しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

武漢攻略戦(第10師団) 蘆州~光州~信陽~大別山~漢口) 1938年

2020年05月30日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「図解・日中戦争」太平洋戦争研究会編 河出書房新社 2007年発行

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(歩兵10連隊が越えた大別山)

武漢攻略


「漢口をとれば中原(ちゅうげん)を制したことになり、中国を支配できる」
というのが、参謀本部の考えであった。
首都を落とせば蒋介石は降伏すると勝手に決めていた。
日中戦争に入りすでに6個師団を作り、さらに
陸軍は新しい師団を次々に10個も完成した。
中国戦線に61万人を派遣した。

出征部隊に補給する、兵器・弾薬・食糧・衣類・諸雑貨・医薬品を滞らせないため軍需工場を増やした。
産業構造を、権力によって無理やりかえた。
若い男が少なくなると、女性も老人も動員しなければ、人出が足りない。
1938年4月1日、
国家総動員法が公布された。

約50万が武漢作戦に参加した。
とりわけ、
大別山脈(700~800m)の北側を回って、京漢線沿いの信陽に出、そこから武漢を目指す第二軍は、
戦場まで大変な距離を移動しなければならなかった。
第二軍は蘆州周辺への集中を命じられたが、移動そのものが戦争のようなものだ。

第10師団
蘆州を8月20日過ぎ、六安を占領したのが26日。
西進し固始(こし)を占領、最初の難関・光州を攻撃した。
戦闘二日目に中国軍は退却。

信陽付近の戦い
第10師団は広州占領のあと、信陽へ進撃したが、途中の羅山で激しい抵抗を受けた。
羅山を抜くのに約5日間かかった(10月2日)。
占領後も警備のため一個連隊(39連隊)を残した。
第10師団が付近の中国軍と交戦しながら、信陽を占領したのは10月12日である。




漢口の占領
第11軍の第6師団が10月26日、漢口を占領した。
中国軍は漢口・武昌・漢陽ともに市街地では戦いを避け撤退した。
当時の漢口は人口80万人だった。
武漢三鎮合わせて、150万人。上海に次ぐ大都会だった。

1938年11月3日、
漢口市街を陸海軍の部隊が行進した。
その日は明治節で、天長節に次ぐ国をあげての慶祝日だった。

・・・

大作戦一段落
盧溝橋事件以来一年半で、武漢・広東作戦が終了した。
領土の占領。
中国全土の47%を占領。
地味豊かな穀倉地帯、資源豊かな工業地帯。
占領地人口。
約4億。その4割。

「東亜新秩序の建設」12月22日
近衛首相、「日本の戦争目的は東亜永遠の平和である」。
蒋介石、「独立の国家を滅亡させ、別に奴隷的中国をつくりあげ、子々孫々、日本に支配されることを意味する」12月26日。

・・・

情勢の大変化
日本軍による天津のイギリス租界封鎖をきっかけに、米英との関係悪化が深刻になった。
ノモンハンの敗北で、ソ連に対して極度な緊張持続を強いられた。
独ソがポーランド侵入、英仏と独が戦争状態。
日本の兵力補充が限界に近づきつつあった。

・・・・・・・・・

1940年の戦い
5月18日から9月4日まで、
重慶へ無差別大空襲を実施した。
8月ころから共産軍の大反攻が始まった。それに対して反撃し「三光」(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くし)と呼ばれた。

中国で目的がはっきりしないまま戦っているうちに、ナチスドイツが西ヨーロッパを席巻した。
フランスとオランダの降伏により、空白地帯化した植民地へ介入しようとした。

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台児荘~徐州

2020年05月30日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「図解・日中戦争」太平洋戦争研究会編 河出書房新社 2007年発行

