しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

”従軍慰安婦”

2020年05月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父が石家荘の時の体験談とほぼ合致する。
駐屯地での兵隊は、朝行列訓練をすると、あとは何もすることがないそうだ。
時間つぶしや、欲情や、お金の消費で、多くの兵が基地内にある「娯楽所」を利用していたようだ。

「一億人の昭和史2」昭和50年 毎日新聞社発行より転記。
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”従軍慰安婦”という悲しい存在  千田夏光


従軍慰安婦とは軍命令により戦場におもむかされ、将兵の性欲処理の相手をさせられた女性のことである。
軍によってつくられ軍の付属機関であった「戦場売春婦」であった。

支那事変から大東亜戦争にかけ、第一線へ従軍した将兵三百数十万のほとんど全員が彼女らの肉体を抱いて己の欲望をいやした。
十数万いたとされる慰安婦の8割以上が朝鮮の農村からつれだされた未婚の朝鮮女性であった。
敗戦前後の混乱のなかで1円の手当金もなく棄て去られた。

この制度び開設は、二つの理由・動機があった。
①南京攻略の戦場でみせた日本軍将兵の暴行・強姦・略奪に、”女”をあてがうこと。
②性病蔓延への恐怖であった。大正7年からのシベリア出兵で、72.000人の軍隊の16.000人が性病のため戦えなかった。

方法は、軍出入りの御用商人に、
「前渡金1.000円、全額返済し終わったら自由」という条件で女集めを開始させた。
当時のお金で家が建ち、売春料は「2円」が予想され、雑費を引いても600~700人を相手にすれば自由になれる計算だった。
日本内地の売春婦にはヨダレが出そうな好条件だった。
最初の募集者は昭和12年12月末に上海に上陸した。

ベッドを置いた四畳半の小部屋が10戸並ぶ長屋が十数棟、門前に「陸軍娯楽所」と看板がかかげられた。
注意書き貼り出され、
1・受付で料金を払うこと。引替えに入場券とサック1個引き取ること。
1・料金は金弐円。
1・指定された番号の部屋に入ること。時間は30分とす。
など。
慰安所は各地に開設されていった。
結果、中国婦女子にたいする暴行強姦は減っていった。

日本人慰安婦には性病既往症が多かった。
朝鮮人慰安婦は未婚の処女が多かった。つまり性病の心配がなかった。健康でピチピチしていた。

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重慶爆撃 (昭和13年~)

2020年05月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「一億人の昭和史2」昭和50年 毎日新聞社発行より転記。

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重慶爆撃

南京を失い、漢口を追われた蒋政権は、13年大陸の奥の、また奥・重慶に首都を移した。
徹底抗戦で持久戦に持ち込む態勢を固めたのだった。
この新首都に対する日本海軍の爆撃は早くも13年2月に始まり、以後、天候の許す限り連日のように繰り返された。
陸軍機も加わったが、主としてこの役を受け持ったのは、海軍の「中攻隊」。
重慶のほか成都、四川などにも翼をのばし、のち16年には、完成したばかりの一式陸攻も参加。
日本空軍の奥地爆撃は、前後4年に及んだ。

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首都南京制圧 (昭和12年)

2020年05月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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首都南京制圧

参謀本部は戦闘範囲を上海地区に局限する意向だったが、
松井石根司令官はかねてから南京占領が必要と考えていた。
昭和12年12月1日、
大本営は従来の方針を変更して、南京攻略の大命を下命した。

南京城攻略に直接参加したのは、第6・9・13・16・114の5師団。
12月4日、外郭陣地を突破。
12月10日、肉薄攻撃で光華門に突入。
12月12日、城内に突入。
12月17日、入城式が行われた、

占領からの数日間に行われた日本軍将兵による中国人殺戮暴行は、世界を驚かせ、
中国民族の抵抗意識をより強固なものとしたのであった。
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漢口・広東 大陸の奥地へ (昭和13年)

2020年05月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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大陸の奥地へ

大本営は昭和13年5月末、同年秋ころに漢口と広東を攻略する方針を決定した。
中支那派遣軍に新たに第2軍(第10・13・16師団)と第11軍(第6・101・106師団)が編入された。

8月22日、大本営は漢口攻略を下命。
第2軍は8月下旬から大別山系北方地区を進攻し、
主力は10月12日、京漢線の信陽を攻略して漢口に向かい南下した。
10月26日、第6師団は漢口に突入した。武昌も占領。

大本営は9月19日、広東攻略を下命。
第21軍(第5・18・104師団)は早くも21日、広東へ突入した。

陸軍の主力をあげて漢口と広東を攻略したが、和平への道は遠かった。

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徐州会戦 人馬は進む麦畑 (昭和13年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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(徐州の麦畑でなく、岡山県笠岡市の麦畑 2020.5.7)



