しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ダッコちゃん

2023年10月19日 | 失われた仕事

ダッコちゃんは日本中を席巻したことは間違いない。
対象者は、10代後半の若い女性。
対象地域は、大都会。
全国展開したが、全国に普及した頃、突然のように消えてしまった。

当時、家にテレビはなかったが、
映画ニュースや雑誌のグラビアで、銀座を歩く女性のほとんどが
片方の腕にダッコちゃんをつけて歩いているのを知っていた。

その当時、茂平にも乗り合いバスが来るようになって1~2年経っていた。
バスを待つ女性がダッコちゃんを腕につけていたが、場違いのような違和感を感じた。
その理由は、既に東京の銀座では誰一人ダッコちゃんをもっている女性はいないと感じていたから。
でも、それが、1960年の大流行ダッコちゃんを、この目で見た唯一のこととなった。

 

・・・

 

・・・

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行


ダッコちゃん


1960年、東京・浅草の玩具から「木登りウインキー」の名称で一個180円で発売。
女の子が腕にからませて歩く、
この夏爆発的に流行。
「ダッコちゃん」の愛称が付けられ、
玩具店・百貨店では在庫切れに。
年末までに240万個が販売される大ヒット商品となった。
ブームは半年で沈静化した。

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炭焼き(すみやき)

2023年10月19日 | 失われた仕事

父は学校を出た時分に、山の畑で
「炭を作ってみたが、いいのはできなんだ」
と話していた。
たぶん、中国地方では「たたら製鉄」に必要な木炭作りのプロが、
その技術を生かして「たたら製鉄後」の仕事に従事したのではないだろうか。

家では木炭を「ケシズミ」と「カタズミ」と分けていて、
お金で買った「カタズミ」は客がある時、火鉢に使うくらいで、大切に利用していた。

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

炭焼き(すみやき)

明治の中期以降、道路など交通網が整備され、炭の都市への販売が可能になった。
木炭は薪に比べて、火が安定し、長持ちで、空気によって湿度を調整できるという利点があった。

炭焼きを行うには、まず谷間に窯を作り、原木を伐採する。
これを窯まで運搬し、
大きさがばらばらな材木を直角に切って、
表面を磨き、適当な大きさに揃える作業する。

窯焚きは一週間ほど。
炭木を縦に並べて焚口で火をたく。
炎をたてず、消えない程度に空気を与え焼く。
その間、
「焼子」と呼ばれる焼き係が小屋に泊まって昼夜、火の管理を行う。
煙の色で状態を判断し白煙から青い煙になると消化する。
窯から出して炭を切って選別する。
その後、梱包して出荷する。

 

・・・

「中央町誌民俗編」 岡山県美咲町 平成29年発行

 

炭焼き

木炭は、昭和30年代後半にプロパンガスが普及するまで燃料として欠かせないものであった。
そのため、中央町でも
冬場には炭焼きが盛んに行われた。
コンロや火鉢、炬燵に使用された。
多くの家では、共同で作ってもらった40俵くらいの釜で炭焼きを行っていた。
自家用として作ったが、
専門で作る人もいて農家の現金収入となった。
冬場に切った雑木のうち、
太い木は炭とし、
細い枝は各家の薪とした。
戦時中、子どもは木炭を背負う手伝いをよくした。

・・・・

「中央町誌民俗編」 岡山県美咲町 平成29年発行

製炭

山間地域では、農閑期の仕事として、一冬に複数回(3~4回)炭焼きをするのが一般的であった。
山を持たない家であっても、他家から山を借りて炭焼きをしたり、請け負ったりして、多くの人が製炭に関わっていた。
そのため山中には点々と炭窯があり、その横には製炭に関る作業をこなすための炭小屋が建てられていた。
こうした炭焼きは、単独の家で行うよりも、近隣の何軒かでグループを作って行われることが多かった。
また、
出荷前の木炭を集積する倉庫を複数の家で共有することもよくあった。

