しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

浜子② ~朝は朝星、夜は夜星~

2023年10月04日 | 失われた仕事

岡山県の特産品であった藺草は、真夏にイ草を刈るが、
その作業は「日本一の重労働」と言われていた。
しかしイ草刈は10日間程度で終了する。

同じく夏が盛りの塩田作業は、夏を挟んで春から秋までつづく。
となれば浜子が「日本一の重労働」だったのだろうか?

瀬戸内海海岸線の平地、そのほぼすべてが塩田だったが、
その跡形は住宅地の中にポツンと堤防が残る程度で、意識してみないと見落とす。
岡山平野のほぼすべて栽培されていたイ草に至っては、今では何一つ残らない。

 

・・・


「瀬戸内の風土と歴史」 谷口澄夫 山川出版社 昭和53年発行

十州同盟

元禄頃から製塩業は異常な隆盛をみた。
しかし生産過剰を招いた。売値が下がった。

こうした塩田不況の対策として考案されたのが休浜法である。
日が短く塩つきの悪い秋冬の間、
塩田作業を休むことによって生産制限と経費の節減をはかる方法である。
安芸・備後の同業者が10月から翌年1月まで4ヶ月の間休む休浜協定を成立させた。
その後、播磨・備前・備中・阿波・防長・伊予が参加し、
讃岐がもっとも遅れて安政(1855前後)に加わった。
これは明治7年までつづいた。

・・・

 

「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行


塩田に働いた人々

毎年梅雨が晴れてから、秋の稲刈り頃まで最も作業が忙しかった。
「朝は朝星、夜は夜星」。
朝4時に起きて裸足に露を踏んで朝浜を引きに塩田に出る。
万牙(まんが)といって24本の爪付きのT字形の重い道具を傾けて塩田に撒かれた砂を掻く。
広い塩田の隅まで紋様ができる。
太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦・横・斜三様の引き方で砂についた海水の濃度を高くする。
熟練を要する作業。
前日の作業の手順によっては、沼井掘りが朝浜の仕事になる。
ろ過がすんだ砂を掘りだして沼井の肩に積み、次の浜持で取り換えられる。
朝浜が終わると、帰宅して東食。

塩田の小溝に海水を入れるのは重要で責任のある仕事とされている。
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜くいて濃い海水を入れる。
この仕事は上浜子が受け持っていた。

広い塩田に万牙を引く。
昼になる。
昼食、昼寝をする。




午後2時、浜持である。
寄せ子が寄板をもって真っ先に塩田におりる。乾いた砂で足の裏が痛い。
寄板を腹に当て手で押して力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
息も絶え絶え。
次に入れ鍬がつづく。寄せ子が寄せた砂を沼井の中へ放りこむ。
最も体力のいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。
そのあとに振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんに撒く。
技術と力が物をいうむつかしい作業で素人にはできない。
続いて沼井踏が沼井に入れられた新しい砂を沼井鍬で踏みならす。
灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入り鍬は降り鍬に追われる。
汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。





次の仕事にかかる。
寄子は大きな勺を持って沼井壷から藻垂れを沼井に汲み上げる。
これもきつい仕事だ。
数多い沼井壷を次々に汲み上げる。
浜子は大きな浜桶(たご)を担いで中溝の海水を一ぱい入れると大変重いがこの仕事を繰り返して作業が終わると
灼熱の太陽が鉢山の端に沈む。
なお、それぞれに整理作業が続く。


寄子が家に帰れば子守、風呂焚き、家事の手伝いが待っていた。
農繁期には月明かりで田畑の耕作や収穫作業を働いた。

浜持のできない悪日和には、のんびりできる。

「明日は雨じゃ」「夕立がくるぞ」となるとさあ大変。
「おえ持ち」といって、三日交替の塩田二日分を一日分としたり、「皆持ち」という塩田全面積を一度に作業することもあった。

・・

流下式枝条架が採用され労力を省いた。
やがてイオン交換膜の製塩法になり、昭和34年に長い歴史の幕を閉じた。

寄島塩業は寄島漁業と二大基幹産業として貢献した。
第二次世界大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機には貴重な資源となり、増産がはかられた。
いま、歴史の中で立派な役目を果たして消えていった。

・・・

 

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浜子① ~寄島塩田&野崎浜二十三番地~

2023年10月03日 | 失われた仕事

(JR松永駅前 2012.1.7)