人馬は進む麦畑

昭和13年3月、台児荘で北支那方面軍の一部は中国軍と激戦した。
大本営は、戦線を拡大しない方針であったが、
4月7日徐州作戦を命令した。

大本営の計画は、北方から北支那方面軍、南方から中支那方面軍を進攻させて、徐州方面の敵を包囲攻撃しようとした。

北支那方面軍は5月9日から南下を開始し、第5・10・16・114師団は徐州に向かい攻撃前進した。

中支那方面軍は5月19日徐州を占領した。

徐州攻略後、第10・14・16師団は西進して京漢線方面に進攻したが、6月12日の黄河決壊により、その前進は阻止された。

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南京攻略戦 弾雨をのむ城壁 (昭和12年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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弾雨をのむ城壁

軍中央は10月中旬、上海戦線の苦戦中を見て第10軍(第6・18・114師団)を上海南方の杭州湾に上陸させた。
上海の中国軍は総崩れとなり西方へ退却した。

上海派遣軍司令官の松井大将は、第10軍をあわせ中支那方面軍司令官となった。

11月20日、大本営が設置。

12月1日、大本営より南京攻略が下った。
南京へ突進を開始した。

12月9日、松井司令官は南京開城を勧告し、翌日正午までの回答を求めた。
回答がないため、午後1時より総攻撃を開始した。

12月12日、城壁を攻略。

12月13日、南京を占領した。

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北支戦線 山岳を征く  (昭和12年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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山岳を征く

北支方面の日本軍は逐次増加され、8月31日には北支那方面軍司令部(司令官寺内寿一大将)を設け、兵力は第5・第6・第14・第16・第20・第108・第109師団、臨時航空兵団を基幹とした。

(途中略)

第10師団は津浦線地区を南進し、12月26日には済南を攻略した。



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戦火上海に飛ぶ (昭和12年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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戦火上海に飛ぶ

北支事変後、中・南支方面の情勢も悪化した。

昭和12年8月9日、海軍大山中尉が保安隊に射殺される事件が起こり、翌日から交戦状態になった。
海軍は長崎の大村や台北から南京や南昌の航空基地に渡洋爆撃を実施した。

居留民保護のため、上海派遣軍(松井石根大将の指揮する第3、第11師団)が編成され急派されることになった。
上海派遣軍は8月23日から攻撃を開始したが、中国はクリークを設備した堅固なもので進展しなかった。

第9、第13、第101師団などが9月末から増強されたが苦戦が続いた。
9月末、上海周辺の日本軍は約19万であった。

10月20日、海軍は第3、題4艦隊で支那方面艦隊を編成した。
なお、海軍は9月5日全中国の沿岸封鎖を宣言した。
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第二上海事変とその頃(昭和12年=1937年)

2020年05月06日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「日中戦争全史・上」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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昭和12年7月11日、「北支事変」と命名
事態を「北支事変」と命名し、近衛内閣は「重大決意」を発表した。
満州国および華北の治安維持のため、そして中国に反省を促すため華北に派兵するという強硬な声明を発表した。
盧溝橋事件は、局地の軍事衝突事件から本格的な日中戦争へと拡大することになった。

7月29日、「通州事件」
通州保安部隊、約3.000人が反乱を起こし居留民223人を殺した。
日本人117人、朝鮮人(慰安所関係)106人。
『東京日日新聞』は、「通州の大虐殺」として日本国民の敵気心・憎悪心を扇動した。
この段階において軍中央は、呼称通り華北に限定していた。

8月9日、大山事件
海軍の上海派遣隊の大山中尉が中国陣地内で射殺された。
日本国内は、新聞の報道ぶりから憤激のるつばとなった。

昭和12年8月10日、第二次上海事変開始まえ
海軍は大山事件翌日、上海攻撃を決め、上海市長に最後通牒をだした。
海軍軍令部は現地の第三艦隊に「武力の進出に関する制限をなくす」と指示。
空襲の渡洋爆撃の目標は、第一に南京とした。

8月15日、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)声明」
「帝国は隠忍に隠忍を重ね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的に処理せんと企図し、・・・・
しかるに南京政府は挑戦的態度を露骨にし、上海に於いては我に向かって・・・
帝国としてはもはや隠忍その限度にたっし、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。」

8月15の南京渡洋爆撃
長崎県大村から96式陸攻が20機南京爆撃し、済州島へ帰還。(10機撃墜)
台北から14機が南昌爆撃。
空母加賀から16機が蘇州爆撃。12機が南京爆撃。16機が広徳爆撃。(8機撃墜)
大きな損失をもたらしたが、海軍省は「世界航空戦史上未曽有の渡洋爆撃であると喧伝した。

8月21日、第二次国共合作
蒋介石は中ソ不可侵条約を結び、ソ連からは戦闘機などの軍事援助が供与されるようになった。
共産党の紅軍を八路軍に改編し、第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が成立した。

