しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

金色夜叉  (静岡県熱海温泉)

2024年06月06日 | 旅と文学

尾崎紅葉は小説に、ずいぶん大仰な題名、「金色夜叉」をつけ
男女の主人公二人を熱海海岸で歩かせる。
大衆演劇が顔負けの「死ぬ」の「生きる」の、と大げさなセリフを何度も繰り返させ
セリフが尽きると、体力で遣り込める。

本も演劇も歌も、たいそうな人気があったんだろうな。明治・大正・昭和と。


熱海海岸で二人の銅像を初めて見た時は驚いた。
”婦女暴行”!
これが文学作品の銅像か!?
どこからみても暴行にしか見えなかった。
また、それほど迫力満点の像ではあった。

・・・

旅の場所・静岡県熱海市東海岸町
旅の日・2015年7月8日
書名・「金色夜叉」 
著者・尾崎紅葉 
発行・岩波文庫 1939年発行

・・・

(岩波文庫の表紙)

 

 

「金色夜叉」 尾崎紅葉 

貫一は蹈留りて海に向いて泣けり。
宮はこの時始めて彼に寄添いて、気遣しげにその顔を差覗きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆私が・・・・どうぞ堪忍して下さい。」
貫一の手に縋りて、忽ちその肩に面を推当つると見れば、彼も泣音を洩すなりけり。
波は様々として遠く煙り、月は朧に一湾の真砂を照して、空も汀も淡白き中に、立尽せる二人の姿は、
墨の滴りたるようの影を作れり。


「宮(みい)さん、お前はよくも僕を欺いたね。」
宮は覚えず慄けり。
「病気といってへ来たのは、富山と逢うためだろう。」
「まあ、そればっかりは・・・・・・・」
「おお、そればっかりは?」
「あんまり邪推が過ぎるわ、あんまり酷いわ。何ぼ何でもあんまり酷い事を。」
「操を破れば奸婦じゃあるまいか。」
「何時私が操を破って?」
貫一は力なげに宮の手を執れり。


「ああ、宮(みい)さんこうして二人が一処にいるのも今夜限だ。
お前が僕の介抱をしてくれる のも今夜限、僕がお前に物を言うのも今夜限だよ。
一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。
来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!
再来年の今月今夜・十年後の今月今夜........ 一生を通して僕は今月今夜を忘れん、
忘れるものか、
死でも僕は忘れんよ! 
いいか、宮さん、
一月の十七日だ。
来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、
月が............月が曇ったならば、宮さん、
貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ。」


「ちええ、腸の腐った女! 姦婦!」
その声とともに貫一は脚を挙げて宮の弱腰をはたけたり。
地響して横様に転びしが、貫一は猛獣などを撃ちたるように、なお憎さげに見遣りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹は失望の極発狂して、
大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももう廃だ。
この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖って遺る覚悟だ。」

「や、怪我をしたか。」
寄らんとするを宮は支えて、
「さあここを放さないか。」
「私は放さない。」
「剛情張ると蹴飛すぞ。」
「蹴られてもいいわ。」
貫一は力を極めて振断れば、宮は無残に伏転びぬ。
「貫一さん。」

 

・・・・

 

 

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中将姫     (奈良県当麻寺)

2024年06月06日 | 旅と文学

小学校にあがる頃、絵本を読むことはあったが、漫画も絵本も
男子は侍で、女子はお姫様、とほぼ決まっていた。
それで「中将姫」を知ることはなかった。

中将姫の存在を知ったのは、二十代も後半の頃。
講談社が戦前の絵本の復刻版が発売し宣伝し、その新聞広告で知った。

大人になって児童の絵本を見ると、
子どもの時とは違って、物語の解釈や絵のすばらしさに気づくことがあった。
今でも図書館で絵本をめくることがある。

・・・


旅の場所・奈良県葛城市當麻・當麻寺(たいまでら)
旅の日・2012年10月30日   
書名・ちゅうじょうひめ
原作者・不明
現代訳・小学館の絵本 昭和40年発行

・・・

 

 

ちゅうじょうひめは、
「こう して しあわせになれたのも、やさしい ほとけさまのおかげ ですもの。 
わたしは、ほとけさまが よろこんでくださるような りっぱなにんげんになりましょう。」
と、いつも おもいました。

そして、いちどでもいいから、
ほとけさまのおかおを みることができたら、 どんなにうれしいでしょうとかんがえて、
「ほとけさまに あわせてください まし。」
と おいのりしました。
あるひ、ちゅうじょうひめは、にわのはすいけの まわりをあるいて いました。
いけには、きれいにはながさいて います。 
あおい はに、しんじゅ のような つゆがひかって います。 
ひめが はすをみていると、 「はすの くきを おって、いとを ひきだして ごらん。」
と、いうこえがきこえました。

・・・

ひめが、ごしきのいろにそまった いとをはずしていると、また、
こんな こえがきこえました。
ごしきの いとを、たていととよこいとにして おってごらんなさい。
ひめは、ごしきの いとを はたおりだいのまえにもって ました。
そして、 あかやあおや、くろ、しろ、きいろの はすの いとを、 はたおりだいの
たていとよこいとに、 くみあわせました。