 

管理人は農家に生まれ、「百姓にはなるな」(仕事はしんどく、収入は少ない)と言われて育った。
隣の家は漁業だったが、これもしんどそうな仕事だった。

当時瀬戸内海地方は塩田が盛んだったが、この仕事も重労働。
日本経済を牽引していた繊維産業には「女工哀史」、黒いダイヤの炭鉱は命がけの重労働。

学校に行くには踏切を渡らねばならなかったが、機関車にスコップで石炭をくべる乗務員からは汗が飛び散っていた。あの仕事もきつい。

結局、思うに、高度経済成長以前の日本は、どの仕事も
毎日10数時間働いても、一日三回麦飯を腹に通すのが精いっぱいだった。




(青佐山お台場から寄島塩田跡地を見る。面影はまったく残っていない。浅口市寄島町2020.4.4)




・・・
「鴨方藩」 藤尾隆志 現代書館 2021年発行

塩田
天保年間(1830~1844)に寄島塩田が開発された。
明治初年には全長二キロに及ぶ塩田が形成された。
寄島には鴨方藩の「御用場」が設置され、
生産された塩の管理が行われていた。

・・・



「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行


塩田に働いた人々


海水を桶で汲み上げ、粘土を敷き固めた上に砂を播いた塩田に海水を撒き、砂についた海水が日光と風によって塩分が濃くなってから砂を集め、
ろ過して釜に入れ煮詰める製塩法であった。

入浜式塩田が造成されたのは天明3年(1783)に青佐沖の古新田が最初であった。
この時初めて近代的合理的な入浜式製塩が始まった。

海岸の堤防に樋門を設けて海水を塩田に入れ、塩田作業により濃い鹹水(かんすい)を採って釜で煮詰める効率的な方法である。
明治元年までに約26ヘクタールが造成され内海屈指の生産高を誇る寄島塩田ができたのである。

塩田で働いた人たちの労働は厳しかった。
天候が相手で、やけつく夏も、凍りつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回の飯を食べるきつい仕事であった。

塩田は1町5反、2町を短冊型に区画し、これを1塩戸とし経営された。
塩戸毎に
棟梁(2交代で塩を焚く、夜勤を夜釜という)
上浜子(ばんこ)浜子の頭
浜子 1戸5~6人。作業の中枢となって晴雨にかかわらず出勤する。
きっぷ 女や子供・老人で寄せ子といって浜持ち作業の日だけ出勤する。
計約10人くらい。

浜子の月給が5円70銭できびしい過酷な労働であったが、報酬としては恵まれていたという。
味噌・醤油まで給付された。

・・・・

 

 

「新修倉敷市史第八巻」  倉敷市  1996年発行

 

 

元野崎浜二十三番地。
JR児島駅の辺りは、かつてこう呼ばれていた。
労働者たちは”浜子”と総称されていた。

師走の声を聞くようになると、その年の収支も明確になり、浜の評価も決まってくる。
浜子にとっては来年の契約・給金額等が気にかかる落ちつかない時期である。
それぞれの浜には大工(または棟梁)と呼ばれる責任者がいた。
大工は作業の責任者であり、浜子の雇用について決定権を握っていた。
この時期、優秀な浜子の「引き抜き」は相当激しかったようである。
技能に秀でた浜子を集めることは親方である大工の評価にもかかわる。
また浜子の側は少しでもよい条件の浜と契約することが実生活につながるので、
お互い必死であったという。
好条件を求めて十州の各塩田を渡り歩く者もいたという。
年末に翌年の給金額が定められ、何割かを前金として受け取っていた。
さらに浜子一人一日当たり米九合と味噌・醤油が支給された。
一浜に平均七名の浜子が就業していた。
彼らは原則として各浜に付設された浜子小屋に居住していた。
浜子は他所からの出稼ぎが多かったが、
中でも瀬戸田・越智大島等の芸予諸島の出身者が大半を占めていた。
中には夏だけ浜子を努め、冬場になると杜氏として酒造業に携わる者もいた。

塩田の一日
正月が過ぎると、塩田作業が始まる。
この時期は道具の修理、塩田地場の整備が主な仕事であった。
「床入」
年に一回床入と称する浜鋤きを行った。
カチカチになった塩田を牛三~五頭を使用して鋤き起こすもので、
地盤を軟らかくし水分蒸発を促すため定期的に行っていた。

