しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

中学校への進学者

2024年01月03日 | 学制150年

戦前は東京や大阪を除いて、ほとんどが農山漁村で
しかも、その長男となれば親の職を継ぐのが生まれた時からほぼ決まっていた。
中学校へは立志者や金持ちに限られ、しかも男性限定。


城見村では、城見小学校から毎年2~3人の中学進学者がいたようだ。
その進学先は福山中(ふくちゅう・誠之館)または金光中学(こんちゅう)。
地域の県立中学校だった矢掛中学や、距離的に近い興譲館には進学してない。
これは大門駅から通えるのは福山中と金光中しかなかったからだろう。


城見小学校から中学校へ進学した人は、その多くの人が目指すのは
海兵・陸士、師範学校。
高等学校は次に大学という前提なので、貧しい城見村の親ではいかすことができなかった。

 

・・・


元・福山中学「広島県福山誠之館高等学校 第八回卒業記念 昭和三十一年三月」

 

・・・


岡山中学

難関を突破して入学した生徒達は「中学校を卒業したからとて、別に之といふ資格があるでなし、上級学校に入るには必ず全科の試験を受けるのでしたから、別に卒業する必要もなく、実力さへつけばよいのと、一年でも早く上級学校に入学せんとの考えから、自ら進んで、自発的に勉強して実力の増進に努めた。
そこで、卒業を待たずに上級学校に入学する者も多かったので、 明治十二年に第一回の卒業生を出してから、四回も卒業生の出ない年があった」のである。

「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

・・・

 

「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


中学校の歴史  明治から大正

明治11年~明治40年の教育


明治20年代後半から、30年代にかけ中学校も次第にその増設の速度を早めた。
主として府県立中学校の増加であった。
なぜこのように府県立中学校が増加したのか。
その理由の第一は小学校教育の普及・発達であろう。明治35年には90%を超えた。

ところで、こうした中学校の急増は、当然その卒業生の急増をともなっている。
中流社会の構成員としての一般的教養を身につけただけで、何の職業的訓練もなく、ただ気位のみはかなり高い中学校卒業生は、社会へ出てもただちに就きうる適当な職業が容易には見つからなかった。
せいぜい郡役所や村役場の書記とか、小学校の代用教員ぐらいのものであったが、これらの職場もきわめて限られたもので、中学校卒業生の就職口としては焼け石に水であった。
いきおい多くの卒業生が上級学校進学をめざして、その狭き門に殺到し、しのぎをけずる結果となった。

 

・・


中学校の制度的変遷をあとづけてみよう。 大正7年12月「高等学校令」が制定公布された。
高等学校は大学予科であることをやめ、男子の高等普通教育を完成するところとされ、七年制高等学校を本体とするものとなった。
それにともなって、入学資格は中学校第四学年修了程度に改められた。

・・

中学校入学難
入学者の「入学前学歴」をみてみると大正前期にはむしろ尋常小学校の過年度卒業者が高い比率を占めており、
大正後期の中学校増設等によってようやぅ尋常小学校卒業者の比率が前者を上まわるに至り、昭和期にかなりの程度事態の改善をみる。

つぎに入学者の社会的背景の変化を知るために、家庭の職業とその構成比の変化をみておきたい。
社会構造の変化を反映し各職業分野の構成比が総体的には向上し、家庭の職業構成が多様化していることがわかる。 
入学者の家庭の職業構成は、まず「農業」が30%台から10%台に急落しているのに注目せざるをえない。

 

・・・

 

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第六高等学校

2024年01月02日 | 学制150年

「一高→東大」というのが長く日本の超エリート指導者層だったが、
年月を経て「いっこうとうだい」という言葉も、最近は聞かなくなった。

旧制第六高等学校が、1900年(明治33年)3月に岡山県岡山市に設立された。略称は「六高」(ろっこう)。
戦前の岡山県民の誇りの学校が「六高」と「岡山医大」。

 