炭焼き作業の手順
原木を切り倒す。ナラやクヌギなど木質の固いものが向いている。
原木を1.5m程度に切る。丸太、または割る。
窯の中に運び込み、奥から隙間なく詰めていく。
詰めたら石などを入れて練った土で焚口との間に壁を作る。
焚口に火をつけて窯の過熱を始める。
煙突から継続して煙が出るようになると、焚口を小さくまで閉じていく。
煙の色や量で、炭の焼き上がりを判断する。
煙の色が白から灰色になり、最終的に青い煙になる。
さらに量が少なくなると焼き上がりと判断する。

焚口と煙突を土で塞ぎ酸素を遮断して、木を炭化させる。
火気が残らないよう、一週間から10日間は決して窯を開けない。

焚口を開けて木炭を取り出す。小屋に運び、並べる。
炭挽き鋸や金挽く鋸などで、木炭を適切な長さに切る。樹皮を落とす。
上等な炭は炭俵に隙間なく丁寧に詰める。
普通の炭や雑炭は、藁で作った丸い俵に割りながら詰めていく。
木炭検査員による検査を受けて、主に農協へと出荷された。

炭焼きの炭窯は、良くできた炭窯であれば3~4年耐久性を有すが、
原木場所が移動した場合は放棄された。
移動性を有する産業だった。

 

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「岡山県史民俗Ⅰ」  岡山県  昭和58年発行

炭焼き

中国山地でタタラ製鉄が行われていた時代には、
炭は鉄山の「炭焼き」がタタラ用として専門に焼いていた。
「たたら三里に炭八里」といわれたように、大量の炭を必要とした。

各家庭での炭は、
主に消し炭が利用され火消し壷で熾火を消し、
たまると叺(かます)に入れて保存し、
これを冬季に火鉢や炬燵で、熾火を入れた上に、つぎ足した。

炭は、主として中国山地と吉備高原の村々で焼かれた。
今のような大窯を築くようになったのはそう古いことではない。
都市で、炭を使って調理するようになったからである。
さらに、炭焼きの技術が明治の中ごろから普及したからである。
火鉢の使用が一段と多くなるのはカタズミ・木炭を使うようになってからである。

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浜仲仕

2023年10月18日 | 失われた仕事

(横浜港の沖仲仕をかっこよく演じたトニー・赤木圭一郎の「錆びた鎖」)

 

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陸でも海でも、荷積・荷降・集荷等の作業は21世紀の今でさえ、人の手で大半が行われている。
海の貨物船の場合は、
陸揚げのためには、艀(はしけ)を利用しないと積荷が陸に上がらなかった。
貨物船と艀の荷積・荷降をする仕事が”沖仲仕”。
船と陸の荷積・荷降をするのが”仲仕”。
それに加えて”浜仲仕”がいた。

たぶん、浜仲仕とは、沖仲仕と仲仕を兼ねた仕事だったのだろう。

 

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浜仲仕

笠岡市郷土館  県指定・有形民俗文化財・笠岡港の力石

 

(笠岡市郷土館の力石)

 

江戸時代から昭和初期にかけて、笠岡港は瀬戸内海における海運の重要な拠点として栄えていた。
港で物資を船に積み込んだり、荷揚げしたりする者は浜中仕と呼ばれ、
かなりの人数が笠岡港で働いていた。
彼らは東浜組と西浜組の二つのグループに分かれており、
最盛期には
東浜組が36人、
西浜組が20人くらいはいたようで、
それぞれ力自慢の者がそろっていた。

昭和58年8月4日指定 笠岡市教育委員会

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昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

 

沖仲仕

貨物船と港の間で荷物の揚げ下ろし、運送する人。
昭和期の貨物船は荷物の揚げ下ろしに多くの肉体労働者を必要とした。
北九州市では「ゴンゾ」と呼ぶ。

船が港の近くに泊まると、船の倉庫から荷物を揚げて、艀(はしけ)と呼ばれる小船に乗せて陸に運んだ。
この作業を沖仲仕が行った。

陸上で荷物を待ち、艀から荷物を取り上げるのを陸仲仕と言った。
※浜仲仕とも

沖仲仕の特徴は、
問屋の主人と親方、子方など独特な関係で結ばれていた点である。
十数人で集団を組む。
大親分から小親分までピラミッド構造で、多くの下請けが作られていた。