最盛期
塩分濃度の高い灌水が採収される七~九月であったが、
三~十一月にかけて通常の作業が行われた。
採鹹(さいかん)
濃縮した鹹水を採収する。
採鹹作業を取り仕切る浜子を上浜子(じょうはまこ)と呼び、大工に次ぐ立場にあった。

煎熬(せんごう)
釜の中で鹹水を煮詰めて結晶塩をつくる。
大工と夜釜焚きが二交代で担当した。
塩の生産量、品質、燃料費の節約が大工の裁量の要素であった。

・・・

 

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炭鉱夫

2023年10月03日 | 失われた仕事

戦前・戦後の日本経済を担っていた炭坑会社は、
昭和35年政府の貿易自由化方針により、
安価な石油や、安くて良質な海外炭に押され
昭和30年代後半から昭和40年代全般に次々と閉山していった。

 

・・・

「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行

「黒ダイヤ」の悲劇


炭坑のガス爆発や落盤事故が続いた。
体育館には煤けた炭坑マンの遺体が累々と並べられた。
56年の北炭や59年の三井三池探鉱の事故では何百人もの命が失われた。
閉山が相次いた。
平成2年夕張炭鉱の閉山で、日本の炭鉱はすべて終わった。

 

(福岡県田川市 2017.2.14)

 

 

(福岡県田川市 2017.2.14)

 

 

(文部省推薦映画「にあんちゃん」、城見小学校の講堂で生徒全員が見た)

 

・・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

 

炭鉱夫

石炭の採掘が本格化したのは明治時代になってからである。
政府の官営事業となってからは監獄の囚人に採掘を行なわせた。
後に払い下げ後は、一般の人から炭鉱夫を雇うようになった。

労働条件は厳しく、
褌一枚で地下を掘り続けなければならず、
女性も半裸で働いていた。
戦時中は中国などから炭鉱夫が徴用されたこともあった。

炭鉱夫は「斜坑人車」というリフトに乗って地下300mほどの採掘現場(切羽)に向かう。
仕事は主に「掘進」と「採炭」に分けられ、
新人は、真っ暗な地下壕で恐怖に縮みあがることもあった。
ヘルメットに付けたキャップランプが頼りである。

「掘進」は採掘現場までの坑道を掘る仕事で、
「先山」と呼ばれる熟練工が、
「後山」という経験の浅い人を三人から五人使って、仕事を進める。
火薬で岩を崩し、崩れた岩を先山が運びやすいように小さく砕く。
後山がこれらをトロッコで運ぶ。
岩を運ぶと、天井が崩れ落ちないように板や木で枠組みをする。

「採炭」は、トロッコを坑道の出口まで運んだ。
このようにして一日に三メートルを掘り進めていた。
「採炭」の仕事は、炭鉱夫にとっては花形で、給料もよかった。

彼らの仕事は一日三交代の一週間交代で繰り返された。
現場は地下深いため通風も悪く、暑くなった。
炭鉱で働くことは危険な仕事であったが、
それだけに彼らは同胞意識も強く、炭住に住み、家族同士の付き合いも密だった。

・・

炭鉱夫の哀話

炭坑労働は過酷で、たびたび炭塵爆発などが起こっている。
三井三池炭鉱は、昭和初期まで囚人労働が主で、女性の鉱夫、朝鮮人労働者もいた。
とくに与論島から来た人たちは厳しい労働条件で差別されていた。
日本の炭鉱には、近代化の負の歴史が多く隠されている。

 

・・・
昭和50年当時、上司は福岡県田川市出身の方だったが、
「政府が再就職の斡旋をし、
石炭産業から石油関連会社に(職も土地も)移動した人が多い」
という話をしていた。
・・・

福島県郡山市のトンネル工事現場での安全講習会でのこと、
「地下何百mの炭鉱で穴を掘っていた」という作業員がいた。
その人は、強い口調で自負心から、さまざまな提言があった。
かつて日本の基幹産業の一端を支えていたというプライドを感じた。

・・・

 

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エスカレーターガール

2023年09月30日 | 失われた仕事

昭和40年代後半、
百貨店がイケイケどんどんという時代があった。
岡山には高島屋、
倉敷には三越、
福山には伊勢丹、
広島にはそごうの進出が決まった。
百貨店は元気がいい(経営に余裕)のでエスカレーターの昇降口に女性を配置した。
それがエスカレーターガールで、
役目はエレベーターガールと、ほぼ同じ。
「何階でございます。何々売り場がございます」という案内ガール。