とんから、
とんから。

ひめは、はたをおりはじめました。
かるいおととっしょに、ごしきのきの いとでおった きれが、すこしずつ、でき あがって いきましす。
きれには、ふしぎなもようがあらわれました。

 

 

・・・

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出口のない海   (山口県大津島)

2024年06月04日 | 旅と文学

戦前の日本軍は何にも増して”勇ましさ”が優先した。
その行きつく先は、戦果よりも、勇ましく”死ぬ”方が優先された。

魚雷に人を乗せた回天は、
訓練中の殉死、親船もろとも戦死は数知れず伝えられ、
戦果は何一つ報告されていない。

 

 

旅の場所・山口県周南市大津島  
旅の日・2014年7月12日 
書名・出口のない海 
著者・横山秀夫
発行・講談社 2004年発行

 

 

「出口のない海」 


人間魚雷・・・・・カイテン。
だが、「甲標的」のように敵艦に向かって魚雷を発射するのではない。
自らがその魚雷なのだ。
爆薬を満載した改造魚雷に人が乗り込み、たったひとり暗い海の中を操縦し、
敵の艦船の横腹めがけて搭乗員もろとも突っ込む。
それは筆舌に尽く しがたい壮絶な特攻兵器だった。


「でかい......」
魚雷だ。
形そのものは魚雷には違いない。だが、それは巨大な棺桶に見えた。
鉄の棺桶。
十四、五メートルはある。
傍らにいた佐久間が、回天の上方を指差した。
潜望鏡がついていた。魚雷の上部に波切りがあり、そこから小型の潜望鏡が突き出している。
「貴様らには、これに乗ってもらう」
馬場大尉が重々しく言った。


天を回し、戦局の逆転を図る。
名付けて回天である。
弾頭に搭載する一六トンの炸薬は、いかなる戦艦、空母といえども一撃で轟沈可能だ。

並木はすべてを悟った。
―そういうことだ。
俺たちは魚雷の目になって敵艦に突っ込むんだ。
大尉が回天の解説を始めていた。
並木は改めて回天を見つめた。
それは想像を絶する水中特攻兵器だった。 
人間を歯車の一つとして呑み込んでしまうだけの威感と不気味さを兼ね備えていた。

母艦となる潜水艦の甲板に、五、六基の回天をバンドで固定し戦闘海域へ赴く。
回天は海中で母艦から発進する。
途中で一旦浮上し、潜望鏡で敵艦の位置を確認 後は深度数メートルの海中を、ただひたすら命中するまで回天を走らせる――。
長い説明が終わった。
最後にこう付け加えた。
「回天に脱出装置はない」
並木は声をなくした。 
佐久間も他のみんなも沈黙した。

 

「訓練始め!」
馬場の声が響いた。
並木は弾かれたように動いた。
回天に覆い被さるような格好で上部ハッチを開き、その丸い空洞に腰と足を滑り込ませる。
すとんと腰が座席に落ちた。 
ひんやりした硬い椅子だった。
狭い。
第一印象はそうだった。
胴直径一メートル。その数字以上に狭く感じる。前も後ろも酸素タンクの壁が迫り、頭の上は僅か数センチの空間しかない。
身動きもままならない。
右足に至 っては機械につかえて伸ばすことすらできなかった。
――これが回天か......。
並木は改めて衝撃を受けた。
人が乗るスペースは、ぴったり人の大きさの分だけしかない。
人が機械の歯車として組み込まれるようにちゃんと設計されているのだ。


訓練は「航行艦襲撃法」に多くの時間が割かれていた。
動く標的に突っ込む。
航行艦襲撃は回天搭乗員に極めて高い技能を要求した。
シミュレーションはこうだ。
敵艦を発見後、回天は母艦である潜水艦から敵艦の方向と距離の情報を得て発進する。 
途中で一旦浮上し、特眼鏡で数秒間、敵艦を観測。 
この数秒間にすべての状況を把握し、次の行動を決定する。
「すべての状況」の項目は多岐に及ぶ。 
まず第一に敵艦の種類を判別する。 
空母か、戦艦か、重 巡洋艦か、大型輸送船か。
同時に艦の高さを知る。これは特眼鏡の分割目盛りで敵艦の見かけの 高さを読み取る。
次いで、読み取った目盛りの数値を換算式に当てはめ、敵艦との距離を知る。 
さらに敵艦の航行速度を、艦首や艦尾にできる波の形で推測する。
そして最後に、敵艦と自分の回天との方位角、つまり、敵艦と回天がどういう角度で向かい合っているかを特眼鏡で見て判断する。
これらすべての情報をもとに一つの結論を導き出す。
「射角」の決定だ。
 回天が敵艦にぶつかるように、最終的な突撃の方向を定めるということだ。
射角を決めたら、速力三十ノット、深度四メートルを維持してひたすら突っ込む。
敵艦は動いているが、こちらは動いたその先を読んで射角を決定しているわけだから、観測と計算に間違いがなければ、数分後、回天と敵艦の二つの線は交わる。
だが観測と計算に一つでも誤りがあれば、襲撃は空振りに終わる。