沖仲仕の仕事は肉体的にも過酷で、しかも海上で行うため、危険を伴う。
高賃金ではあるが、明日の保障はない。

昭和40年代までは人による肉体労働が中心だったが、
港湾が整備され、大型コンテナ船が増えてくると、大型クレーンなど機械を操作する仕事に変わった。

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(火野葦平の「花と龍」)

 

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産婆さん

2023年10月14日 | 失われた仕事

茂平の同級生Aくんのお母さんが産婆をしていた。
Aくんのお母さんは、しゃんとした人だったので、他に
婦人会の会長や
茂平婦人消防団の団長などもされていた。
茂平の人は大人も子どもも、”産婆さん”と感謝を込めて呼んでいた。

産婆さんが、どれほど忙しかったかというと
管理人が生まれた時、茂平だけでも相前後してHくんとT子さんが生まれた。
産婆さん自身がゼロ歳児を育てながらの産婆業で、
しかもAくんの上にはお姉さんが二人いた。
ついでに言えば、当然ながら合間には農業もしていた。

城見小学校の同級生60余人、そのほぼすべてを産婆さんが取り上げた。
産婆さんの年齢は、管理人がお世話になった当時30歳前と思われる。
今から思えば、信じられない神業で、
母も当時のことを
「産婆さんほど忙しい人はおらなんだ」と、よく話していた。

 

・・・

 
「鴨方町史」


産室 

昭和20年代までは、自家でお産をした。
産室はナンドであった。

ヒヤのある家はヒヤですることもあった。
脛をつき、お尻をあげた格好となる。

青竹を両手で持ち、握りつぶすほどりきんで産む。
座り産である。


お産

産気づくと産室へ入った。
産むときは恵方に向き、全身の力を振り絞ったのである。
子供は差し潮か満ち潮の時に生まれるのがよいといわれる。 

 

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「昭和の仕事」  澤宮優 弦書房 2010年発行

産婆(さんば)

明治32年に作られた産婆規則の試験に合格し、
分娩を助ける女性を言う。
木下恵介の代表作「二十四の瞳」には、
将来の夢という作文の時間に、
産婆になりたいというシーンがあった。
戦前の地方の女性にとって、
自立して生きることは、手に職をつけることで、
とくにこの時代に女性が携わることができる職種は限られていた。

 

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瓦師

2023年10月14日 | 失われた仕事

城見小学校の通学路は、橋本屋の前の踏切を渡るのが学校から指定されていたが、
5.6年生になると、帰り道はアメリカ屋の前の踏切をわたって帰ることがあった。
その訳は、アメリア屋寄りの瓦屋に遊びに行っていたから。
瓦屋での遊びは、仕事の邪魔にならないようにラジオを聴いた。
瓦屋は、仕事場にラジオを置いて相撲中継を流していた。
それを小学生たちも、
「今日も栃錦は勝つだろうか?若乃花は呼び戻しで勝つかな?」
それは当時の、日本人の多くが注目するところだった。

用之江の瓦屋は、すぐ近くの田んぼからの土を原料にして、
従業員2~3人で毎日瓦造りをしていた。

昭和30年、家を新築した時、
瓦は四国の菊間から船で茂平の港に着いた。その時の光景は今もよく覚えている。
では用之江の瓦屋の販路はどの方面だったのだろう?
長く城見の工場では、用之江の瓦屋が最大規模だったのだが。

 

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「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

瓦師


瓦師は粘土をこねて型を作り、窯で焼いて、鬼瓦・平瓦などを作った。
大河が近くを流れ、良質な粘土がとれるところに瓦工場が作られた。
戦前から昭和40年代にかけて、煙突小屋のある瓦工場はあちこちに見られた。

名古屋の三州瓦、兵庫の淡路瓦、島根の石州瓦が、
日本の三大瓦と呼ばれる。

立地条件として、交通の便もある。
すなわち港の存在も必要な要件であった。

 