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台児荘の戦闘

1938年3月上旬、第二軍司令官・西尾寿造中将の再三の出撃要請を受け大本営が認めた。
実際に参加したのは歩兵三個連隊(岡山・松江・浜田)で、一万程度の兵力と思われる。
徐州の北東60キロほどに台児荘という小さな県城を攻撃した。
ところが、思いもかけず、大苦戦に陥った。
中国軍は10万で攻撃し、歩兵10連隊(岡山)と63連隊(松江)は、師団長の制止を振り切り、独断で台児荘を離脱した(4.月6日)。
中国軍は「勝った!」と判断。
中国は国をあげた大騒ぎとなった。
この局地戦で日本兵2.000人以上が戦死した。


徐州作戦の開始

「徐州周辺に中国軍40万人も集まってくれた、包囲殲滅のチャンス」と決まった。
結論なく作戦は開始された。
数十万を擁する日本軍の統制なき作戦が中国軍には幸いした。
5月の初めから各部隊は進撃を開始した。
北上してきた第13師団(仙台)が徐州を占領した。
中国軍が退却したあとで、無血占領。
両者が遭遇することがなかった。
うやむやのうちに打ち切りとなった
それでも、徐州の占領に始まって、津浦線(天津~南京)の沿線を占領確保した。
蒋介石は政府機関を漢口から重慶へ移転を始め、
日本軍は漢口への進行が決まっていた。
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徐州大会戦  --毎日新聞・日本の戦史

2020年05月26日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「一億人の昭和史・日本の戦史4」 昭和54年 毎日新聞発行  より転記

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(♪行けど進めど麦また麦・・・の徐州。歌とまったく同じと父は話していた)

昭和13年(1938)は日中戦争が決定的に長期化・ドロ沼化への道に踏み込んだ年であった。

「国民政府を相手とせず」という近衛声明が発表され、
日中和平の最大のチャンスといわれたトラウトマン工作に、事実上終止符が打たれたのは1月16日。

軍中央によって「戦線不拡大」方針は、現地軍の強硬意見と早期和平への焦りで、
5月から徐州作戦、
秋の武漢・関東侵略作戦へと矢継ぎ早に戦火を拡大してゆく結果となる。
日本の思惑とは逆に、
「わが抗戦根拠は・・・広大深遠な奥地にある」(蒋介石10月31日)と戦意はますます高く、
点と線を確保しただけの日本軍の前途はまさに多難であった。
「漢口陥落して国民狂喜し 祝賀行列は宮城前より三宅坂に昼夜充満す。
---すでにこの年、9月30日
国際連盟によって制裁を決議され、軍事費は前年の2.4倍におよび
また”何処へ行くのか”危ぶまれたのである。

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華北平定作戦
北支那方面軍の占領地域は、昭和13年初めには河北・河南など6省におよんだ。
第1軍は京漢線方面、
第2軍は黄河以南の占領地内限定掃討作戦を命じられた。
第2軍は第10師団に対して占領戦を越え、中国軍を追撃するよう指示。
台児荘の激戦から徐州会戦への端緒を開いた。

徐州大会戦
第2軍(第5・10・16・114師団他)は5月7日、徐州作戦を発動しした。
大本営は5月29日、作戦地域を越えないよう統制したが北支那方面軍は統制線を越えて西進した。



徐州になだれ込む
5月25日、
寺内寿一北方面軍・畑俊六中支那派遣軍がそろって徐州入城式を挙行。
徐州は以後敗戦まで7年余り日本軍の占領下におかれた。

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武漢攻略作戦  --毎日新聞・日本の戦史

2020年05月26日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「一億人の昭和史・日本の戦史4」 昭和54年 毎日新聞発行  より転記

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(武漢三鎮。父によれば中国軍は租界地をうまく利用した陣地だったそうだ)

武漢攻略作戦


中国軍は徐州会戦後、武漢地区の防衛を一段と強化した。
大本営は、日中戦争の早期解決のため、武漢攻略作戦の実施を昭和13年6月15日に決定し、海軍との協同作戦を計画した。
第11軍(第6・9・27・101・106師団ほか)を揚子江に沿う地区から進め、
第2軍(第3・10・13・16師団ほか)を大別山系の北側地区から進めて、第11軍の作戦を支援する方針を採った。