訓練中の事故は回天の宿命と言えた。
元々が魚雷を無理やり膨らませて造った代物だし、研究開発期間などと呼べる時間もほとんどなかった。
搭乗訓練に使いつつ、それと並行して機械の精度を高めていく。
要は、搭乗訓練がそのまま回天のテスト運転という自転車操業的な状態だったのだ。

 

兵舎を出て桟橋を見た。
並木らの乗る六基の回天は、母艦である伊号潜水艦の甲板に特殊バンドで固定されていた。
前甲板に二基、後甲板に四基。百メートルからある潜水艦の背に乗った回天は、大木にしがみつく蝉のように見えた。
午前十一時。
厳粛な雰囲気の中で出陣式が挙行された。

「頑張れよ!」
「おう!」
「空母を頼んだぞ!」
「おうとも!」
「六万トン、ボカチンだ!」
「任せとけ!」
並木らがボートに乗り込み伊号潜水艦へ向かうと、見送る基地隊員は岸壁に鈴なりだ。
「帽ふれ!」の合図で一斉に何百もの帽子が打ち振られる。


並木らを乗せた伊号潜水艦は、浅い深度で潜航しながら沖縄を目指していた。
本土では「国民総武装」の決定がなされ、女性も子供も竹槍で敵を突き刺す訓練を始めているという。
「いざ本土決戦」のスローガンは、今や「一億玉砕」にエスカレートし、日本という国そのものが、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれていた。
沖縄では既に血が流されている。それは戦う術を知らない島民を巻き込んだ凄惨な戦いだった。

回天戦用意! 搭乗員乗艇!
「敵は船団だ。五隻いる。 絶好の目標をとらえて必中撃沈を期すように」
「成功を祈る。心から......」
艦長の唇が震えた。
並木は背筋を張った。
「敵厳戒の中、ここまで連れてきていただき感謝の言葉もありません。艦長以下、乗員一同の武運長久をお祈りします」
「ん........」
「行きます!」
並木はラッタルを駆け上がり、五号艇に乗り込んだ。レシーバーをつける。
≪方位角右八十度、距離八千。 発進用意のうえ待機せよ》

 


昭和二十年八月十五日。
日本は連合国に無条件降伏した。
軍部は最後まで「一億総玉砕」を叫んだが、既に国内は疲弊しきっていた。
沖縄では血みどろの敗北を喫し、街という街は連日連夜の空襲で焼け野原となり、
広島、長崎は原爆で壊滅させられていた。
遅きに失した降伏だった。
戦争は終わった。
日本は負けた。
国民は現実を受け入れた。
大隊は解散された。 
昭和十九年十一月から終戦までの出撃回数は三十一回を数え、出撃隊員、事故による殉職者、搭乗整備員ら百四十五名が回天と運命をともにした。
その戦果ははっきりしない。
明らかに回天特攻によって沈没した輸送船が、米軍の発表では沈没はおろか、攻撃すら受けていないことになっていたりした。

日本側もすべての戦果を掴みされなかった。 
戦果を挙げた隊員が戻ることのない特攻作戦だから、確かな資料が作れるはずもなかった。

・・・

 

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婉という女  (高知県宿毛市)

2024年06月03日 | 旅と文学

江戸時代の初期の四国・土佐藩家老”野中兼山”は、
土佐藩の新田開発や港湾建設で有名な人だが、
失脚後、一族が長期間幽閉されたのもよく知られている。

幽閉されていたのは現在の宿毛市立宿毛小学校の校地。
校地内には記念碑や多くの説明板が建ち、
野中一族の功績や、一族の幽閉の史実を長く伝えていくという意思が伝わる。

宿毛小学校の説明板。↓

野中兼山一族の幽閉
野中兼山は江戸時代、土佐藩(今の高知県全域)の奉行で、藩内の政治のリーダーでした。
兼山は新田を開発したり、港を築いたり、お米の値段を調整したり、次々と新しい仕事を実行しました。
宿毛でも、河戸堰や宿毛総曲輪 (堤防)を築いたり、沖の島や山でおきた国境争いを解決しました。
しかし、兼山のやり方はとても強力だったので、各地で反発を生み、結局、奉行を辞めて隠居します。
そして その直後、四十九歳で死去してしまいました。

ところが、それでも反発の声はやみません。 
兼山の政治が土佐藩の人々を苦しめたといって、兼山の子どもたちに、その罪を負わせることになったのです。
親の罪が子にもおよぶ時代でした。
子ども八人は宿毛に送られ、今の宿毛小学校のプールの場所に幽閉されました。
一番幼い貞四郎は、まだ二歳でした。
竹で囲まれた家での外には出られない生活の間に、子どもたちは成長し、そして次々に亡くなりました。 
四女の婉は、兄、姉を失う悲しみを和歌を詠みます。