(撮影日・2013年10月14日岡山駅前)

 

六高生は大変なエリートで、肩で風を切るのは当たり前。
富士製鉄の社長だった永野重雄さんは、柔道部員で警官を旭川に投げ込んだことを自慢していた。
それは六高生にとっては岡山市では、大目に見てもらえる範囲の行動だった。

 

・・・


第六高等学校の設置


明治31年12月第十三回帝国議会で高等学校増設の声がおこった。
当時高等学校は、第一高等学校(東京) 二高(仙台)三高(京都) 四高(金沢)五高(熊本)のほかに山口(後高等商業に改組)の六校があったのみである。 
政府も高校増設の議を決したため、岡山、広島、香川、愛知の四県は高校誘置の運動を展開した。 
なかでも、岡山県と広島県の争奪戦はすさまじかった。
岡山市議会議員中から七名を選んで、六高創立委員会を組織し、時の岡山県知事高崎親章は岡山市長小田安正等と共に、岡山県に関係の深い小松原英太郎(当時司法次官)坂谷芳郎(当時会計局長)馬越恭平等を介して六高誘置のためのはたらきかけを熱心におこなった。
委員会は、県、商工会議所とも一丸となって運動し、市の世論も大いに高まっていった。

広島県側の運動の様子を「六稜寮史」は次のように伝えている。
「当時岡山県に対抗して最も劇烈な運動をしたのは広島県であった。
岡山県に劣らず県当局も議員も熱心にその運動に努めた。
両県の新聞も互いに負けず劣らず高等学校設置問題について劇烈な論争をつづけ、両県の代議士間の感情も可なり険悪であった。
同じ政友会に属して居た岡山県選出の代議士石黒涵一郎氏と広島県選出の代議士井上角五郎氏が衆議院の廊下に於て格闘したのもこの議会中の出来事であった。
以て当時両県の高等学校設置問題に対する白熱化を窺ふ事が出来やう」
かくして32年2月遂に六高の岡山設置が決定した。

「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

・・・

六高の生徒気質


六高の第一回卒業式は明治36年7月3日同校講堂で挙行された。
卒業生合計60名、内訳は法科生9名、文科7名、工科16名、医科28名。 
出身地は岡山県10名、大阪府9名、兵庫・岐阜各5名、愛知・和歌山4名、広島3名、京都・福岡・愛媛・奈良・三重・静岡・ 東京・滋賀・鳥取・高知・富山・島根・茨城・ 山梨・香川各1名であった。
明治30年代は日本資本主義の急速な発展期にあたり、古いものの衰退しつつあった時代でもあり、生徒はこれにとってかわる新しい思想や、モラルなり精神の根底となるべきものを求めてやまなかった。

「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

 

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大正7年12月「高等学校令」が制定公布された。
それにともなって、高等学校高等科への入学資格は中学校第四学年修了程度に改められた。

「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行
・・・

 

(旧制第六高等学校は昭和20年6月の空襲で焼け落ち、戦後の学制改革で消滅した。昭和23年から岡山朝日高校が跡地を使用している。
撮影・2022.12.20)

 

・・・


(Wikipedia)


1918年(大正7年)12月に公布された2つの「学校令」

一つは高等学校令の全部改正(第二次高等学校令)であり、
大学進学課程(高等科)としての高等学校の性格が明確化された。

もう一つの大学令では、
帝国大学以外の大学、すなわち官立(単科)大学・公立大学・私立大学の設立が容認された。
以降、数多くの官・公・私立専門学校が大学昇格運動を展開し、大学令準拠の(旧制)大学への改編を達成した。
これらの結果、それまで言論界・教育界を騒がせてきた「学制改革」論議には一定の決着が与えられ、戦前期日本における高等教育制度の確立を見るに至った。

当該期にはまた、それまで公教育体系の外部に位置づけられていた就学前(幼児)教育と障害者教育が初めて制度化されるに至った。

・・・

 