この時代の小売業は百貨店vsスーパー(ダイエーや西友)の対決だったが、
スーパーにエスカレーターガールはいなかった。
エレベーターガールもいなかった。

 

時代はその後、
最初からエレベーターガールもスカレーターガールも置かなかったスーパーが、
百貨店よりも先に市場から去った。
大型店スーパーはほぼ壊滅、
百貨店はお金持ち階級や企業相手に現状死守の状態。

 

今の時代では、
エレベーターに社員を配置していた、
エスカレータに社員を配置していた、
ということが信じられないだろうが、
その時代には、
エレベーターそのものが町に珍しかった。
エスカレーターに至っては、さらに珍しい文明の機種だった。

 

・・・

 


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

エスカレーターガール

 

昭和の百貨店の花形と言えば、
多くの人が「上にまいりま~す」のエレベーターガールを思い浮かべるだろう。
一方で同時期に活躍したエスカレーターガールを想い出す人はあまりいないかもしれない。
上りエスカレータの乗り口の脇にスッと立ち、
浅めの美しいおじぎをしながら店内の案内をしたり、不慣れな客の乗降を確認したりする女性である。
1950年代から1960年代のほとんどの百貨店で見られた。
文字通り百貨店の顔であった。

 

・・・

 

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ジュークボックス

2023年09月30日 | 失われた仕事

ジュークボックスは店舗の中に、
今でいえば自販機のような感じで置かれていた。
高さは自販機より低く、大人の身長の半分くらいで、
目を下に向ければ、流行歌名が50~100曲くらい名札で並んでいた。

自分の好きな曲が決まったら20円(くらいだったと思う)を投入し、曲のボタンを押す。
曲が流れてくる。
つまり
一曲、3分間程度、20円で好きな曲を聴ける。
周りの人は、
無料で聴けてよろこぶ人もいるし、逆にうるさくて迷惑に感じる人もいる。

利用の多いジュークボックスは、予約してから順番に時間がかかった。
利用の多いジュークボックスは、こまめにレコードをヒット曲に交換していた。

利用者は10代か20代の若者が多く、
大人や子どもがジュークボックスの前で選曲している記憶はない。

1970年頃がいちばん流行っていたような気がする。

・・・

 

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

ジュークボックス


ボックスの中には50枚から100枚程度のシングルレコードが内蔵されており、
硬貨を投入して聴きたい曲のボタンを押すと、
その曲が大きめのスピーカーから中低音で演奏される。
1960年代から1970年代にかけての最盛期には、7万台ものジュークボックスが稼働していた。
好きな曲をお手軽に聴けるジュークボックスは、子どもにとって魔法の宝箱だった。

・・・

 

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風呂屋の三助

2023年09月29日 | 失われた仕事

10代、20代の頃、町の銭湯にはよく行っていた。
いろんな銭湯にはいって、値段も、趣向も、少し違うのを楽しんでいた。

しかし「三助」は見たことがない。
サラシ姿で入浴客の背中を洗ってるのを見たことがない。

思うに、
家に風呂が無い人が銭湯に行くが、
家に風呂が無い人は、「三助」の代金を払うほど生活に余裕はなかった。

町の銭湯に、ほんとうに「三助」はいたのだろうか?

 

・・・

(TBS「時間ですよ」)

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行


三助


昭和30年代は銭湯1軒につき3~4人いたが、平成24年には全国で1人。
三助の日常は、
まず風呂を沸かす燃料の用意。
薪から、昭和30年代は石炭になった。
石炭ガラは舗装していない道の水たまりに入れて穴埋めした。
午後になると、風呂を沸かす。風呂場の掃除。
背中を洗うのは本来の仕事から見れば内職にすぎない。
やればやっただけ客からお金を貰えた。

・・・

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行


三助


三助とは銭湯の従業員で、
客の背中を流す男性のことである
戦後のある時期まで、
全国各地の銭湯に在籍していた。

流しを希望する客は、
まず番台で追加料金を払って札をもらう。
半股引にサラシ、ハチマキ姿の三助がやってきて、
背中と胸を洗い、肩をマッサージしてくれる。
最後に「バーン!バーン!」と背中を叩く。
三助は男だが、女湯にも普通に入って仕事をした。