つらなりし梅の枝枯れゆけば のこる梢の涙なりけり

つらなる梅の立枝が枯れていくと、のこる小枝は涙を流すばかりだ。
約四十年という長い長い年月が過ぎ、男子の全員が亡くなると、
寛、婉、将の三人の女子だけが、ようやく釈放されました。
釈放された三人の内、婉は今の高知市朝倉に移って医者になったということです。 
この婉の生涯は、高知県出身の大原富枝の小説『婉という女』で紹介され、大きな反響を呼びました。

 

・・・

旅の場所・高知県宿毛市桜町
旅の日・2018.10.3
書名・婉という女
著者・大原富枝  講談社 2005年発行

・・・

 

 

「婉という女」

第一章 赦免ということ

今日、安東家からお使者が見え、藩府からの赦免状を受けた。
お使者の帰ったあと、母上を中に、乳母、姉上、妹と相擁して泣いた。
八十を越えた母上と、六十五歳の乳母、姉妹たちもみんな四十をすぎた老嬢ばかり、
こうして相擁して泣いている涙も一人一人が別であった。


「野中婉、四歳にして獄舎に囚われ、九十歳の生涯をここに置く」
もしも墓碑銘を刻むことが許されたら、そう記して貰おう。
わたくしは遂に生きたことはなかったのだ。
門外一歩を禁じられ、
結婚を禁じられて、四十年間をわたくしたちはここに置かれた。 
他人との面会を許されず、他人と話すことを許されないで、わたくしたち家族はここに置かれていた。

わたくしたち兄妹は誰も生きることはしなかったのだ。
ただ置かれてあったのだ。
四十年の間に、わたくしの兄姉は次々に死んでいった。

生き残った三人の姉妹のうち、姉上と妹は同腹のきょうだいであった。
二人はわたくしのように赦免を待ち望んではいなかった。
ほとんど迷惑に思っていた。
彼女たちはいった。
いまさら自由になって何としましょうぞ、 路頭に迷うばかりでございます。
このまま、生涯をここで終る方がようございます。

見たこともない新しい世界への不安と怖れは、勿論わたくしにもあった。
ましてこの四十をすぎた異腹の姉妹たちは、
もはや生涯を終っていた。
一度も生きることなく、彼女たちはすでに生涯を終っていた。

 

 

第四章 生きること

まず高知のお城や町を見たい、という母上のおのぞみで、駕籠は遠廻りしてゆくことになった。
城下にはいったのは日も暮れ方で、商いの家並もまだ灯は入れず、夕映えの反照で赤っぽい明るさの往来を、
慌しく人々が往き交うているのを、わたくしは心緊まる思いで眺めた。
井口の老人に出迎えられ、わたくしたちは駕籠を止めてお城を仰ぎ見た。
白堊三層の天守閣は、夕映えを背に淡紅色に 壁を染めて聳えていた。
権力と権威を誇示するためには、このような玲瓏な形式と結構の美しさが必要なのだ。 
政治という怪物めいたものが生れるには、このような優美な高楼がなければならないのだ。

泰山先生とのおめもじは、ある日思いがけなく訪れた。
飄然と、まったく飄然と先生はその日お見えになったのだ。
「おお、お婉どのかー」

 

乳母と日毎薬湯をつくり、丸薬を練る。
越鞠丸と名づけて旧臣のものの行商に委せる。
一人二人、診察を乞う人もきて、いささかの銭や米、野菜などがわたくしに与えられる。
こうしてわたくしの生活の道も、ささやかながらなりたってゆくようであった。

帰国されてからの先生は、江戸の渋川先生、貝原益軒先生、安家博士などと、ご研鑽の
御状おとり交しに以前にもまして忙しく、講義も絶えてなくおめもじの機会はなかった。
--母上をお送りしてわたくしの毎日は一層自由を加えた。
貧しい病人を診てやり、惜しげなく薬をあたえ、のどかな生れつきの老いた乳母と二人、興のおもむくまま読み耽ることもできた。

享保五年が明け、そしてこの年も暮れた。
享保六年、宿毛から、妹、将女の死を告げるたよりが遥々と届いた。
涙もこぼれず、わたくしは乾いた眼にそれを読み、丹念に畳んでいった。
幽獄を出て十九年、ここでもまた、わたくしの周りには夥しく死が堆積した。
わたくしはそして六十一歳になった。
こうして、孤りここに生きている。これからも、生きてゆく・・・。

 

 

 

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銭形平次捕物控  (東京都神田明神)

2024年05月31日 | 旅と文学

”捕物帳”はどんな話もジャンルとしておもしろかった。
最初は映画。明神下の銭形平次(長谷川一夫)や、黒門町の伝七(高田浩吉)。
次にラジオ。松島トモ子の捕物帳。
大人になって小説。平次、半七、佐七、伝七、その他。

テレビでも、番組名に平次、半七、佐七、伝七の親分名が付いた。
なかでも、テレビの長寿番組としても知られのが、「銭形平次」
主役は大川橋蔵。舟木一夫の主題歌もよかった。
東映の時代劇スターだった橋蔵の代表作となった。

 

 

・・・

旅の場所・東京都千代田区外神田 神田明神
旅の日・2022年7月10日
書名・「銭形平次捕物控」
著者・野村胡堂 文春文庫 2014年発行

・・・

 

