「アメリカ人は、ヒトでなく鬼畜である」を国民に言っていた手前、
為政者は、その”鬼畜”が”神州”に駐屯することに茫然し狼狽した。
為政者と一部の愛国者を除き、
アメリア人は人間であることを、元から国民の大半は理解してした。
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「福山市史下」 福山市 昭和58年発行
進駐軍・住民の心得
占領政策の進展
昭和20年(1945) 8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着した。
この前後から国内各地への連合軍の進駐が始まったのである。
広島県では9月中旬に、連合軍進駐対策本部が設置され、
連合軍の進駐にともなう宿舎・交通取締衛生施設・特殊慰安施設警備・労務供出・県民指導などの諸問題が協議された。
県警察部は「連合軍進駐地付近住民の心得」というビラ10万枚を配布し、民心の安定と事故防止に努めた。
同年10月6日、スナイダー海軍少将を長とする輸送船団約30隻が広港に入港して上陸を開始し、
呉地方8.000人、広地方8.000人、海田市地方約3.000人の進駐が終わった。
戦後の民主化
すでに8月8日の米軍の空襲により壊滅的被害を受けていた福山市には、
同年11月2日連合軍米第10軍41師162連隊の歩兵大隊ノートン大尉以下約1.000人が、大津野の旧海軍航空隊施設に平穏に進駐した。
福山市長三谷一二は同日付で市内各町内会長宛に
「連合軍将兵は11月4日より外出せらる予定に付、各市民は自粛の上紛議を生ぜざる様注意するは勿論、
各隣組等充分連絡の上、事故防止に努められ度」いと通達を出した。
また、松永警察署長は次のような心がまえを通達している。
1家屋を開放せず、夜間は戸締りをする、
2婦人は胸を現わさず素足を見せずモンペを着用する、
3外人に笑顔をみせたり、ハンカチを振ったりしない、
4たとえ拳銃を向けられても手を挙げたりせず、物品を持ち出すものには代金を請求する、
5女子の貞操に対する危険には生命を賭して抵抗する、などである。
連合軍兵士が、日本の婦女子に対し乱暴な行為に及ぶのではないかという心配は、一般市民の間に流言蜚言となって流れていた。
それに対する対策として、
9月20日に県下の関係業者を集めて広島県特殊慰安協会が設立され、連合軍進駐とともに
船越町・吉浦町・厳島町・広町など5ヶ所に連合軍相手の特殊慰安所が開業していた。
福山市でも進駐に備えて、突貫工事で慰安所を設置した。
この施設は、進駐してきた将兵には非常に好評だったといわれているが、
20年12月、連合軍当局より「特殊慰安所への連合国軍人の立入禁止」の命令が発せられ、
やがて人権尊重・民主化の一環として公娼制度の廃止が議論されるに及び慰安所も閉鎖された。
市当局は、駅前に連合軍向けの公設の土産品即売所を開設した。
これは連合軍将兵の一般市民に対する金銭物品の強要、売買交換などによる紛争を防止するため、
各家庭より出品された品物の販売斡旋を行なったものである。
バザーには羽織・帯・長襦袢・日本人形・煙草入れ・きせる・下駄・日傘・女櫛・かんざし・せんす・ぞうり・うちわ、
など日本情緒のあふれた品物がおかれた。
人形、せんすがよく売れた。
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「昭和二万日の全記録 第七巻」 講談社 平成元年発行
とびかう流言蜚語
敗戦は日本人全体にさまざまな感慨をもたらした。
敗北感、安堵感、これからの生活への不安、戦争が終わった喜び、これらの想いが、人々のあいだに複雑に交差していた。
そして、このような状態の日本人をさらに不安にさせたのは、占領軍が日本に進駐するというニュースであった。
何日か前まで「鬼畜米英」のスロ ーガンのもとに戦っていた「敵軍」が進駐するというのである。
さまざまな流言蜚語がとびかい、人々の不安に輪をかけた。
「控えよ婦女子の一人歩き、 ふしだらな服装は慎もう」。
これは内務省警保局が各地方長官あてにだした「進駐後の心得」の見出しである。
高見順は8月29日の日記のなかで次のように記している。
「舟橋聖一君に会った。彼の話では、彼の知人の娘がスカートをはいて外を歩いていて、憲兵か巡査につかまり、
2時間余り叱られたという。」
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「深安教育五十年誌」 深安教師友の会 1999年発行
1945年(昭20) 11月、米軍歩兵大隊約1.000名が、大津野の旧海軍航空隊の兵舎に進駐した。
これにより深安郡の一部と福山市内の国民学校は、6日間の臨時休業となった。
翌1946年(昭21) 3月、米軍にかわってオーストラリア軍約400名が進駐した。
米軍及びオーストラリア軍の進駐により、近隣の各市町村長は国民学校長に対して
「進駐軍に呼び止められたら停止すること、逃げると射殺されることがあるかも知れない」と、
占領軍に対する児童・生徒の心得について通達した。
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「福山市引野町誌」 引野町誌編纂委員会 昭和61年発行
進駐軍の便所
進駐軍を迎えて困ったのは便所であった。
兵舎・宿舎はもちろんであるが、市中においても同じであった。
そのため市は市内九か所に進駐軍専用便所を造ってこれに供した。
もちろん水洗であったから、戦災による水道管損傷の修復をそっちのけにして、占領軍占用の水道管を敷設したりした。
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「マッカーサーの日本(上)」① 週刊新潮編集部 新潮文庫 昭和58年発行
田舎の道路
ある村を走っていた時のこと。
突然、道の真ん中に赤ん坊が寝かせられているのに気づいて、
「全エネルギーをかけて」 急ブレーキを踏んだ。
冷汗三斗、赤ん坊をひかないで済んだという安堵感よりも、
「なんだってこんなところに・・・・・・」
という怒りのほうがこみ上げて来た。
「母親が駆けて来て、赤ん坊を抱えると、すぐ家の中に逃げ込んで、あとには静寂だけが残った。
考えてみれば、この村道は、一年に一度ぐらいしか車が通ることはなかったのだろう。
しかし私自身は、ショックで、その場にしばらく呆然としていた。
フト気がつくと、私のジ ーブは、農村の子供たちにすっかり取り囲まれていた。
その子供たちの顔には、都会の子供に見られない、純真なものがあった。
子供たちは、まるで他の惑星から来た生物を見るように、私とジープを熱心に見つめた。
子供に何かサービスをしたいと思い、カメラを取り出して、シャシン"というと、
子供はサッと横一列に並んだ。
撮った写真をあとで見ると、右に男、左に女と、見事にわかれていた・・」
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昭和20年当時、神内国民学校2年生だったIさんの話が忘れられない。
Iさんは国民学校2年生で初めて自動車を見たそうだ。
神島の磯を進駐軍のジープが神島見崎に現れたそうだ。
(陸に道なし、山に遍路道)
しかし、それに類することは管理人にも似たような記憶がある。
城見小学校の修学旅行で広島・岩国に行った。
岩国の基地内で、その時初めてアメリカ人を見た。
基地内に芝生の一戸建て住宅が並び、白人たちの家族が洗濯物を干していた。
(農村の農家の自分たちと比べ)別世界の人たちに見えた。
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