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「新修倉敷市史第八巻」  倉敷市  1996年発行

瓦焼き
瓦の製作には、田の上土を取り除いて、その下にある粘土が使われる。
稲が刈り取られた後の冬の間に粘土を掘り起こしてきて、
その固まりを自宅の前庭に山のように積んで、一年間の使用分を蓄えておいた。
昔の個人的な小経営の瓦焼きは、一年間に四~五軒分ぐらいのものであった。

 


「だるまがま」と呼ばれる、両側にたき口のある土の窯に入れて焼かれた。
たき口には、松葉を入れ、煉瓦と板、さらに砂止めをしてふたをすると、
蒸すように焼くことができた。
しかし温度調整など、付きっ切りの作業で、重労働だった。
「だるま窯」は、小さな窯で一基あたり300~400枚の平瓦が焼けた。
窯の補修のために、交替用として自宅に二基用意されていた。
昭和35年頃、重油バーナーに変った。

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古本屋

2023年10月10日 | 失われた仕事

労働せずに、
大学生が小銭を手にしようと思ったら、普通三つの方法があった。
質屋へ腕時計等を預ける。
本を古本屋に売る。
パチンコに行って儲ける。

このうち、
質屋は、学生は夏休み前の帰省旅費に当てるため。で頻度は少ない。
パチンコ店は、儲けるつもりで店に行き、損して出る。
そういう訳で、一般的には古本屋となる。

古本屋は、二通りの利用法があり、二通りともよく利用していた。
本を安く買いに行き、本を高く売りに行くところだった。
窮屈な店内は、本棚が天井まで届き、お店に使用人はなく店主さん一人で賄っていた。
古本屋には本屋で味わえないアカデミックな雰囲気があった。
店内には、なんともいえない古本の臭いがしていた。
本を探す楽しみは、本屋とは違っていて、見つけた本に興奮することもあった。

記憶をたどれば、社会人になってからは、
本屋には行くが、
古本屋には一度も入ったことがないような気がする。
給料を手にして贅沢になったのだろう。
今は、読むのはすべて図書館の本で、再び貧しい生活をしている。

・・・

 

 

・・・
「ラジオ深夜便」 NHK 2023年7月号

本を友とし、孤独を癒やす  五木寛之

書店巡りもよくします。
昔は日に一度、今は二、三日に一度といったところでしょうか。
さまざまなジャンルの本を眺めながら歩くのは観光地を巡っているようで、
とてもおもしろい。

早稲田大学の学生時代は極貧の生活をしていましたが、
それでも本は読んでいました。
図書館にも行きましたし、友人から借りたりもしたものです。
「高いなあ」と思いつつ買うことも多かった。
買った本はカバーをかけて帯を外さずになるべく丁寧に読み、
読んだあとは古本屋に持っていきました。

昔の古本屋は今と比べて、とても良心的な値段で買い取ってくれたので、
本は買うのも高いが、売るのも高く売れる時代でした。
古本屋で値段の査定をしてもらうとき、
「このくらいにならないかな」
とこちらが予想している値段とぴったり同じ価格で買い取ってもらえると、
やった!
などと大喜びしたものです。

・・・

 

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屋上ビアガーデン

2023年10月06日 | 失われた仕事

ビアガーデンは楽しいが、自分から行ったことはない。
一人で行くところでなく、二人でも行くところではない。
最低三人は要るような気がする。
行くのは誘われたり、会の行事等で利用していた。

利用がいちばん多いのは福山駅屋上サントークのビアガーデン。
飲酒運転が厳しくなってからは、
お酒を外で飲むは駅から近い店が条件となった。

独身のころ、
鹿児島市の宇宿町というところに住んでいた時、
夏の夜は毎晩、ビアガーデンに行っていた。
宿舎の近くにビアガーデンがあった。
近くといっても歩く距離でなく、車で5分くらいの距離。
3~4人で車で行って、車で戻っていた。
当時はまだ宿舎に冷房というものがない時代で、ビールを飲まないと寝られなかった(←ほんと)。
宇宿町にあるそのお店は、小さな三階建てのビルで、その屋上に小さなビアガーデンがあった。
ビアガーデンの明かりも小さくで、ほの暗かった。
生暖かい夜風に吹かれながらビールを飲む。
何杯か飲んだ後、気持ちよく、警察がいない裏道を通って帰っていた。

