 

・・・

 

笠岡市役所の屋上から、正午のメロディが流れる。

 

「瀬戸の花嫁」

 

 

・・・

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池の水みんな抜く②ウダ(ウザ)のこと

2022年07月30日 | 暮らし

茂平の「いなとり」は村一番と思える賑わいだったが、
その参加者は府中~新市~神辺~井原、が多かったのは子供も知っていた。


なぜわざわざ遠方から来ていたのか?その訳は、
海から離れ、川魚を漁撈し食す地域の人々には、農具の一つとして「うだ」を所有し生活と食料に役立てていたから。
海岸部の人々には「うだ」は必要ないし、年に一度のために所持するほどの豊かさはなった。

 

・・・


「矢掛町史・民俗編」 溜池とウザ漁撈

溜池での漁撈をイケボシ、カイボシ、サカナトリなどと呼称し、
水田灌漑水を落下すると同時に、
池水も落水し溜池での漁撈、
溜池の修理保全などが関係農民によって行われる。
その上に溜池での捕獲された川魚類は地域農民の重要な食品として貴重な食糧資源であった。
来るべき秋の収穫前、または12月の収穫後の今日の言葉でいうレクレーションでもあって年中行事の一つでもあった。

 

 

ウザというのは魚伏籠のことである。
溜池では、ウザによって川魚が捕獲される。
水中に狼狽する魚をこの中に追い込んでとる。
ウザは片手で池底に突いて、手ごたえがあると、上部の口から魚を手でにぎる。
ウザの材料は真竹である。
ウザは自製する農民が多く、農家には必ず2~3個以上はあった(西川面)。
矢掛町では魚伏籠の呼称を広くウザという場合が多い。
ウダ(東川面)などもこの呼称線上にあるものだろう。

 


・・・


「野々浜むかし語り」 野々浜公民館  1991年発行


網入れ(いなとり)

 

この時は遠く、府中、新市、井原、高屋などあちこちから何百という人が、
投網や「うだ」を持ってやってくる。
野々浜の内海(うちうみ)は、足の踏み場がないくらい賑やかだった。
「うだ」というのは頭丸籠に似た丸い籠で、これを海に突っ込んで魚を上から押さえる。
魚が入るとぴょんぴょん中ではねるのがわかる、という代物だ。
今でも高屋や井原に行くと、
野々浜の網入れをおぼえてる年寄りが居て、
「わしはのう、野々浜の海へ網入れに行きおったんど」
と話してくれる事がある。

 


・・・


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

ウザ
水田のミズオトシをしたとき池干しをしてウザを使う。
ウザで池底を突くようにして魚のいそうなところをかぶせてゆく。
ウザに手ごたえがると、上部の口から魚を手で握る。
材料は真竹である。

 

・・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路

2022年06月03日 | 暮らし

岡山県玉野や児島から、四国の屋島の背後に険しい連山が見える。

それが、五剣山。

あの山にいつか登りたいと思っていたが、今回琴平に行く便があったので登ってみた。



五剣山は一つが崩落し、現在は”四剣山”の状態で、四国霊場の「八栗寺」より上は登山禁止になっていた。

 

八栗寺のお遍路さんは、みな絵になるような服装と持物をバシッと決めてのお参りだったが、

自家用車か観光バスで来て、そこからはケーブルカーで上り・下り。

それが今風の巡礼なんだろうが、本来の修行というよりは、娯楽のように見えた。

 


弘法大師は僧名を空海といい、774年善通寺市で生まれたと伝えられている。
のち遣唐使に随行して入唐し、長安で研鑽につとめ、806年帰朝し真言宗を伝えた。

 

八栗寺は、昔、大師がここにきて、焼き栗を八つ植えたところ、それがみな芽を出したので八栗寺の名がついたという。

(八栗寺本堂と五剣山)

 

 

ところで四国遍路は、弘法大師がはじめたという伝えがあるが、一般に起源は室町時代のころだろうといわれている。

四国の霊場88ヵ所の札所が選び出され遍路行がさかんいになったのは、1670~80年ともいわれる。
1番から88番まで,順回りでも逆回りでもよく、はじめもおわりもなく、どこからはじめてもよい。
しかし近道をすることは戒められていた。