三助はいきなりなれる職業ではなく、
最初は釜焚きや薪の収集からはじめ、
数年終業した後、
ようやく客の背中を流すことが許された。

・・・

 

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鋳掛屋(いかけや)

2023年09月29日 | 失われた仕事

日本の経済成長が始まると、
それまでの生活様式だけでなく、モノに対する思考も変っていった。
家にある鍋や釜やヤカンは、
(何度も何度も何度も修理され、最後にはクズ屋に売られ、溶かされていたが)
何かあると、新しいモノに買い換えられていき、古いモノはすぐに廃棄物となった。

 

・・・

(父の話)


談・2002.10.14

鋳掛屋


鍋ややかんを直しにきょうた。
してるようになってから来んようになった。

蝙蝠傘を直す人もきょうた。

 

・・・


「金光町史」


行商のほか、職人もたくさん回ってきた。
鋳掛屋、桶屋、羅宇屋(らうや)、石屋、時計や洋傘の修理屋などが農閑期に家々を回っていた。

 

・・・


「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行


鋳掛屋


直すものは、鍋ややかん、釜などが多かった。
昔の鍋ややかんは、今より質が悪く、よく穴があいた。
鋳掛屋は,火を起こす小さなふいごなどを乗せた自転車やリヤカーで、町を回りました。

 

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

鋳掛屋(いかけや)

鍋や釜など胴や鉄でできた容器の漏れに、白鑞(シロメ)・・錫と鉛の合金・・を溶かして入れて、穴をふさぐ仕事。
ふいごを持ち歩き、行商のようにその場で直すことも多かった。

「いかけ~、いかけ~」の声を聞いて、家庭の主婦が壊れた鍋や釜をもってきて、その場で修理してもらった。

戦後になってアルミで作られた金物が流通すると、
鋳掛屋の技術では修理できなくなった。
また値段も安くなったので、買い換えることが可能になった。

・・・


「昭和の仕事」  澤宮優 弦書房 2010年発行

鋳掛屋


穴の開いた鍋、釜、鉄瓶を修理する仕事。
天秤に小型の鞴(ふいご)や小道具をぶら下げて一軒一軒を回った。
もとは鋳物師から分かれた仕事。
鉄の鍋は裏側が酸化したり、黒くなったり、穴が開いたりした。
その穴を鋳掛屋が塞いで直した。
小さな穴は、鉄かアルミの棒で塞ぐ、
大きな穴は、まず周りをきれにに四角や丸に切り取って、
そこにブリキの板をはめ、最後に半田付けした。
庶民は何度でも直して使った。

・・・

 

 

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フラフープ

2023年09月28日 | 失われた仕事

フラフープというものが東京や大阪では子どもに大人気、というのは知っていたが
見たことも、したこともなかった。

やがて体に悪い(胃腸を圧迫する)という噂が流れ、
東京や大阪ではすたれてきた、という頃

茂平のような田舎でもフラフープを見ることができた。
(たぶん生産過剰の売れ残りや、投げ売り品が地方に回ってきたのだろう)
フラフープは男子よりも女子に人気があったようだ。
二三度、借りてぐるぐる回してみたが、
男の子にとっては、そう面白いおもちゃではなかった。

茂平で見る頃には既に、
身体に悪いのは噂でなく事実であることが日本中に知れわたっていて、
子どものフラフープ遊びは短い期間で消えて行った。

 

 

・・・

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行


フラフープ

アメリカでの大ヒットを受け、日本に上陸。
美容や健康への効果もうたわれ、
子どもから大人まで人気を集め
一か月で110万本を売り上げた。

だが、フラフープのやりすぎから、
もともと病弱だった子供の胃に穴が開いたり、
内臓疾患で倒れる子が相次ぎ、
輪のつなぎ目が外れて目を突く事故や、
路上でのフラフープが原因とする交通事故も起きるなど、
急激に社会問題化、
千葉県の小学校が禁止令を出すと、全国の小学校も禁止措置をとった。

その後、
ロックコンサートでのパフォーマンスや大道芸、
サーカスの出し物、
フラフープ競技会、
ダイエット用品など、さまざまなジャンルで取り入れられている。

・・・

 

 