その頃は、どんな小さな町でも飲食ビル屋上には提灯がぶらさがっていた。
今は天気に関係のないビアホールが主流になっているようだ。
福山駅サントーク屋上ビアガーデンも、とうの昔廃止されてしまった。

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「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

仕事帰りに、ビルの屋上で、キンキンに冷えた生ビールをあおる極上のひととき。
「ちょっと寄っていくか」が屋上ビアガーデンの楽しみだった。
屋上ビアガーデンが人気を博したのは昭和40年代前半まで。
まだ家庭内にエアコンが普及してない時代である。

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アイスキャンデー売り

2023年10月05日 | 失われた仕事

一年で一番暑い夏休みの盆の前後ごろ、
茂平にも「アイスキャンデー屋」が来ていた。
笛をピーピー吹きながら、自転車に旗をなびかせてやってきた。
あの音が楽しかった、というか親に期待したい時だった。
アイスキャンデー屋が来る2~3回に1回ほど、親がアイスキャンデーの金をくれた。

おじさんが自転車を停める頃は、もう客(子ども)が先におじさんを待っていた。
夏休みなので、親戚を訪ねている見慣れない子がきていて、大阪弁や東京弁を生で聞くことがあった。
言葉の他に、服装や、しぐさが茂平の子とは全く違っていた。
その時は、茂平はほんとに日本の地の果てかと、みじめに思った。

自転車の荷台に四角な木箱を置いていて、その中にアイスキャンデーが入っていた。
お金を出して食べるおやつ類は、どれも、なにも、みなおいしかったが
夏のアイスキャンデーは特においしかった。
粗末な氷の冷蔵庫の箱から出してくれるアイスキャンデーは、
その時、すでに溶けかけていた。
吸いながら食べた。
甘くて色粉がいっぱいのアイスキャンデーだった。

 


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「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

アイスキャンデー屋


自転車の荷台に木箱が置かれ、
蓋を開けると、基盤の目状の枠の中に棒付きのアイスキャンデーがはいっていた。
アイスキャンデーは夏の風物詩であった。
午後1時から3時までの間に、アイスキャンデー屋がやってくる。
粗悪な色素・香料が使われ、
雑菌の入った水で作られていたので腹をこわすこともあった。
売り子は麦藁帽子を被った中年以上の年配の男女が多く、
季節仕事でもあり
収入も安く、専業は多くなかった。

・・・


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

 

アイスキャンデー売り

自転車の荷台に大きな木箱を乗せ、のぼりを立てて、チリンチリン。
昭和の夏の風物詩、アイスキャンディ売りの全盛期は、
実はそれほど長くない。
当時のアイスキャンディは、
ズルチンやサッカリンのどの人工甘味料、または果汁で味付けした水を試験管のような器具に入れ、割りばしを差し込んで凍らせたものだ。
多くは赤や青であざやかに着色されていた。
1950年代後半から強力なライバルが登場する。
雪印、森永、協同乳業などの大手メーカーがアイスクリームや水菓の大量生産を始めたのだ。
駄菓子店や食料品店には冷蔵庫が普及し、
カップアイスや棒アイス、シャーペットなどが安定的に供給できるようになった。
喫茶店ではソフトクリームが新商品として流行した