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明治40年、尋常小学校6年・高等科2年 (義務教育6年)

2024年01月02日 | 学制150年

明治40年の学校令で義務教育は6年となり、
従来の高等小学校の1年生、2年生は、尋常の5年生、6年生となった。

祖父母は明治40年以前の対象者で、
父母は明治40年以後の対象者となった。これが昭和21年までつづいた。

 

・・・

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


明治40年、尋常小学校6年・高等科2年

高等小学校の普及は尋常小学校への併置という形で増加し、
尋常高等小学校が小学校全体のなかで占める割合は、大正期にはこの傾向がより顕著に現れているのである。
明治40年に義務就学が六年に延長され、その就学率も100%に近づき、従って次の段階として高等小学校の著しい拡充である。

明治37年38年の日露戦争後小学校教育は著しく発展拡充し、就学率も急速に上昇した。 
こうした状態に応じて、明治40年(1907)に小学校令を改正して、
尋常小学校の修業年限は6年となり、義務教育年限が2年延長された。
これに伴って高等小学校は2年となり、3年まで延長することができるものとされた。
義務教育年限の延長は、明治41年から施行されたが、これによって義務教育六年間が国民の共通基礎課程として成立するとともに、
義務教育から直接に中学校や高等女学校等の中等教育に接続することとなった。
このことはとくに高等小学校の性格に重要な変化をもたらすこととなった。
すなわち高等小学校は、一般大衆の子どものための完成教育機関としての性格をもつこととなった。

・・・

 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 第1期 (最初)の国定教科書

最初の国定教科書は 1904(明治37)年から5年間使用されました。
そのなかの「尋常小学読本 巻一」 を見てみましょう。
いすの絵にイの字、木の枝にエの字、すずめにスの字、石にシの字が書かれているページから始まっ ています。
ですからこの教科書は「イエスシ読本」と呼ばれました。どうしてこんな学習からはじまったのでしょうか。 
この時期は日本が統一国家づくりを急いでいた頃でした。
しかし、地方は方言が中心で標準語が確立していなかったためにコミュニケーションが難しい状態でした。 
そこで教育をとおして方言を標準語に統一することをめざしました。
方言では「イ」と「エ」と「ス」の区別がつきにくかったためこうした学習が求められました。

・・・

 

「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
義務教育の充実
大正元年(1912)の就学率は男子98.8%、女子97.6%、 
平均98.2%で就学における男女の差はほとんどなくなっていた。
また尋常小学校入学児童の卒業比率では大正2年度入学、7年卒業の場合80.3%と
大正期ではまだ20%近くの児童が中途退学もしくは留年していたと思われる。

・・・

 

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明治の遠足

2023年12月30日 | 学制150年

明治20年代 

「富国強兵」をめざして、遠足、運動会、修学旅行が、訓育的性格をもって登場した。
明治後期には試験にかわって学芸会が、学習したことを人前で発表することを目標として成立した。
明治期末には、小学校で学校行事を含めた教科外活動の教育的価値が認められてきた。
このとき学校行事は、個々の行事としてではなく、まとまったものとして考えられるようになった。
文部省や地方当局は、外国に対抗できる国家・国民をつくることに懸命であった。
為政者たちは、試験、儀式、運動会、展覧会、学芸会に父兄の参集を強く呼びかけた。
父兄を学校に集め、父兄の教化をもはかった。

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 

・・・

(昭和4年の遠足)

・・・


「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


兵式体操の隊列運動の延長ともいえる
当時の遠足とは遠足運動会でもあった。
校外の神社境内、川原、海岸、原野、公園、田などに隊列をくんで遠足し、簡単な遊戯や体操を行って帰校するのが普通であった。

学芸会 
学芸会は試験や展覧会ともことなっていた。
試験とはちがい、教科の談話・対話・朗読や唱歌の合奏あるいは理科実験などであった。
また展覧会とはちがい、学習成果を活動的に発表するものであった。
学芸会は、他の行事よりも遅れて登場した。
学芸会が遅れて成立したのは、家庭との連絡を目的とする父兄懇談会の成立、児童の自主的な表現活動の重視などと関連をもって成立したためである。