見ず知らずのお遍路さんを”大師”とあがめ、”お接待”と称して、
みかん・もち・赤飯・豆など、いろいろなものを供養するが、
施すのものも、受けるものも、ともに“南無大師遍照金剛”と唱えて合掌する。

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

 

(向こうは屋島、その麓は源平合戦古戦場)

 

撮影日・2022.5.29

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コレラで死ぬ

2022年03月20日 | 暮らし
東大戸の木野山様

明治9年を皮切りに猛威をふるったコレラ病は一大惨事を巻き起こし、
この病業を免れようとする人々が昼夜の別なく参拝し、
ご分霊の請待も相次ぎ格別のご神威の発揚がありました。
当地方でも疫病が流行し実業家・高橋律太翁が高梁から分霊を請待してこの地に神社を建立されました。
人々はご利益を願って次々氏子になり現在も祀られています。

「大井の史跡・石碑・3」  大井文化探訪の会  2022年発行


・・・・・

(笠岡市東大戸・木野山神社  2021.3.14)




・・・・・・


「生きることの近世史」 塚本学 平凡社 2001年発行

コレラと戦争

蒸気船は「文明」とともにコレラを全世界に広げたのであった。
安政5年8月、江戸では1町に多い所では百余人、少ない町でも五、六十人の死者が出た。
土葬が一般的だった江戸で、悪疫を恐れて火葬を急ぎながら、施設不足からかえって放置死体が路上で臭気を発し、そこから伝染に怯える事態だったのである。

伝染性の病気であることは経験的に理解できていたから、隔離が有効な対策だったが、
それはまた患者やその周辺への過酷な目となって悲劇を生んだ。
疫病や田の虫などの災いを村界の外に追う古くからのオクリガミないしオクリビの行事が、一面でもっていた排他的な性格は、コレラ災害の中で強められたのではなかろうか。

コレラ禍は、安政、文久にもみられ、明治10年西南戦争従軍者からの流行被害が大きかった。
戦争による軍隊の移動が疫病の伝染役となるのは通例だったが、コレラの場合、
当初の大流行による恐慌以来、戦乱の不安を意識させる事態の進行をともなっていた。

西洋医学に依拠しての不潔退治、公衆衛生事業がやがて明治政府の重要な政策になっていく。
警察官によるコレラ患者宅の封鎖をはじめてとして、国家強権によるコレラ封じ込めが推進された。






・・・・・

(Wikipedia)
コレラ

コレラ菌を病原体とする経口感染症の一つ。治療しなければ患者は数時間のうちに死亡する場合もある。
日本で、最初に発生した文政コレラのときには、他の疫病との区別は不明瞭であった。この流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられた。
「虎列刺」と当て字がなされた。一方、民衆の中では語感から「コロリ」と呼ばれていた

症状
潜伏期間は普通は2~3日。
治療を行わなかった場合の死亡率はアジア型では75~80パーセントに及ぶ。
現在は適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセントである。


・・・・・

「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


伝染病と衛生行政

幕末から明治初期における急激な社会変動がもたらした人口の大幅な流動化によって、伝染病は全国に蔓延した、死者数も増加した。
住民の糞尿が肥料として使用されることが多く、コレラ・腸チフス・赤痢など消化器伝染病が発生すると、感染は一気に拡大した。
患者が発生すると自然治癒をまつしか手がなかった。

コレラ

コレラは、安政5年(1858)に大流行。
治療法・薬はなく、庶民の間では村境で鉄砲を打つコレラ退散祭りなどした。
人々はコレラを「トンコロ」と称して非常に恐れた。
政府の対策は検疫強化と侵入後の消毒・撲滅・遮断・隔離に重点がおかれた。

患家には縄が張られ、目印の黄色い紙が出された。
患者を天井裏に隠す例も少なくなかった。
文久2年1862)7月にも大流行、9月に入り衰えた。


・・・・・



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結核で死ぬ

2022年03月19日 | 暮らし
”結核”と”伝染病”は、「地震・雷・火事親父」なんかより、ずっと恐れられていた。




・・・・・

戦争中、国民はほとんど栄養失調になってしまっていた。
結核が感染しても無理をするもんじゃけえ、こじらせて本当の肺結核に移行してしまった。
ほとんどの家に一人や二人はいた。
結核にかかると、皆死んでいった。
病人は、納戸の隅に寝ている。
そうなったら、あと二、三か月たったら死ぬ。
その頃にならんと医者を呼びにこん。