BS12チャンネル 2024.3.2

 

金色の処女


「平次、折入っての頼みだ。 引受けてくれるか」
銭形の平次は、相手の真意を測り兼ねて、そっと顔を上げました。
二十四、五の苦み走った好い男、藍微塵の狭い袷に膝小僧を押し隠して、弥造に馴れた手をソッと前に揃えます。


「一つ間違えば、御奉行朝倉石見守様は申すに及ばず、御老中方にとっても腹切り道具だ。
押付けがましいが平次、命を投げ出すつもりでやってみてはくれまいか」
と言うのは、南町奉行与力の筆頭笹野新三郎、奉行朝倉石見守の知恵嚢と言われた程の人物ですが、不思議に高貴な人品骨柄です。
「頼むも頼まないもございません。先代から御恩になった旦那様の大事とあれば、平次の命なんざ物の数でもございません。 
どうぞ御遠慮なく仰しゃって下さいまし」
敷居の中へいざり入る平次、それをさし招くように座布団を滑り落ちた新三郎は、
「上様には、また雑司が谷のお鷹狩を仰せ出された」
「エッ」
「先頃、雑司が谷お鷹狩の節の騒ぎは、お前も聞いたであろう」
「薄々は存じております」
それは平次も聴き知っておりました。
三代将軍家光公が、雑司が谷鬼子母神のあたりで御鷹を放たれた時、
何処からともなく飛んで来た一本の征矢が、危うく家光公の肩先をかすめ、三つ葉葵の定紋を打った陣笠の裏金に滑って、眼前三歩のところに落ちたという話。

 

それっ、と立ちどころに手配しましたが、曲者の行方は更にわかりません。
後で調べてみると、鷹の羽を矧いだ箆深の真矢で、白磨き二寸あまりの矢尻には、松前のアイヌが使うという『トリカブト』の毒が塗ってあったということです。 
「その曲者も召捕らぬうちに、上様には再度雑司が谷のお鷹野を仰せ出された。
御老中は申すに及ばず、お側の衆からもいろいろ諫言を申上げたが、上様日頃の御気性で、
一旦仰せ出された上は金輪際変替は遊ばされぬ。
そこで御老中方から、朝倉石見守様へ直々のお頼みで、是が非でもお鷹野の当日までに、上様を遠矢にかけた曲者を探し出せとのお言葉だ。なんとか良い工夫はあるまいか」
一代の才子笹野新三郎も、思案に余って岡っ引風情の平次に縋り付いたのです。
「よく仰しゃって下さいました。御用聞冥利、この平次が手一杯にお引受け申しましょう」

 

BS12チャンネル 2024.3.2

 

・・・

 

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「平家物語」扇の的  (香川県屋島)

2024年05月31日 | 旅と文学

屋島はかつて、四国を代表する観光名所だったが、近年は陰りがある。
台地状の半島は源平時代は島で、現在もその名残りを容易に想像できる。

 

屋島の展望台「談古嶺」から源平古戦場を望む。
正面が五剣山(八栗寺)で、談古嶺と五剣山の間が古戦場。
屋島の標高は、約300m。


では、山を下って古戦場へ下りて行きます。

 

 

・・・


旅の場所・高松市屋島中町
旅の日・2013年9月6日 
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

・・・

 

屋島古戦場に着いた。

 

早春の日はすでに傾いて、屋島の第一日目はあとわずかで暮れようとしている。
源平両軍とも、負傷者の治療や戦死者の死骸のあとかたづけにいそがしい。
沖の平家の船からも、陸の源氏の陣からも、細い数条の煙がゆるやかに立ち登っている。
これは夕食のしたくをする煙と見える。

その時、沖の方から小舟が一そう、陸を目がけて漕ぎ寄せて来た。
たった一そうだから、いくさいどむ舟とは見られない。
陸から八十メートルほどの所まで来ると、舟は横向きになった。 
乗っているのは三人で、
ひとりは老武者、
ひとりは梶取り、
他のひとりは若く美しい女である。 
年のころ十八、九ででもあろうか。
内裏に仕えている侍女とみえて、柳色の五衣に真っ紅な袴をはいている。
戦場で女性を見るのは珍しいので、源氏の兵たちはいっせいに彼女に注目する。 
さらによく見ると、舟の真ん中に一本のさおを立て、その先端に開いた扇をはさんである。
地の真ん中に、白い日が描かれた話である。
かの美しい侍女はその扇の下に立って、こちらをしきりに招いている。

 

 


大将軍義経は、
「あれは何か。」と聞いてみた。
「あの扇を弓で射よ、というのでしょう。」
「だれがよいか。」
「下野の国の住人、那須与一宗高がよろしいでしょう。小兵ではございますが、なかなかの手きと聞いております。」
「では与一を呼べ。」

那須与一宗高は、大将軍の前に呼ばれ、何度も辞退したのだが、
「この義経の命令が聞かれぬとあらば、はやはや鎌倉へ帰るがよい。」
と義経に言われ、ついに決心してその場を立った。