上海地域
蒋介石は欧米列強の利権が絡む上海に、日本軍の主力をひきつけて消耗戦を強いて、日本の「一激論」を挫折させ、この間に米英の武力干渉、国際連盟などの対日制裁、ソ連の対日戦争をうながす戦略をたてた。
日本の上海派遣軍は8月23日上海近郊へ上陸したが、強固な防衛陣地とはげしい抵抗をうけ、戦果を拡大できず長期化した。
参謀本部は作戦重点を華北から上海に移した。
戦線は膠着し、日本軍の苦戦はつづいた。

昭和12年8月24日、中国海上封鎖作戦
海外から中国への援助物資(援蒋)を阻止するため中国沿岸封鎖部隊を編成し、揚子江以南の海湾を封鎖を強行した。

9月2日、「支那事変」と改める
「北支事変」から「支那事変」と呼称を決定、日中全面戦争の宣言である。

9月4日、天皇勅語
「中華民国深く帝国の真意を解せず、みだりに事をかまえ、ついに今次の事変を見るにいたる。
朕これを憾みとす。
中華民国の反省を促してすみやかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず。
・・・」

9月11日、日比谷公会堂の大演説会
日比谷公会堂で政府主催の「国民精神総動員大演説会」が開かれ、近衛首相が演説を行った。
「正義人道のため、特に東洋100年の大計のためにこれに一大鉄鎚を加えて戦意を喪失せしめ、しかるのちに支那の健全分子に活路を与え、手を握り東洋平和の恒久的組織を確立する。
この歴史的大事業を、我らの時代において解決できるのは、今日生をうけた我ら同時代の国民の光栄であり、喜んでこの任務を遂行すべきと思う」
ニュース映画やラジオ、新聞で大々的に報道され、挙国一致体制を構築せよというキャンペーンが展開されるようになった。
「一大鉄鎚を加え」れば簡単に屈服するかのような「中国一激論」が「暴支膺懲論」とセットになり国民の熱狂が高まり、
「南京に日章旗翻る日」はいつかと熱狂して支持する国民意識となっていった。

昭和12年9月10日、上海公大飛行場がが完成
南京の反復攻撃、
広東・漢口・南昌への爆撃を下命した。
海軍航空隊の南京爆撃は9月11日~25日まで、延べ291機が参加。
在南京の米英仏独伊の五か国代表は、駐日アメリカ大使をとおして爆撃攻撃の停止要求を提出した。
南京には、アメリカ伝道団各派が創立・運営する学校や病院、教会施設が集中しており、渡洋爆撃ですでに爆撃を受けていた。
日本軍がアメリカ人を南京から追い出そうとするものだと、大きな反発を引き起こした。
日本の海軍機による民間人の殺害は、8月9月の早い段階から報道された。
上海戦で共同租界へと非難する数千人の市民の群れに爆弾を投下した光景や、民間人の惨状が報道写真やニュース映画・雑誌などをとおしてアメリカ人に知られるようになり、非戦闘員を巻き込んだ日本軍の蛮行にたいする非難の声が上がりはじめていた。
南京空襲の惨状も、新聞記者やカメラマンなどによって世界に報道された。

昭和12年9月27日、国連総会で日本の非難決議
9月27日、国連総会でイギリスが日本の行動を非難する決議案を上程した。
翌日、全会一位で採択された。
国連決議を受けルーズベルト大統領、ハル国務長官も声明を発表。
広田外相は、「行動は自衛であり、違反しない。甚だ遺憾である」と声明した。
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徐州会戦

2020年05月05日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「昭和史4」 研秀出版 平成7年発行より転記。

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徐州会戦
昭和13年3月末から4月、北支方面軍の一部は、徐州東北30キロの台児荘で、中国軍に包囲され苦戦ののち転戦した。
中国側は大勝利と宣伝をおこなった。
軍中央は不拡大方針を捨て、徐州周辺地域の60個師団の中国野戦軍を撃滅を計画し、
4月下旬、徐州会戦を開始した。

北方から3個師団で徐州へ、1師団は龍海線・京漢線の遮断で南下、南方から3師団が北上、うち2師団は迂回して徐州へ。
おりからの麦秋の平原地帯を進撃した。

中国軍兵力は5倍あったが、砲火力、航空兵力の乏しさ、統制力の不足などで蒋介石は5月15日、徐州の放棄を決定。
中国軍は小部隊に分散し、南下した日本軍を徐州東方で阻止しながら、西南方へ脱出した。

日本軍は5月19日、徐州に入ったのち追撃に移ったが、中国軍は黄河の堤防を切り、河南省と安微省を水浸しにした。

こうして日本軍による包囲殲滅は不成功に終わり、津浦線打通の目的だけは達成した。

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