・・・


「ビジュアル版 学校の歴史」 汐文社 2012年発行

A. 遠足 修学旅行の始まり
校外に出て集団的に活動する取り組みは早くから行われていました。 
初詣・お参り、見物、登山、船遊び、卒業旅行などがそれにあたります。 
自発的な行事だったといえます。

大正時代になると、小学校でも遠足や修学旅行が行われるようになりました。
大正中ごろになると、弁当を負って遠足が行われるようになり、
6年を卒業すあるときになって修学旅行が実施されました。

・・・

 

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明治の運動会

2023年12月29日 | 学制150年

運動会は、
学芸会と異なり、明治期後半には「如何なる学校に於ても必ず挙行せられ、学校に於ける確定事業の一」となっており、
町ぐるみ・村ぐるみの「マツリ」になりつつあった。

小学校では明治19年ごろから全国的に広まった。
当時の小学校運動会は、県郡単位による連合運動会であり、体育奨励・教育誇示の運動会でもあった。
この小学校運動会では、旗綱引などの遊戯競争や徒手体操、唖鈴体操などの体操のほかに兵式体操が多く、
陸上競技、スポーツはまだあまり行われていなかった。

各地で挙行されるようになった単独の運動会は、遠足運動会であり行軍であった。
遠足や運動会は、体力の向上よりも強兵のための心身鍛練をめざしていたのである。
学芸会は、学芸奨励の目的で行われ、父兄を集め、学習した教科内容を人前で表演する行事であった。 

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 

(映画・阪妻の「無法松の一生」)

・・・

「ビジュアル版 学校の歴史」 汐文社 2012年発行

A. 運動会の始まり

日本で最初の運動会は、 1874(明治7)年に海軍兵学寮で行われました。
小学校で運動会が始まるのは1880年代半ばからです。
1886(明治19)年に小学校令が出され、 体操が小学校の正式な教科になると運動会は全国的に広がっていきました。 
この時期の運動会は競争的な種目は少なくて 遊戯的なものが中心でした。

1907(明治40)年に義務教育年限が4年から6年になると各小学校の児童生徒が急増し、 
学校の整備もはかられ、 体操場の設置も義務づけられました。

運動会は、春の小運動会、秋の大運動会と二回実施されるようになりました。
秋の大運動会は盛大で地域の行事としておも行われるようになりました。

・・・

 

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祖母さんの学歴

2023年12月28日 | 学制150年

一代(かずよ)祖母さんは、管理人の祖母。父の母。
明治28年9月7日、岡山県小田郡城見村茂平に生まれた。
農家の4人姉妹の次女だったが、
長女が家を出たために養子をもらい家を継いだ。

長女が家を出た原因は、
どうしても”女学校に行きたい”、
そのために金持ちの養女となって家を出た。

 

・・・

一代祖母さん(明治28年~昭和52年)

・・・


祖母との会話で、学校や教育の話が出たことがない。
祖母の姉が命がけとも思える気持ちで、女学校に進学したのを比べると勉強に関心がなかったようだ。

祖母は実の娘(管理人のおば)からも、
「おばあさんは女学校に行かしてくれなんだ」と恨み節を何度も何度も聞いたことがある。


当時の農家の現状からみて、祖母の学歴は下記ではないかと思える。

 

明治34年 尋常1年

明治35年 尋常2年 (※明治35.4 笠岡町立笠岡女学校開校)

明治36年 尋常3年

明治37年 尋常4年

(ココまで☝)
(最大ココ☟まで)