こうしたライバルの台頭を受けてアイスキャンディ売りは規模を縮小していく。

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かき氷

2023年10月05日 | 失われた仕事

かき氷ほど食べたいものはなかった。
かき氷を食べる時ほど、うれしい時はなかった。

わが人生で10回くらいだろうか?かき氷を食べたのは。
大門駅前の店で5回くらい、
笠岡駅前の店で3回くらい、
茂平の番屋で2~3回くらい。

真夏で、店内は開けっ放し。
小さな扇風機がまわっていた。
木製のテーブルとイスがあり、座ってから注文をする。
「イチゴ」、というのが決まり。

お店の人が氷機に行くと、
「ガリガリ」という氷を締めて固定する音がする。
次に、「シャリシャリ」と氷が切れてガラス容器に落ちる音がする。
半分ぐらい氷の山ができると、ハンドルをゆっくりまわして、慎重に富士山の形に整える。
氷の山が完成すると、真っ赤な液(シロップ)を氷の山頂に振りかけて完成。

自分の前にあるイチゴのかき氷はさじで食べる。
山の上から食べる、
この時注意しないと山が崩れ、すこしテーブルに氷が落ちることがある。
半分食べたら、残った氷をつつき冷たいイチゴ水にする。
それをさじですくって飲み、
最後は容器を手にして飲み干す。
料金を払って店から出る。

・・・

 

「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行

かき氷は夏の風物詩
かき氷は夏の風物詩だった。
氷屋のおじさんがハンドルを回すと「シャリ、シャリ」と見る見るうちに氷が新雪のような山となり、涼しさが伝わってくる。
赤いイチゴのシロップをかけてもらって、一口食べると、ツーンとおでこが痛くなった。

 

・・・

社会人になってからのこと、
夏に歩いていたら暑くて喫茶店に入った。
たまたまかき氷があったので注文した。
かき氷はモーターで完成、
きき氷には金時や濃いミルクや果物をカットしたものが乗っていた。
それがかき氷を食べた最後になった。

・・・

 

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金魚売り

2023年10月04日 | 失われた仕事

金魚売りは夏に、毎年来ていた。
天秤棒に担いで、一軒一軒歩いていた。
その金魚売が家に来ると、なぜか嬉しい気分になった。

金魚とガラス製金魚鉢を売っていた。
金魚にも種類があり、
だいたい、
奇麗な金魚は高く、長持ちしない。
メダカを大きくしたような金魚は安く、長持ちする。
という、子供にもわかる傾向があった。
出目金(でめきん)が一番人気で、一番高かった。

では安価な金魚が長持ちするか?
と言えば、そうでもなかった。
たいてい、持って夏休みの終わりまでだった。

親が買ってくれた金魚は、
金魚鉢に入れ、
まず裏の溜池に行き、そこでホテイ草を取ってきて金魚鉢に浮かべる。
(エサは味噌汁に入れる)「ふ」。
「ふ」を小さくちぎったり、そのまま水面に浮かべていた。
金魚鉢の水は毎日、井戸水で取り換えていたが、
日に2~3度取り換えたかと思えば、何もしない日があった。
そして、
一匹死に、
二匹死に、・・・
ついには、夏の終わりに金魚ゼロ。
金魚鉢を倉にしまう。
翌年夏、倉から金魚鉢を出す。
それが少年の日の金魚売りと金魚の想い出となっている。

 

・・・


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

金魚売り
金魚売りは、ある時期まで日本の夏の風物詩であった。
天びんにいくつもの金魚鉢を乗せて、担いで売り歩いた。
東京・愛知弥富・大和郡山・熊本長を中心に全国で飼育され、
大勢の行商人が3月ころから10月ごろまで津々浦々を売り歩いた。
太平洋戦争でいったん壊滅的打撃を受けるが、すぐに復活し、
行商だけでなく、露店売りや縁日の金魚すくいでも人々に愛された。
金魚売りは高い技術が必要な仕事で、
売り声の出し方、
運び方、
金魚の健康状態の見分け方必要。

1970年代に入ると金魚売りは衰退していく。

ペットショップや花屋が金魚売を始めたり、熱帯魚ブームが起こったりした。
伝統芸として、金魚売はほそぼそと続けられている。

 

・・・


「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行
金魚売りは初夏の風物詩
初夏になると、「キンギョー、キンギョー」と張りのある声が通りに響く。
金魚売りは初夏の風物詩だった。

・・・

 

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