「梶島山のくらし・戦前戦後編」福山市・梶島山のくらしを記録する会 2012年発行


・・・・・

瀧廉太郎の生涯

1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツにあるライプツィヒ音楽院に留学。
わずか2ヶ月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされ、
1903年(明治36年)6月29日大分市稲荷町の自宅で23歳という若さで亡くなりました。
「~府内に息づく魅惑の世界~ 瀧廉太郎の生涯/瀧廉太郎と作曲」


・・・・・

「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行

結核

江戸時代に労咳などと呼ばれた結核の多くは肺結核であった。
空気感染であったので都市化と共に流行した。
一種の伝染毒であり、書生・奉公人・処女のままの人に多く、看病人・医者・針医・按摩にも伝染する。

女工と結核
結核は20世紀半ばまで、死病として恐れられてきた。
明治期の近代化の過程で、産業の発展と共に「国民病」となった。
女工
約7割が寄宿舎に入り、一日14~16時間労働 徹夜作業が状態
体重低下、発育不全。
石原は、劣悪な労働環境、長時間労働、寝具の共同利用と不衛生な寝室について記述し、これらが結核伝染の温床となったことを明らかにした。
問題は工場の外にも広がった。
結核に罹患し解雇された女工は、転々と職業を変えつつ都市で生活するか、帰郷することになる。
いずれの場合も治療を受けられないまま、辛い療養生活を送り、そのまま死に至るものも少なくなかった。


・・・・・


「昭和③非常時日本」  講談社  平成元年発行

猛威をふるう「亡国病」

昭和11年から結核予防国民運動が始まった。
結核は、前年の昭和10年から死因の1位になっていた。
農村での結核患者急増は、兵士の供給を農村に依存している軍部にとっては深刻な問題だった。
しかも10代後半から20代の若者たちに結核による死亡率が高かったことが、政府にその予防対策を急がせた。

明治・大正は都会の工場労働者やスラム居住者たちに多い病気であり「貧民病」と呼ばれるほどだった。
ところが昭和になると、結核は農村にも広がり、やがて「亡国病」と呼ばれるまでになった。
特に繊維産業で働く女性たちは1.000人中23人が結核で死んでいったという。
帰郷した出稼ぎ青少年による二次感染が深刻化していたのである。

昭和12年には「結核予防法」が改訂された。
また、保健所法公布、結核療養所の官制化と政府は次々に対策を打ち出したが事態はなかなか好転せず、
昭和12年以降も死亡者は年々増加し、
昭和18年には人口100.000人に対し235人の死亡率に達した。






「生きることの近世史」 塚本学 平凡社 2001年発行

肺結核

明治以後20世紀前半の作家や詩人で、この病気に苦しみ死んだ人の多さは目をみはらせるほどである。
1918年には、結核の死者は、人口10万当たり257.1人で死亡順位の1位を占め、
以後30年近くにわたって他の病気に比べて圧倒的に高い死亡率を示した。
不治の病とされたこの病気の悩みと死の恐怖とは、社会の諸階層に通有のもので、
転地療養などの機会を得た人々に比べて特に悲惨でまた数も多かったのは、
村から都会に出て、きびしい労働条件と衛生環境のなかで労働者となった若者である。

慢性的な栄養欠乏状態にあるとき、結核菌はとくに猛威をふるった。
伝染する病気は不治とみなされ、しばしば遺伝するかにみられていた。
青白い顔の病人になって帰ってきた少女に、故郷の目は冷たかった。

貧と病は一体になっていた。
多くの青年をむしばむ結核は、「国の命」の観点からも恐るべき災厄であり、
1919年に結核予防法の制定以来、国による予防対策も試みらていった。
国が国民の生命の庇護者としてはたらこうとしたのである。
その効果は、この世紀後半に顕著になっていく。



・・・・


(笠岡市小平井 結核療養所施設跡 2022.2.28)


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良妻賢母

2022年03月10日 | 暮らし
佐藤愛子さんの言う時代(戦前戦中の女学生)は、まだ良かったのかもしれない。
戦前が女学生だった母は、同級生の半分は再婚している、とよく話していた。
『貞婦二夫に見え』ていたのだ。生きるためには二夫に見えざるを得ない時代もあった。