第2軍は蘆州周辺に兵力を集中し、第10・13師団は8月27日から進撃を開始した。
中国軍の抵抗は頑強で、損害は多く、マラリア患者も多発し、戦力低下は大きかった。

第3・10師団を信陽方面に進攻させた。


(信陽を攻める第10師団)


揚子江左岸の第6師団は随所で中国軍を撃破して、10月25日夜、漢口市街の一角に突入して、翌26日完全占領した。
第2軍主力も漢口北方地区に進出した。

日本軍の損害は、戦死者約7.000人、戦傷者約24.800人であった。


・・・・

補給難と伝染病 第2軍の江北作戦
第2軍(東久邇宮中将=昭和20年に首相へ)は8月27日、
第10・13師団の六安・霍山への攻撃前進によって武漢作戦を開始した。
同軍の主要任務は、京漢線の要衝・信陽を攻略する一方、大別山系を突破南下して、南から武漢に迫る第11軍を支援することであった。
揚子江北岸には約44個師の中国軍が布陣し、西進する日本軍に激しく抵抗、悪天候と補給難、そしてマラリアに悩まされた第2軍は各所で苦戦を強いられ、
戦死2.505、負傷7.427を出したほか、総兵力のほぼ半数が羅病した。

西進また西進  第10師団
第2軍は、第10師団が六安から光州へ、第13師団が霍山から商城を目指した。
道路は各所で徹底的に破壊されていた。
8月28日六安を占領、ひたすら西へ進んだ。

武漢三鎮へ突入
武漢三鎮進入命令が下されたのは10月24日。
すでの京漢線の要衝・信陽を攻略した第3・10師団は漢口へ向かって南下中。
漢口は25日夜、
武昌は26日早朝に占領された。


(漢口市庁舎)

軍は特に、
「第三国権益を尊重し・・・、掠奪・放火・強姦等の絶無を期すを要す」と厳命、南京事件の再発防止に努めた。
武漢占領後も各師団はそれぞれ追撃戦を続行した。
11月11日、第9師団の洞庭湖畔の岳州(岳陽)の占領により日中戦勃発以来、最大の兵力を動員した攻略作戦は完了した。


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「生きている兵隊」③その後

2020年05月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「戦争と検閲」河原理子著 2015年発行 岩波新書 より転記する。

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1937年~1938年の曲がり角
いまふりかえると、「生きている兵隊」事件は、日本の曲がり角で起きた。
日中全面戦争を機に、さまざまな統制が一気に強められる渦中に起きた。
中央公論3月号に「生きている兵隊」発禁処分と、「国家総動員法」の記事とが載っていた。

1938年武漢へ再従軍
執行猶予付き有罪判決後すぐ、中央公論社の特派員として再従軍。
武漢攻略戦を取材した。(1938.9.12~11.20)
今度は注意深く書き、作家としての命脈をつないだ。

1942年シンガポールへ
海軍報道班としてベトナム、シンガポールへ渡った。
短編を発表したが印象に残る作品でなかった。


高見順「敗戦日記」
昭和20年9月30日
マッカーサー司令部が新聞並びに言論の自由に対する新措置の指令を下した。
 これでもう何でも自由に書けるのである!
 これでもう何でも自由に出版できるのである!
生まれて初めての自由!
 自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、
--かえりみて羞恥の感なきを得ない。


「生きている兵隊」発行
昭和20年秋、河出書房から発行が決まる
初めて一般の人たちの目に触れることになった。
「部隊」は、大隊や小隊等になった。
抜けていた文字、兵や死体も直された。
伏字は埋められた。

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「生きている兵隊」②岩波新書・戦争と検閲より

2020年05月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父が従軍した徐州戦と漢口戦には、多くの作家も取材従軍をしているが火野芦平と並び石川達三も参加している。
武漢市では、父と石川達三と同じ時を共有している。



「戦争と検閲」河原理子著 2015年発行 岩波新書

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軍機軍略の掲載禁止
 盧溝橋事件が起きた1937年7月から、内務省は矢継ぎ早に、記事差し止めに関する指示を出していた。
兵力が集まる地名は書けない。
部隊の移動を推知させるものも不可。
規模がわからないように、小隊も中隊もすべて「〇〇部隊」と表記。
戦死した場所も空も掲載不可。
 そもそも「我軍の不利なる記事・写真は掲載せざること」とあり、都合のよいことしか掲載を認めなかった。

美談は明朗に
 書き方を誘導するものがあった。銃後の美談などである。
陸軍省は国民の愛国心を保つため、召集美談、出発見送りの状況掲載は、条件付きで解禁した。
行先・日時・場所明示しない条件で、なおかつ感傷的に流れず、社会の欠陥を裏書きするが如き記事を避けること。
 戦死病者の新聞紙上に多数掲載は禁止され、全国掲載はだめだが地元戦死者だけ掲載はよいとなった。

言論統制
そもそも戦争が、民族解放やファッショ国に対する民主主義国家の戦争、とりわけ防御的なものであれば、戦争反対の声はまりでないはずだが、戦争の多くはそうでないから言論統制が求められるのだ。
戦時における言論統制について、官憲によるそれだけを考えることは、大きな間違いである。
言論の機関である新聞・雑誌の類が戦争を謳歌し、反対の意見や批判をまったく却けてしまう。
官憲の手が動いているのはもとよりであるが、新聞や雑誌のみずからの発意に出ていることを見逃すことはできない。
新聞・雑誌社の意図ということもあるが、一般民衆の心理を反映し、それに迎合していうるという点が多いであろう。
かくて、民衆が反対の意見や批判を圧し潰すのである。
民衆が言論を統制するのである。

「生きている兵隊」の年表
中央公論社の南京派遣・193712.29~1938.1.23
1938.2.12脱稿
(1938.2.18発売禁止)
1938.2.19中央公論3月号発売

中央公論編集長(当時)雨宮庸蔵「忍ぶ草」1988年発行より
戦後の編集者には理解しがたいであろうが、検閲制度があったころは、エロチシズムから思想面に至るまで、検閲をとおるか通らぬかぎりぎりの線まで編集の網をなげることによって、よい雑誌、売れる雑誌がつくれるという気概と商魂とが一貫していた。
事前検閲もないではなかったが、実際問題として原稿が締切間際に殺到するケースが多いので実行不可能であった。
「生きている兵隊」にしても330枚の原稿がとどいたのは校正の間際であった。

当時の出版部長・牧野は、
「石川氏の原稿は締切を三日も過ぎていた。頁をあけて待っていた編集部では、組み指定だけをして印刷所へまわした。
雑誌の製作途上には往々にしてあるのである
 初稿から問題になった。
伏字・削除・○○を加える。
大削除する。
それでは作品の価値がなくなる。
その時、本文は輪転機にかかって印刷されている。
読みだすと私は原稿に吸いつけられ、完全に魅了された。
一気に読み終えた。そして吾にかえって愕然とした。
 これはとても通らない。」

牧野はこうつづる。
「生きている兵隊」は、戦争に伴う罪悪、汚辱、非道をえぐりだしていた。
戦争の本質は殺し合いであり、戦場に送り出しておきながら手をきれいにして帰ってこいなどと求める方が無理だ。
 しかし日本兵だけはそのようなことをしないと言い張るのが、当時の軍部であり宣伝だった。
指導者は「正戦あるいは聖戦」のイメージを国民に植え付ける懸命の努力をしていた。
そんな情勢のなか「生きている兵隊」は大胆といおうか無謀といおうか、戦場の風景を率直に描写したのである。軍部がだまって見のがすはずはない・・・・。

編集長・雨宮はおそらく瞬時の判断で、これを載せる決断をした。

発禁
雑誌が発売禁止になると、実行するのは警察である。
書店に出回った雑誌が、各警察署に押収される。
問題個所だけ切り取り、全社員が各警察をまわり、もらい下げる。

部数
発売部数は約73.000部。
約18.000部が逃れた。
4月警察は中国語・英語・ロシア語に訳されたのを知った。

法廷
警視庁は、達三たちを書類送検した。
裁判で達三は
「新聞等は都合のよい事件はかき、真実を報道していないので、国民がのんきな気分でいることが不満でした。
国民は出征兵士を神様のように思い、わが軍が占領した土地には楽土が建設され、支那民衆も之に協力しているか如く考えているか、戦争とは左様な長閑なものでなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが必要と信じていました。
ことに、南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていました。
憤慨に堪えませんでした。
私は戦争の如何なるものかを国民に知らさないといけないと考え、ぜひ一度戦線を視察したい希望を抱いていたのです。」

作家はいかにあるべきか
私は戦場で一人の兵から言われたことがあった。
「内地の新聞を見るとまるで戦争なんて何でもないみたいな書き方をしているが、あれを見てみんな怒っているよ。
俺たちはそんなのんきな戦争をしてるんじゃない、新聞記事はまるで子供の戦争ごっこだ」
私は非国民的な一片の思想をも書いた覚えはなかった。
国策の線に沿いつつしかも線を離れた自由な眼を失ってよいものではない。
この程度の自由さえも失ったならば作家は単なる扇動者になってしまうであろう。

判決
達三と雨宮が禁固4ケ月、牧野が罰金100円の有罪判決である。
判決理由は、
「生きている兵隊」の四つの記述を挙げた。
①瀕死の母を抱いて泣き続ける中国娘を銃剣で殺害する場面。
②砂糖を盗んだ中国青年を銃剣で殺害する場面。
③前線は現地徴発主義でやっている話と、兵士が「牛肉の徴発」に出かける話。
④姑娘が「拳銃の弾丸と交換にくれた」という銀の指輪を見せる場面。

皇軍兵士の非戦闘員の殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述し、雨宮が編集、牧野が発行して、達三は執筆した罪。
東京日日新聞は「情の判決」と報じた。
弁護人は、陸軍刑法違反と脅された経過から、安堵した。

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武漢攻略作戦(ペン部隊の派遣)

2020年05月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「日中戦争全史・下」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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武漢攻略作戦・ペン部隊の派遣

徐州作戦での戦意高騰に成功した軍部は、武漢を利用したメディア戦略を展開した。
文芸春秋社の菊池寛に要請し、当時の人気作家・流行作家が集められた。
陸軍には、
林芙美子・深田久弥・川口松太郎・尾崎士郎・丹羽文雄・岸田国士・久米正雄・・・。
海軍には、
菊池寛・古屋信子・佐藤春夫・吉川英治・・・・、
さらに軍歌を作詞・作曲しまくった感のある西条八十や古関裕爾らで、
中国戦地へ出発した。

「戦場将兵の活躍ぶりを遺憾なく国民に伝えること」
「皇軍の正義をとうとび、軍規の厳正なること」を要請された。

ペン部隊のヒロインとして大活躍をしたのが『放浪記』がベストセラーになり人気作家になっていた林芙美子だった。
「芙美子さん漢口に一番乗り」
「林芙美子女史が漢口に入城」
「林さんの漢口入城は全日本女性の誇りである」
とセンセーショナルに報道した。

日本国内で、
政府と軍部、中央と地方の官庁肝いりで漢口陥落の戦勝祝賀行事が展開されている最中だった。
日本に帰国した従軍作家たちは早速、祝賀ムード演出のため「武漢陥落戦況報告」の講演会に、連日駆り出された。
どの会場でも超満員の観客が押し寄せた。

ペン部隊の作家たちは、雑誌につぎつぎと従軍記を寄稿し、新聞に対談や座談会を掲載して、
過酷な戦場で「支那膺懲」のために意気軒昴に戦っている日本軍部隊の奮闘ぶりを銃後の国民に伝え、国民精神総動員運動や総力戦体制強化のための国民世論の形成に貢献した。

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武漢攻略作戦

2020年05月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父は第10師団の兵だったが、毒ガスのことを話したことは一度もない。

「日中戦争全史・下」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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武漢攻略作戦

武漢は長江に漢水が合流する地点に向かい合う武昌・漢口・漢陽お三鎮(都市)からなる。
南京から重慶へ首都を移すことを宣言した蒋介石が、武漢に暫定的に首都機能を移していた。
また、国民政府軍の軍事機関と施設が集中し、中国軍の主力が集結していた。

1938年6月13日、
大本営御前会議で武漢攻略作戦実施が決定した。
武漢と広東を攻略し、年内に日中戦争の決着をつける方針を立てた。

武漢作戦は、
8月22日「漢口付近の要地を攻略占拠すべし、この間成るべく多くの敵を撃破するに努むべし」という大本営の命令によって開始された。

総勢40万弱の日本軍が動員された。
当時日本の陸軍総兵力が34個師団で、23個師団を中国に送り、満州・朝鮮に9個師団配置してソ連に備え、内地には2個師団を残すのみであった。

武漢は北方は山岳地帯、平地は火鍋といわれる夏の炎熱のなかでの戦闘であった。
コレラ・マラリアの流行などにより人馬ともその体力を消耗し、発病者が多数に及んだ。
戦わないうちに野戦病院は患者で充満するありさまで、病死者が多数出た。
第11軍司令官の報告には「約40万の兵力のうち、約15万に達するマラリア患者の治療」のため、戦力が低下したと述べている。

1938年10月26日、
漢口・武昌を占領。27日に漢陽を占領、武漢攻略作戦は終了した。
国民政府は、すでに6月に重慶に移転していたので「潰滅」にはとうていよばなかった。

2ヶ月におよんだ武漢攻略作戦の戦闘は、中国にとっては抗日における最大規模の戦闘であり、日中両軍の犠牲も大きかった。
日本軍側の記録では、
第2軍と第11軍を合わせて戦死者6.806人、負傷者24.680人。

毒ガスの本格使用
武漢戦場の北側の険しい山岳を含む悪路の進軍を命じられた第2軍は、各部隊に毒ガス戦資材を配分し、毒ガス戦を展開するよう指導した。
姫路第10師団を化学戦力の主力に指定し、優先配分した。
武漢作戦以後、毒ガス兵器の使用は恒常化し、使用も大規模となった。

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徐州作戦

2020年05月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「日中戦争全史・下」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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日本の政府と軍部さらに国民をふくめて、
賭博の心理そのままに、国民政府の大都市を占領していけば、「国民政府の壊滅を期する」ことができるような思い込みで、さらなる大作戦を展開することになった。
1938年2月、
中支那派遣軍(畑俊六大将)が編成され、長江南岸地域の確保・安定任務があたえられた。

台児荘の戦い
北支那方面軍には黄河以北の確保・安定が任務だった。
しかし北支那方面軍は参謀本部に従わず、戦線を黄河南部にまで拡大した。
3月上旬、台児荘を攻撃した。
中国軍に包囲され、かろじて撤退した。
中国は「台児荘の大勝利」と宣伝し、武漢や重慶で祝賀行事がおこなわれた。
また世界各国にも報道した。
日本軍は面子を失い、大がかりな徐州作戦を発動することになった。

徐州作戦
徐州には中国軍40万人が集結していた。
北支那方面軍は、中国軍を捕捉殲滅する好機であると大本営に具申した。
1938年4月7日、
大本営は徐州作戦実施を命令した。
北支那方面軍は南下、中支那方面軍は北上、南北から中国軍を包囲挟撃すべく、大部隊が徐州へ向かって進軍した。
5月19日、
先立って退却していた徐州を占領した。
日本国内では徐州の占領を祝い、旗行列や提灯行列がおこなわれるなど、戦勝気分をもりあげたが、中国軍を捕捉殲滅するという主目的は達成できず、
ただ戦線を広げた結果になった。

・・・
・・・

『麦と兵隊』

徐州作戦は、国民を総動員し、多くの兵士を抵抗感なく中国戦場に送り出すための情報宣伝工作としては、大きな成果をおさめた。

南京攻略戦に参加し「土を兵隊」を書いた陸軍伍長・火野葦平(玉井勝則)を徐州作戦に従軍させた。
運転手付きの車をあたえられた火野は第13師団の最前線を取材してまわり、軍の期待にそって一気に『麦と兵隊』を書きあげた。

1938年9月、中央公論社から単行本として発行され、たちまち120万部を越すベストセラーになった。
軍国歌謡にしようと陸軍はポリドールの藤田まさとプロデューサーに依頼、
本を読んだ藤田は感激し、軍人精神にそった歌詞をつくった。
東海林太郎が歌って大ヒットした。
小説・軍歌とも戦地の兵士と国民の一体感を高め、戦意高騰につながった。

火野は名をはせたが、戦後は一転して公職追放を受け、文芸界からも「文化的戦犯」の批判を浴びた。
過去の反省と克服に苦悩し、1960年、53才で自死した。


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ゴールなき泥沼戦争へ(徐州作戦以前)

2020年05月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「日中戦争全史・下」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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1937年、
「盧溝橋事件」は「北支事変」に発展させ,
海軍は謀略で「第二次上海事変」を起こした。
さらに首都南京へ渡洋爆撃をおこない、一挙に全面戦争「日支事変」に拡大した。
しかし安易な「中国一撃論」は、すぐに破綻が証明された。
すでに重慶に首都遷都を宣布し、武漢に首都機能を移し抗日戦争を継続したからである。

1938年1月11日、
大本営御前会議で
「トラウトマン和平工作」と「国民政府壊滅の戦争継続」の和戦両策が議論された。
1月15日、
参謀本部以外(陸軍、海軍、軍令部、外相)が戦争継続に賛成した。
1月16日、近衛内閣は
「爾後国民政府を対手とせず」を声明した。
国民政府打倒と、新興政権の成立発展を期待した。
このゴールない日中戦争の悲劇に、日本軍そして日本国民を走らせる最終号砲となった。

なお、これを知った指揮者・小沢征爾の父の小沢開作は「民族協和」を唱える活動家だったが日本政府の反省をもとめた。

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陸軍参謀本部が反対した理由は、
3ヶ月に及んだ上海戦に19万人を投入し、戦死戦傷あわせて4万人以上の損害を出し、それに加え戦病者数も膨大だった。
「首都南京を占領すれば中国は屈服する」という安易な「中国一撃論」にひきずられ強行した南京攻略戦に陸軍は20万人を投入しながら中国を「屈服」させることに失敗したから。

1937には中国に69万人が必要で、大部分は陸軍だった。
これ以上の負担と犠牲を回避しようとした。

その後、反対した参謀本部の当事者は左遷・一掃され、歯止めのない長期泥沼戦争に突入となった。

いっぽう、多くの日本国民は、新聞が繰り広げた報道合戦に煽られ、「南京にいつ日章旗が翻るか」に興奮し、
南京が陥落すると
官庁と教育界・マスコミ・ジャーナリズムの肝いりの南京陥落祝賀行事に参加し、昼は「南京陥落万歳」と日の丸を打ち振って祝賀行事をおこない、夜は「勝った!勝った!」と提灯行列を繰り広げた。

やがて国家総動員法の公布(1938年4月1日)により、権限を政府に付与することになり、国民の経済と生活は政府によって統制されることになった。
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