明治38年 高等1年

明治39年 高等2年

・・・

明治6~7年、飛鳥小学校ができた。
明治11年、用之江・大冝・茂平の3校が一つになり用之江小学ができた。
明治19年、用之江小学校と改め濱川に校舎を建て5月11日開校した。
明治20年、尋常用之江小学校と改めた。
明治22年、城見村となる。
明治26年、城見尋常小学校と改めた。
大正3年、用之江空の下(今の所)に校舎を建てた。
大正5年、城見尋常高等小学校と改めた。
昭和5年、城見小学校講堂を新築する。(真田講堂)

「城見のあゆみ」 城見まちづくり協議会 2017年発行
  

 

・・・

祖母が入学したのは、

「城見尋常小学校」で、

場所は用之江濱川に校舎があったようだ。(それは何処だろう?)

 

父と管理人は、同じ校舎で、同じ6年間を通学している。

・・・

 

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祖父さんの学歴

2023年12月28日 | 学制150年

・一(しゅいち)祖父さんは、管理人の祖父。父の父。

珍名で、名前は”しゅいち”、文字は“・一”。
昭和32.33年頃、山陽新聞の珍名欄で記事になったことがある。
その時、人里から離れた山の桃畑にいて(自分も父も祖父も)、
そこへ山陽新聞の記者が取材に来た。
(山の中まで歩いてくること)あれにはびっくりした。

珍しい字なので、本人は村人の前でも「てんいち」「ちょぼいち」「しゅいち」と適宜に使い分けていた。
晩年は長寿であることと、酒好きであることとで”長老”と呼ばれ気分を良くし
訪れた人から、おちょこに酒を注いでもらうのを最高の楽しみにしていた。(と思った)

祖父は、明治26年12月2日生まれ。
広島県深安郡下竹田村に農家の四男として生まれた。
大正6年1月養子婚姻。
平成4年に亡くなったが、その年の笠岡市民広報の長寿番付では
笠岡市内6番目で、男性では2番に位置した。


祖父は管理人には、自分の子どもや青年の時の話をしなかったが
姉には「ABCを習った」のを自慢したことがあるようだ。
そのことから思考すると祖父の学歴は下記と思われる。

 

明治32年 尋常1年

明治33年 尋常2年

明治34年 尋常3年

明治35年 尋常4年

明治36年 高等1年

明治37年 高等2年

(おそらく、ココまでの6年間 ☝)

(下記は可能性がある☟ 最大8年間)

明治38年 高等3年

明治39年 高等4年

・・・


「学校の歴史 第2巻 小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

就学率

明治32年 59.6%

明治33年 67.8%

明治34年 74.2%

明治35年 78.4%

 

・・・

「ビジュアル版 学校の歴史」 汐文社 2012年発行

A. ふろしきで通学
明治のころ、大部分の子どもたちは、ふろしきに本を包み、背中に背負って学校に行きました。 
明治の終わりころから男子用のズック製のかばんが出てきましたが、女子はふろしき包みのようでした。 
ズックは麻や木綿の繊維を太くよった糸で織った布地で丈夫でした。 

・・・

 

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明治33年義務教育4年

2023年12月28日 | 学制150年

昭和30年代の城見に、
文盲の人たちは何人もいた。

その当時の城見小学校では「運動会」と「学芸会」のプログラムを全家庭に配布していた。
校長先生は全児童の前で、
「読めない方もおられるので、読むのを頼まれたら、必ず読んであげること」
と訓辞していた。

小学生が在学していない家に配って歩いていたが、
上級生からの言い伝えで、どの家がその人であるか知っていた。

すぐ近所のおばあさんも、文盲の人だった。
そのおばあさんは母に、
「子どもの時、マンの悪いことが重なっておきた」と話していたそうだ。

ほとんどの家庭が貧しかった時代に、さらに「マンが悪い」ことがあった家庭の子どもが、
不幸にも満足に学校に行けなかった。
そういう気の毒なおじいさん・おばあさんであることは、子ども心に自然と認識していた。

・・・

 ・・・


「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

明治33年小学校令が大幅に改正された。
尋常小学校はこれを四年に統一し、三年制を認めないこととした。
高等小学校は従来通り二年、三年または四年とした。
この改正によって義務教育は四年となり、全国民に共通な四年の基礎教育の課程が成立したのである。

さらに二年制の高等小学校をなるべく尋常小学校に併置することを奨励し、近い将来、義務教育年限を六年に延長することに備えることとした

義務教育については、「学制」以来徴収されていた授業料を尋常小学校では徴収しないことを原則とし、
さらに就学の始期及び終期を学年と関連づけて明確にするとともに、
義務教育と児童労働の関係についても、学齢児童を雇備する者は雇傭によって就学を妨げることはできないこととした。
小学校の学年・学期についても、
学年は4月1日に始まり翌年3月31日に終わり、
小学校の4月の一斉入学、
進級・卒業も一斉に行うと法制化した。
学級編制については、小学校の規模を12学級以下に制限し、
また1学級定員も尋常小学校で70人以下、
高等小学校では60人以下と定めるなど小学校の形態を整備したのである。
明治の日露戦争後小学校教育は著しく発展拡充し、就学率も急速に上昇した。 

尋常科・高等科併置の小学校は、明治33年から40年までの間に二倍を越える増加を示した。
こうした小学校の設置状況を基盤に、明治40年、尋常小学校を六年制に延長した。

 

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 第1期 (最初)の国定教科書

最初の国定教科書は 1904(明治37)年から5年間使用されました。
そのなかの「尋常小学読本 巻一」 を見てみましょう。
いすの絵にイの字、木の枝にエの字、すずめにスの字、石にシの字が書かれているページから始まっています。
ですからこの教科書は「イエスシ読本」と呼ばれました。どうしてこんな学習からはじまったのでしょうか。 
この時期は日本が統一国家づくりを急いでいた頃でした。
しかし、地方は方言が中心で標準語が確立していなかったためにコミュニケーションが難しい状態でした。 
そこで教育をとおして方言を標準語に統一することをめざしました。
方言では「イ」と「エ」と「ス」の区別がつきにくかったためこうした学習が求められました。

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教育勅語

2023年12月27日 | 学制150年

「教育勅語」は戦前の小学校・国民学校での記憶が強いのは共通だが、
やはり世代によって相当差がある。

父や母の世代は紀元節や天長節や節句の学校行事に限定されている。
父の場合は、校長先生が読み上げるのを聞くだけ(耐えるだけ)。
母の場合は、覚えるように指導されていた。

戦時中になると、覚えることに加え
児童は、「教育勅語」に向って毎朝最敬礼して教室に入っていった。
先生は、児童の命よりも先に守るべき大切な”紙”であった。

 

・・・

「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スペシ」(教育勅語)

明治23年(1890)10月30日、明治天皇の言葉(勅語)として発布されたもので、正確には「教育ニ関スル勅語」という。
日本の教育理念とされ、国民の精神のあり様を規定してきた。
全文315文字からなるその内容は、
教育の淵源は歴代天皇の徳化と臣民の忠誠によって形づくられた国体にあることを説いて、
遵守すべき十四の徳目をあげ、さらに国体の危機にあっては何はおいてもそれを守るために全力を挙げることを求めている。
引用したのはその部分である。
維新後、急進的な欧化政策をとる政府、特に文部省に対して保守派には根強い反発があり、
前代の教育原理とされていた儒教道徳の復興、それを学校教 育の根幹にすえるべきとの動向が根強く続いていたが、
帝国憲法制定を機にそれが表面化したのが教育勅語。

・・・

・・・

教育勅語
学校教育のみならず国民のものの考え方、行動様式を強く規制する働きをするようになり、昭和期の 軍国主義の成立基盤ともなった。 
教育勅語は制定と同時に各学校にその謄本が下賜され、祝祭日には奉読されるよ うになり、
昭和に入って小学校上級生になると歴代天皇名とともに暗唱することが強制されるようにな る。
昭和一桁生まれの人々には記憶があるはずであ る。
また、ほぼ同時に天皇、皇后の公式肖像写真、これは普通「ご真影」と呼ばれたが、
それが学校に 下賜され、儀式の節には勅語の奉読とご真影への敬 礼、君が代斉唱などがセットにされる。
また勅語などを安置する場所として奉安殿が校内に作られ、二宮尊徳像とともに戦前の学校の風景を形づくるよ うになる。
また、学校に道徳教育を担当とする科目として置 かれた修身は、明治13年(1880)に諸教科の筆頭となり、教育勅語制定後にはそこに盛られた徳目を敷衍する教材が中心となっていく。
明治から昭和戦前にかけて
形成されるこうした学校文化 の基本は、教育勅語制定に始まるのである。

・・・

「近代日本の出発」  板野潤治 新人物往来社 昭和44年発行


教育勅語の発布

教育勅語
 明治23年に発布された「教育勅語」は、 昭和20年8月の敗戦まで55年間にわたって、学校をつうじての天 皇制注入の最大のよりどころとして機能した。
小学二年生で敗戦をむかえた筆者には、
紫の袱紗から校長が恭々しくとりだしてなにかを読んでいた記憶しかないが、
上級生で敗戦をむかえた人たちは、おそらく40年以上たった今日でも、勅語文を空でいえるであろう。
一読してわかるように、この勅語の冒頭と末尾では、「万世一系」の天皇像とあらゆる道徳的な善の具現者としての天皇像とが強調されている。

・・・

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

明治20年代には、教育勅語が発布され、知性の開発よりも人物とくに臣民の養成が教育目的となった。
明治24年に定められた「小学校祝日大祭日儀式規程」は、行事に大きな転換をもたらした。
これ以後国のための教育が、儀式によって児童のからだにたたみこまれていった。

それは明治24年、天皇・皇后両陛下の御真影並びに勅語謄本を校舎内の一定位置に奉置することが義務づけられてきたが、
その後そのための奉安室とか奉安所とかがますます明確な形をとって設けられるようになった。
これは明治後期の天皇絶対主義教育の補強策を反映したものであった。


「富国強兵」をめざして、遠足、運動会、 修学旅行が、訓育的性格をもって登場した。
明治後期には試験にかわって学芸会が、学習したことを人前で発表す ることを目標として成立した。
明治期末には、小学校で学校行事を含めた教科外活動の教育的価値が認められてきた。
このとき学校行事は、個々の行事としてではなく、まとまったものとして考えられるようになった。
文部省や地方当局は、外国に対抗できる国家・国民をつくることに懸命であった。
明治期の学校は、管理上学事奨励や臣民養成の機関とみなされ、学校は国の近代教育推進上国家の意識を体得させるための重要な機関と考えられた。
為政者たちは、試験、儀式、運動会、展覧会、学芸会に父兄の参集を強く呼びかけた。
父兄を学校に集め、 父兄の教化をもはかった。

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明治20~30年代の小学校 (学校施設の標準化)  

2023年12月27日 | 学制150年

働かなければならないために、小学校にも入学せず、または入学しても、中途で小学校をやめて、働きにでる子どももたくさんいた。
明治28年の就学率は、61.24%である が、
不就学者の約58%が「貧窮によるもの」であった。
この子どもたちは、他家の子守奉公にだされたり、丁稚奉公や徒弟奉公に出されたりした。
また明治20年代以降、産業革命の進行する中で、製糸・紡績・織物などの繊維工場や、
マッチ工場、ガラス工場などに幼年労働者として就業したものもいる。

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 就学率とクラス分け

1900年代になって就学率があがり、ほとんどの子どもが学校に通うようになると、多くの学校で2学級ないし3学級のクラスができたのです。
そのころから、どうクラスわけをするかが、大きな問題になりました。
第1の間題は、尋常小学校に入ったばかりの児童のクラスわけでした。 
早生まれの3月生まれと、4月生まれでは体格もずいぶん違うのです。 
そこで4月生まれから10月生まれで1クラス10月生まれから翌年の3月生まれまでを1クラスにするようになりました。 
そして尋常小学校3学年からは男子組と女子一組にわけることとされたのです。
ところが、人数が増えて3クラスになると半端な1クラスができました。 

戦後は新憲法や教育基本法のもとで男女が同じ教室で学ぶのが普通になりました。 (渡辺)

 

A. 学校給食のうつりかわり

学校給食は家が貧しくて昼の弁当をもってこられない子どもを助けるために始まりました。
給食のきっかけは弁当がひんぱん になくなることでした (石島庸男著 『山形県近代教育小史』)。 
明治年間には 広島、秋田、岩手、静岡、 岡山県の一部でも行われたようです。

 

A. 明治時代は着物

明治時代の子どもたちは、家でも学校でも遊びでも服装は着物でした。
男女とも筒袖(たもとがなく、袖が筒のようになっている着物) で、
男子はカスリ、女子は草花模様の色染めの着物が好まれました。 
寒くなると着物の上に半天や羽織を重ね着しました。 
小学校の児童の服装については、家庭の経済状態などから、文部省も一律のきまりはつくりませんでしたが、
筒袖が多かったのは、 1894 (明治27)年、体育や衛生の点から、
 「生徒は活発に活動しやすくするために、学校内においては洋服、和服を問わず、なるべく筒袖とするように」
という指示を出したことが影響しているかもしれません。

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

教員

 

当時の教員の等級
明治14年(1881)に政府ははじめて公立学校の職員の名称および准官等を定めたが、これによれば、小学校の教員は一等訓導(一一等)から七等訓導までとしている。
これに基づいて府県でも教員の等級および月給を定めている。
例えば神奈川県では、同年九月に小学校教員の等級および月俸額を定め、高等科教員は一等訓導から四等訓導までとし、その月俸は30円以下10円以上、中等科教員は五等、六等で、月俸は15円以下6円以上、初等科 教員は七等訓導で8円以下5円以上としている。

明治期の小学校
村に雇われていた教員
明治初期の教員は契約によって町村に雇用され、町村役人の管理の下におかれていた。
その雇用契約書は「条約書」とも呼ばれ、そこには雇用期間、月給、住宅、職務内容などについて定めている。
明治初期の教員は契約によって村に雇われ、村から給料をもらって村の学校に勤務する村の教員であった。
明治後期以後は師範学校および小学校教員は厳しい国家統制の下におかれることとなり、「村の教員」から「国の教員」へと教員の性格が変化していったと見ることができる。

そして明治18年に再改正された「教育令」において、一般的に教員資格の免許状主義の原則が確定された。
教員資格については、免許 資格主義の構造が明らかになるとともに、全国的規模での実践が現実性を帯びた課題となってきた。

 

学校施設の標準化
明治14年頃から学校施設の標準化を志向する行政指導がはじまった。
文部省は「教育品陳列場」を特設し、そこに模範教場を出品し、小学校建築や校具の範を示したとされている。
小学校の建築に関し、敷地 校舎、教場、付帯設備、校具にわたる明確な量的基準を示したのであっ た。
教室面積の算定基準一坪当たり児童四人という数値は、その後第二次世界大戦後に至るまでのわが国小学校の教室規模を規制する基準となった。
明治末期になると、学校内部管理の成熟にともない学校の施設・設備もしだいに整備されてくるが、
そのなかで 第二次世界大戦後にはみられない特筆事項がある。

それは明治24年、天皇・皇后両陛下の御真影並びに勅語謄本を校舎内の一定位置に奉置することが義務づけられてきたが、
その後そのための奉安室とか奉安所とかがますます明確な形をとって設けられるようになった。
これは明治後期の天皇絶対主義教育の補強策を反映したものであった。


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