・・・・・

「今は昔のこんなこと」  佐藤愛子 文春文庫  2007年発行


良妻賢母

戦前戦中の女学生であった私は、
学問知識よりも淑徳に重きを置く校風の女学校教育を受けた。
その女学校の校長先生は、
生徒が更に勉学の道に入ることに反対だった。
大学や専門学校に行くくらいなら、マッサージや介護を習った方がいいという意見だった。
それらは結婚後、舅や姑に尽くすとき役に立つからである。

私たちが教示された第一の美徳は「率直従順」だった。
女というものは他家に嫁いで親に従い夫に尽くし、
子を産み育てて一家の繁栄に献身するものである。
そう教えられそう信じてみな「花嫁学校」へ行った。
そこでは生花、茶道、和裁、洋裁、料理など暮らし万般にわたって教えたらしい(「らしい」というのは私は行かなかったからである)。



・・・

後家

「後家」とは夫に死別してその家を守る寡婦のことをいう。
ものの本によると、「我が国の風習は昔より女の貞操を重んずることきびしく、
ひとたび嫁したるものはいかなる理由があろうとも男の承諾なくしては女の方より離縁を要求することなど思いもよらなかった。
不幸にして夫に先立たれた際にも『貞婦二夫に見えず』の諺のごとく再婚することなく、
ひたすら亡き人の冥福を祈って一生を終えるのが常とされていた。

男尊女卑の時代である。
悲しいかな女は非力で、男に頼って守ってもらうしかないという立場に縛り付けられていた。
必然的に男に気に入れられるために従順、素直にならざるを得ない、
あれもこれも生活のためである。

・・・・


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠岡の映画②笠岡が登場する映画

2021年12月19日 | 暮らし

(映画「海峡」のロケ地、笠岡市神島外浦・日光寺)



「笠岡シネマ風土記」 世良利和 岡山文庫  令和2年発行

映画に登場する笠岡

『獄門島』1949
片岡千恵蔵がモダンな金田一耕助に扮し、笠岡という地名が何度も出てくる。

『花の講道館』1953
旧井笠鉄道の吉田村駅付近で行われている。
第一回ミス日本の山本富士子が見送るシーンが撮影された。

『友情』1975
渥美清と中村勘九郎が主演では、終盤で笠岡が舞台となる。
二人が笠岡駅に降り立つ場面や住吉港の旧桟橋の場面が撮影された。
北木島の天野屋旅館前。
真鍋島ロケには渥美清、勘九郎、加藤嘉、佐々木愛が参加した。

『獄門島』1977
西ノ浜地区で撮影されている。

『悪霊島』1981
住吉港など。

『草原の椅子』2013

『海峡』1982
高倉健の実家で、笠智衆の老父と語り合う場面がある。
日光寺で撮影されている。

『釣りバカ日誌18』2007
島の西端ナビックランド付近で撮影。

『瀬戸内野球少年団』
真鍋島。
久乃家旅館とその別館には、夏目雅子や篠田監督・岩下志麻夫妻、カメラマンの宮川一夫をは始めとするスタッフが宿泊したという。
子役たちは三虎に宿泊したが、郷ひろみや島田紳助は泊っていない。
撮影はひと月に及び、その間約50名のロケ隊が島に滞在した。

『旅の贈りもの0.00発』2018
真鍋島
大滝秀治が出演している。

『獄門島』
六島
石坂浩二、大原麗子、ピーター、加藤武が島を訪れた。
島のイメージ悪化懸念からロケ隊を歓迎する雰囲気ではなかったという。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠岡の映画①笠岡の映画館

2021年12月19日 | 暮らし
茂平に映画館は、もちろん、無かった。
月に1~2度、金浦座が茂平の番屋の隣の旧小学校で上映していた。
ほぼ、2回に一度は見に行っていた。
番屋の前では青天に幕を張って上映したこともあるが、画面が揺れてさっぱりだった。
・・・・
城見地区では小学校の校庭でも上映していたようだ。
城見小学校のときは、学校の講堂で年に2~3回文部省推薦映画をして、生徒全員見ていた。
・・・・
金浦中学校の時は、体育館で金浦座が来て上映した。年に一度くらい。
生徒全員見た。「太平洋ひとりぼっち」をよく覚えている。
・・・・
高校のときは、市川崑監督の「東京オリンピック」を学校全員で見に行った。
大和座だった。学校から行ったのは3年間でその一度だけ。
・・・・
小学生の時は、映画は年に2回ほど福山の映画館で見ていた。
笠岡の映画館に入ったことはない。