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ダフ屋

2023年09月28日 | 失われた仕事

広島市民球場が原爆ドームの向かい側、基町にある頃
広島カープの試合を年に1~2度見に行っていた。

球場に入ろうとすると、見知らぬ男性から声がかかる。
その男はぼそぼそ話すので、
自分に言っているのか?それとも他の人へなのか?
聞いてほしいような、聞かれては困るような話し方なので、
何をいいたいのか?何を言っているのか?意味不明。
目立たぬ、地味な服装で、灯りが一番届かぬ場所に立っていて、
まさに”裏”という言葉が似合う男だった。

そういう男が試合が始まる前、試合が始まってからも立っていた。
「あれはダフ屋だよ」と同僚が言った。
ダフ屋のことは知っていたので、
あああれか、と男の仕事はすぐに理解できた。

それからは、
市民球場のダフ屋は、その場所へあたりまえにいる者、として普通に素通りするようにした。

 

・・・

 

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行


ダフ屋

「チケットあるよ、あるよ。」
1980年代の大阪球場周辺でよくダフ屋を見かけた。

開門2時間前に到着する客には「兄ちゃん、券余ってないか」
そう、そう仕入れの時間帯なのだ。
ゲーム開始直前、開始後に来場する客に、格安で売る。

 

堅気でない方々の影がちらつき、警察も監視を強めた。
ダフ屋は物陰に隠れた。

・・・

 

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サーカス

2023年09月26日 | 失われた仕事

サーカスを学校で見に行ったという話は聞くが、
自分は学校行事で見に行ったことはない。

 

 

小学生の時、春に「福山とんど祭」で二度見た。
三好サーカスと木下サーカスだった。
場所は・・たぶん・・今のローズコム、福山中央公園だったような気がする。

 

三好サーカスは興業場所を「三好サーカス」と染めた幕で囲んでいたので、
今でも、その名をよく覚えている。
自分と同じくらいの年齢の少女が綱渡りをしていた。
それを見て、かわいそうで仕方が無かった。
きっと「人さらいにあって、サーカスに売られてきた子だろう」と子供心に思い込んでいた。

 

木下サーカスは地球儀のような球形のなかでオートバイが爆音でぐるぐるまわった。
煙と音と排気の臭いがすごく、芸を楽しむという気はしなかった。

農家の子が二度もサーカスを見ることが出来たのは、入場料が安かったから。
親がもし、「映画とサーカスのどちらか」と言ったなら、
もう、それは一択だった。チャンバラ映画!
親が映画よりも、安い方を見せてくれた、と思っている。

・・・

三度目のサーカスは大人になってから、
20年ほど前、福山市の入江埋立地(現在の福山市立大学のところ)で「木下サーカス」があった。
見に行くと、
ライオンや虎や象がいて、サーカスというより「猛獣ショー」かと思った。
動物愛護団体から文句は来ないのだろうかとさえ思った。

 

♪旅の燕 寂しかないか おれもさみしい サーカスぐらし
 (「サーカスの唄」西條 八十)


サーカスはジンタの音色のように「さみしい」イメージを持ちつづけていた。
明るくて、(値段も)高くて、猛獣のサーカスは、なにかもう昔とは別物の気になった。

 

・・・

 

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

サーカス

「昭和33年1月現在 日本仮設興行協同組合 組合員名簿」
という資料がある。
サーカスや見世物小屋、お化け屋敷など、
祭礼や縁日に仮設の小屋を建てて興行する業者が結成した組合の名簿である。
この名簿で当時活動していたサーカス名とその規模を見ていこう。

「特々大」
世界動物博覧会。
ライオンやトラなどの猛獣ショー、
象やオットセイなどの曲芸とともに、
キリンやシマウマ、ラクダなどの珍しい動物を見せた。
動物サーカスと移動動物園を兼ねた大規模な一座だった。

「特大A」
木下、シバタ、有田、矢野の各サーカス。
「特大B」
キグレ。
「大荷A」
日本サーカス。
「大荷B」
赤林、原田、金城、柿沼、金丸、八木、田村。
「大荷C」
シバタ、田部井。
「大荷D」
菅野、オリエンタル、山根、井原、三好、池野、と続く。
後ろの方は「スガル」と呼ばれた。動物のいないサーカスだろう。

名簿のうち、現在も活動を続けているのは、
木下サーカスただひとつ。

・・・

 

 

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