那須与一は、太くたくましい黒馬に乗り、弓を取りなおして、水際に向かって歩ませる。
その 後ろ姿にも、決死の覚悟がうかがわれる。
もしこれを射損じたなら、その場で腹かき切って死ぬつもりでいる。
陸からでは距離が少し遠いので、与一は十メートルほど海の中へ馬を乗り入れた。
磯打つ波もやや高い。
その高い波に舟はゆり漂うので、扇の的も定まらない。
沖には平家が船をいちめんに並べ、陸には源氏が馬のくつわを並べて、かたずをのんで見守っている。
那須与一はしばらく目をふさぎ、心もち手を合わせるようにして、神に祈りをこめた。


「なむ八幡大菩薩、那須湯泉大明神、なにとぞ、あの扇の真ん中を射させて下されませ。 
万が一 これを射損じましたなら、この場で弓を折り自害して、二度と故郷へは帰りませぬ。
いま一度私を本国へ返して下さる気なら、どうかこの矢をはずさせて下さるな。」
そう祈りをこめて目をあけると、心なしか風も少し弱まり、扇のゆれも静まったように思われ
与一は背中に負うたえびらから、かぶら矢を一本抜き取り、それを弓につがえて引きしぼった。

 

 

 

すると小さな扇が大きく見えてきた。
指が開き、矢は弓の弦を離れた。ひゅーっという、かぶら矢独特の音が、屋島の海に長鳴りし的て、真っすぐに扇を目がけて飛んでゆき、要より三センチほど上を、ひいふっと射切ったではないか。
扇はいったん空高く舞い上がり、やがて夕日を受けて、紅の蝶のように、ひらひらと海面へ舞い落ちてきた。


「ああ、みごと!」
「おお、やったぞ!」
沖では平家が船ばたをたたき、陸では源氏がえびらをたたいて、しばしは感嘆の声が鳴りやま ない。

 

 

・・・

「扇の的」の話はあまりに有名なので、
与一にこじつけて”全国与一サミット”というのがある。

五剣山中腹にある「石の民俗資料館」前には、手のひらの記念碑がある。
2001年の第1回「与一サミット」の開催記念で、
高松市
井原市
大田原市
五箇荘町
庵治町
牟礼町
の3市長3町長の手形。

 

与一サミットは、いつまでつづいたのか知らないが、のんきな時代があったものだ。

 

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「太平記」児島高徳      (岡山県院庄) 

2024年05月29日 | 旅と文学

”ご当地ソング”というのがある。
北島さぶちゃんやデューク・エイセスが多く歌った。
戦前には大正・昭和初期に”新民謡”が流行した。
他にも、童謡の「赤い靴」や「鞠と殿様」も、ご当地ソングにはいる。

作州・院庄を舞台にした「忠義桜」は戦前、岡山県を代表する歌の一つだったが、
敗戦によって、日本が神の国でなくなると、神を歌った「忠義桜」も唱和される事が無くなった。
今はかすかに、記念碑的な歌として残っている。


戦前の全国の女学校で人気、それも岡山県では特に人気の歌であった、
というような事を母は話していたが、
レコードが発売されたのは昭和16年。既に母は女学校を卒業している。

 

忠義桜

桜ほろ散る院庄   
遠き昔を偲ぶれば   
幹を削りて高徳が   
書いた至誠の詩(うた)がたみ

 天莫空勾践 時非無茫蠡
(~天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず~)

 

・・・


旅の場所・岡山県津山市神戸・作楽神社(院庄館跡)
旅の日・2008.4.20
書名・太平記
原作者・未詳
現代訳・「太平記」 永井路子  文春文庫 1990年発行

 

・・・

 

 

 

児島高德

当時備前国に、児島備後三郎高徳という者がいた。 
後醍醐がまだ笠置にいたころ、同調して地元で義兵を挙げたが、目的を達しないうちに笠置も落城し、楠正成も自害したという噂が伝わってきたので、落胆してそのまま行動を中止していたところ、
後醍醐が隠岐へ移されると聞き、裏切る気づかいのない、信頼できる一族たちだけを呼び集め、評定。
「道の途中の難所に待ちうけて、隙を狙ってことを起そう」
と、備前と播磨の境の舟坂山の嶺にかくれて、行列の通過を今か今かと待っていた。
ところが、いつまで待っても行列が通らない。
後醍醐を警固する武士たちは、山陽道を通らずに、播磨の今宿から山陰道に入る道をとったので、
高徳の計画は、目算がはずれてしまったということがわかった。

そこで高徳たちは、
「では、美作の杉坂こそ、もってこいの深山だ。そこで待ち奉ろう」
と三石の山から斜めに道なき道を突切って杉坂に急行したが、着いてみると、行列ははやくも院庄に入られたという話。

ついに力及ばず、一行は散り散りに別れることになったが、
高徳は、せめて自分たちの心だけでもお耳に入れたいと思い、身をやつしてひそかに帝に近づく機会を窺ったが、その折もなかなかこなかった。
そこで、後醍醐の宿の庭にあった桜の大木の幹を削りとって、そこに大きな文字で一句の詩を書きつけた。

天よ勾践を見殺しにしたもうな
いずれは忠臣范蠡の現われんものを

警固の武士達は翌朝これを見つけ、
「いかなる者が、なんと書いたのか」
と騒ぎになったが、誰もその意を読みとることができなかった。
その騒ぎが後醍醐の耳にも達し、たちまちその意を悟った後醍醐は、快げに微笑んだが、
警固の武士達はそこに含められた故事や詩の意味もわからず、その行為の主を深く詮索することもなかった。

 

・・・


児島高徳は、戦前も存在を疑問視されていたが、戦後はその論争すらない。
岡山県倉敷市児島林にある五流尊瀧院は、現在も多くの修験僧がいて、高徳はそこの山伏一団の総称ではなかったか?
という記事が地元紙に出ることもある。

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かぐや姫 (広島県竹原市)

2024年05月28日 | 旅と文学

おとぎ話の人物は、自称を含め縁の地は多い。
桃太郎さんは岡山・広島・香川に特に多い。
浦島太郎さんは日本全国、北から南まで数え切れず。
「かぐや姫」もまた、日本中に縁の地が多い。

広島県竹原市は「かぐや姫」の縁の町の一つ。
では、「竹原」と「かぐや姫」が何の関係があるのか?
といえば、それがよく分からない。
どうも”竹”原と、”竹から生れた”姫をこじつけたに過ぎないようだ。

 

 

旅の場所・広島県竹原市本町(竹原重伝建保存地区)
旅の日・2014.5.4 「たけ祭」 
書名・竹取物語
原作者・不明
現代訳・「日本の古典3・竹取物語・伊勢物語」 世界文化社  1974年発行

 


 

・・・

かぐや姫と竹取の翁


いまではもう遠い昔のこと。
竹取の翁とよばれる人があった。野や山にはいって竹を取っては、さまざまなことに使っていた。
竹取の翁のいつも取りにゆく竹の中に、根元の光る竹が一本あった。
あやしく思って寄ってみると、中が光っている。
見ると三寸(約一〇センチ)ほどの人が、たいそう愛らしい様子ではいっていた。

 

 

その愛らしいことといったら限りがない。
まことに幼いので、竹籠に入れて養育する。
竹取を生業としている竹取の翁は、この子を見つけてから後に竹を取ると、節を隔てた空洞ごとに黄金のある竹を見つけることが重なった。
翁はだんだん豊かになってゆく。

この幼児は、育てるうちに、みるみる大きく立派になった。
三か月ほどのうちに、人としてほどよい姿になったので、髪上げなどの儀をと考えて、 女のあかしの裳着の式を行った。
それからは帳の内から 外にだすこともなく、大切に養った。
この児の顔かたちの気高さ美しさは、世にまたとない。輝きわたる美しさに、家の内は暗い所を失って、光が満ちあふれた。


この児がすっかり成人したので、名をつけさせた。
「なよ竹のかぐや姫」とつけた。
この披露に三日を通しての宴を催した。 
歌舞管絃その他、さまざまな遊びをしてもてなした。
男たちをもだれかれなく招き集めて、たいそう豪勢な事だった。


・・・


さて、かぐや姫の姿形が、世にたぐいなくすぐれていることを御門がおききになって、
「よく見てまいるように」とおっしゃいましたので、伺うと、嫗はかぐや姫に、
「さあ早く、御門の御使いにおあいなさいませ」と言うと、かぐや姫は、
「とくべつにすぐれて美しい顔形ではございません。それなのにどうしてお目にかかれましょうか」と言う。
あおうとする気配はさらさらない。


「残念でございますが、この幼い者は強情者でございまして、おあいしそうにはございません」と申しあげる。

侍は、「必ず拝見してくるようにとの仰せがございました。
国王のご命令を、たしかにこの世に住んでおいでになる人が、お受けにならずにいらっしゃることができましょうか」
わけのわからない事をなさってはいけません」と、語調するどく言ったので、これを聞いたかぐや姫は、
なおさら納得するはずもない。「国王のご命令を背いたといって責められるのなら、早く私を殺してくださいませ」と言う。

 

 


かぐや姫は成人後、常にのように”わけのわからない事をなさって”いて、
悪く言えば異常で、わがまま。良く言えば妥協しない、筋を通す。
子どもの頃に紙芝居や絵本で見た、かわいらしい「かぐや姫」とは、たいそうな差を感じる。

 

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エデンの海     (広島県忠海町)

2024年05月26日 | 旅と文学

忠海高校出身の友人Kくんには、
忠海の決まった自慢話があった。

一つは学校のOB自慢、池田勇人首相とNHK政治討論会の司会者・唐島基智三さん。
二つは「エデンの海」があり、鶴田浩二が映画ロケで来て馬で走った。

たしかに首相を輩出した学校は、滅多にあるものではない。
鶴田浩二が馬に乗って街を走るロケがあったことも、大いに自慢できる。


忠海の街は、前に瀬戸内海、後ろに白滝山・黒滝山がそびえ、風光明媚な呉線沿いの湊町。
市役所のある竹原も、重伝建の町並み、洋酒のニッカ、塩田跡など見どころが多い。

・・・

「エデンの海」は、小説の内容や時代背景が「青い山脈」と似ている。
何度も映画化されるのも、また似ている。

女学生たちが敗戦によって「学徒動員」や「竹槍訓練」から解放され、
次にマッカサーによって「女性が開放」された。
その時代を非常によく現した作品と思う。

・・・

 

代理当直でその夜舎監室にとまった青年教師南条は、十時半の尾道上りの巡航船の笛を夢うつつに聞いてま
たひと眠りしたとき、
耳もとにささやく生徒の声に目をさました。
「先生、どろぼうがはいったんです」
白シャツでねていた南条は、そこにあっただれかのレインコートをひっかけて忍び足に急いだ。
早くも黒い影は塀ぞいに走りかけた。
どろぼうではないと直覚し「待て!」と呼んで懐中電燈を背中に浴びせかけると、
立ちどまってこちらを向いたのは南条の受持、三年生東組の清水巴だった。

 

 

舎監室の八十燭光の下で、巴の顔は淡化粧でもしているのかと思われるほどかがやいて見えた。
まぶしそうに細めた睫の表情が無類である。

「わたし、本当に好きな人は、先生です」
またたきもしない。
かえって南条の眼がたじろいだ。

 

 

旅の場所・広島県竹原市忠海町
旅の日・2006.9.26
作品名・エデンの海
作者・若杉慧
発行・「名作文学6・野菊の墓ほか」 学習研究社 昭和53年発行

 

 

 

明るい太陽、海の反射、段々畠にみのるレモン、オレンジ、「制服の処女」の群れ――
独身の男教師は採用した例がないというこの南国の海の女学校に、南条は破格の足音を立てて登場したのである。
彼の新生活ははじまった。
彼の口ずさむ歌は音楽教師の正課よりもすみやかにひろがり、町の写真屋では彼の手札型が彼の知らぬまにブロマイドのように焼き増しされていた。 
いたるところの樹木に彼の名がほられた。

 

 

 

馬と少女はトンネルの中からたちまち明るい陽光の中におどり出た。
あまりにも不意な『コロンバ』の出現。
絹ポプのブラウスにもんぺ草履ばき、ひらりと飛びのって裸と裸の接触、馬人一体。
自然の二つの生きものが脈搏そろえた美しさであった。 

 

 

 

南条は岩群の先端に立って遠く目をやった。
生と死を抱蔵し、あらゆる生命の流動をひそめて海は沈黙していた。
悲しみも、よろこびも、生の恐怖もまたその希望も、一つの沈黙に溶けて揺れうごいていた。
彼の身内にもそれに呼応するものを感ずるのだけれども、何の言葉で呼んでいいかわからなかった。

(エデンの海)

 

 

 

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野菊の墓 (東京都矢切の渡し)

2024年05月25日 | 旅と文学

中学生の頃、”学習雑誌”があった。
旺文社の「中学〇年生コース」
小学館の「中学〇年生の友」
女性用にはさらに「女学生の友」。
そういう学習誌に「野菊の墓」はよく載っていた。

「まさおさん」と「たみさん」の話は、中学生の年代にぴったりのお話だった。
金浦中学校では、各教室にラジオが置いてあり
「名作」をラジオ放送する時、教室で全員聴いていた。
そのなかに、もちろん「野菊の墓」もあった。
悲しい純愛の物語だった。

 

旅の場所・東京都葛飾区柴又
旅の日・2018年8月7日 
作品名・野菊の墓
作者・伊藤佐千夫
発行・「名作文学6・野菊の墓ほか」 学習研究社 昭和53年発行

 

映画「野菊の如き君なりき」

 

後の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。
幼いわけとは思うが何分にも忘れることができない。
もう十年余も過ぎ去った昔のことであるから、こまかい事実は多くは覚えていないけれど、心持だけは今なお昨日のごとく、そのときのことを考えてると、まったく当時の心持に立ち返って、涙がとめどなくわくのである。

 

 


僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村といってる所。
矢切の斎藤といえば、この界隈での旧家で、屋敷の西側に一丈五六尺もまわるような椎の樹が四、五本重なり合って立っている。


僕はちょっとわき物を置いて、 野菊の花を一握り採った。
民子は一町ほど先へ行ってから、気がついてふり返るやいなや、あれっと叫んでかけ戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないっだって僕が行くも のを......」
「まァ政夫さんは何をしていたの。私びっくりして
・・・・・・まァきれいな野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き・・・」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。」
「民さんはそんなに野菊が好き・・・・・ 道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菜を顔に押しあててうれしがった。ふたりは歩きだす。

「政夫さん・・・・・・私野菊のようだってどうしてですか」
「さァどうしてということはないけど、民さんは何か野菊のようなふうだからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって......」
「僕大好きさ」

 

 


よそから見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣きがおと見苦しくもあったであろうけれど、
ふたりの身にとっては、真にあわれに悲しき別れであった。
互いに手を取って後来を語ることもできず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、
泣きの涙も人目をはばかり、一言の言葉もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。
無情の舟は流れを下って早く、十分間とたたぬうちに、五町と下らぬうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。

 

 

 

 

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