高校生になって笠岡の映画館に行くようになった。
大和座・セントラル・中央劇場の3館によく行ったが、
金星劇場(きんえい)は成人映画が多く、一度も入ったことはない。




笠岡の映画①笠岡の映画館
「笠岡シネマ風土記」 世良利和 岡山文庫  令和2年発行

大和座
笠岡
もともと芝居劇場だったので広い舞台があった。
かつては戎座と呼ばれ、大正頃から映画も上映し出した。
歌手を目指していた松方弘樹が父近衛十四郎に連れられてきた。
1981年閉館。

笠映
笠岡
定員500名、
当初は大映、東宝、新東宝の配給を受けていた。
場所は曙館があったとこ。
1962年閉館、跡地は和信となった。

太陽座
笠岡
笠映の裏側にある定員150人の小規模な映画館。
当初は大映、新東宝の作品や洋画を上映。
1960年閉館。

金映(金星劇場)
笠岡
当初は新東宝、東映などの配給を受けたが後には大映作品を上映して笠岡大映と称した時期もある。
1969年までには閉館。跡地はスーパー・キンエイ。

金浦座
金浦
戦前からの芝居小屋を引き継いだものだ。
1965年頃閉館。

中央劇場
笠岡
大和座の小野圓治が系列館として1955年5月にオープン。
この映画館は地元の人々に洋画専門館として記憶されているだけでなく、
斜め向かいにあった「斎藤」の中華そばの味とセットで想い出す人も多いようだ。
1970年閉館。

東映セントラル
笠岡
1960年に開館、1962年頃に笠岡セントラルと改称。
2階に座敷席があった。
当初は東映の配給を受けるが後には主に日活作品を上映し、
藤竜也、笹森礼子、浜田光夫、太田雅子(後の梶芽衣子)らが訪れている。
さらには松竹や東宝の作品を上映した時期もある。
1985年閉館。




神映館
神島外浦
1956年から、上映は週に2~3日くらいのペース。
上映がある日は町内放送のスピーカーから案内が流れた。
フィルムは笠岡からバイクに載せて運んだ。
建物は現存してあり、外浦港から西へ歩き山側に引っ込んだあたり。
映画館には売店もあり、上映日には外浦の商店2店が交替で、菓子や飲み物を販売していた。
1963年頃で営業を終えた。

もうひとつ
外浦
外浦にはもう一つの別な映画館が存在したという情報もある。

白映館
白石島
「あまのストア」の斜め向かいに現存している。
長椅子が置かれ、上映は週に1~2日だけ、夜の一回のみだった。
北木島の映画館との間で、郵便船を使ってフィルムのやり取りをしながら、1964年頃まで営業していたのではないかという。
当時の白石島の人口は約2.500人で活気にあふれていたが、生徒が映画を観ることは親と一緒でもダメだったそうだ。

光映劇(光劇場、ひかり劇場)
北木島
北木島金風呂にあり、開業時期は不明で1960年に廃業。
現在も建物と内部がほぼそのまま残っている。
上映は週に2日程で夜に2本立て。
日中、スピーカーから上映作品の紹介をした。
経営者・赤瀬は裸一貫からのたたきあげで財を成し、映画館経営に乗りだしたという。
笠岡市議も務めた。
上映はたいてい土日のみで、全盛期には島中から観客がきて2階席まで満員になっていた。

OK劇場(港劇場)
北木島
金風呂地区。
もともとは芝居小屋だったそうで、上映する時には屋根の上に取り付けられたスピーカーから客入れの音楽を流すなど活気があった。
1963年頃閉館している。

大福座
北木島
大浦地区。
旅客船待合所から南東に50mほど行った場所に「民宿多喜」という看板が残る大きな建物があり、そこが大福座の跡地だ。

港屋の前の公民館跡地
北木島
もしかすると、ここが島にあっという4つめの映画館のことなのかもしれない。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする