しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

明治19年、尋常4年、高小4年 (四四制)

2023年12月26日 | 学制150年

明治19年「四四制」となった。

”義務”教育ではなく、”就学義務”であった。

・・・

 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 女子の就学率を上げるため

明治10年代(1877~86年) くらいまでは女子の就学率は低く、男子の半分くらいでした。
その頃、兵庫県の田舎で小学校初等科(3年)を修了したのち、中等科3年)に進まず退学した子どものその後を調べてみると、
男子は家業の手伝い、女子は裁縫塾に通っていることが多いことがわかりました。
そのころの人々には教育の必要さがよくはわからなかったですし、実生活に役立つとも思われない学校に授業料を払ってまで、通学させるほどの
よゆうもなかったのです(「兵庫県教育史』)。
このことは全国で同じ傾向にあることが文部省もわかったのでしょう。
1880 (明治13)年に、前年に出した「教育令」を改正し「ことに女子の為には裁縫科を設けるべし」と教科編成を改めました。 
裁縫は女子の就学率をあげるための手段だったのです。

・・・

(明治20年「学校の歴史」汐文社)

・・・

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

初代文相に就任した森有礼は、明治19年(1886) 「小学校令」をはじめ各学校種別毎の学校令を制定した。 
その小学校によって、小学校は尋常高等の二種・二段階編制となった。
学齢は従来通りであるが、就学義務については、「尋常小学科卒ラサル間ハ就学セシムヘン」(小学校令第四条)と定めている。
しかし、土地の情況によって尋常小学校の代用として、小学簡易科の設置を認めている。
同年、修業年限を高等尋常とも各四年とし、四四の制度となった。
なお尋常小学校・高等小学校の名称は、その後昭和16年に小学校が国民学校と改称されるまで、戦前、長期にわたってもちいられた。

・・

 

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明治5年「学制」の制定 学校が発足(下等4年・上等小学4年)

2023年12月26日 | 学制150年

「村に不学の戸なく」の方針では統一されていたようだが、
実際の制度となると議論や課題は多く、明治5年まずスタートした。

・・・

「創立150周年」

(井笠鉄道記念館 2023.12.22)

・・・

文部科学省HP
2023年9月5日

学制150年記念式典
  「学制」は、すべての人々が基本的な学校教育を受けられることを目指し、小学・中学・大学から成る学校制度を定めた、我が国最初の全国規模の近代教育法令です。
  9月5日、「学制」が明治5年に公布されてから9月4日で150年を迎えたことを記念し、
天皇皇后両陛下の御臨席の下、岸田文雄内閣総理大臣、細田博之衆議院議長、尾辻󠄀秀久参議院議長、戸倉三郎最高裁判所長官、松野博一内閣官房長官を御来賓に御招きし、「学制150年記念式典」を執り行いました。
  式典では、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校の校長や園長等を対象に、
学校教育の振興に関して特に顕著な功績のあった方を「令和4年度教育者表彰」として表彰し、授賞者の代表に、永岡大臣から表彰状を授与しました。

 

・・・


「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

明治期の小学校
制度・編制

明治5年、「学制」が発布され、わが国にはじめて近代学校制度が定められた。
「学制」によって最初に規定された小学校制度は、「小学校教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカ ラサルモノトス」とし、学区制を布き、
各小学区に小学校一校を設け、すべての学齢児童を就学させることとした。
小学校は尋常小学を基本とし、その他に女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾 幼稚小学を規定している。
尋常小学は6歳から9歳までの子どもを就学させる下等小学、
10歳から13歳までの上等小学の二段階編制とし、
四・四制を定めた。
子どもたちはまず下等小学第8級に入学し、
半年ごとに1級ずつ進級して、
さらにその後上等小学に進むこととしたのであった。

・・・

「教養人の日本史・4」 現代教養文庫 社会思想社  昭和42年発行

「村に不学の戸なく」
1872(明治5)年8月、新しい学制とともに出された「学事奨励に関する仰出され書」が出された。
支配者だけが学問をしてきたこれまでのやり方を批判し、さらに国家のため主君のための学問でなく、自分自身のためになる学問こそが必要であると説いているのだ。
この大変近代的な学問観、教育観が、実は政府の専制主義と必ずしも矛盾しないのだ。
愚昧な人民に、政府がつぎつぎに出す改革を理解させるためだというのだ。
子供を学校にやらなければ、役場の学事係や巡査が調べにまわり処罰される。
立派な「お上」についてこいというのだろうか。
だから府県で出した就学告論が、教育の目的を「国の富強を助けて、ついに皇威を海外に輝かす」ことにおいても、政府は決しておさえなかったのである。

・・・

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「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

明治の小学校
児童就学率向上への努力

明治5年、近代学校制度の発足によって、各地に新しい小学校が設置されようとしたことはよく知られている。
しかし、新しい「学制」の理念は必ずしも人々の要望に合致せず、無条件に人々に受容されたわけではなかった。
学齢児童を小学校へ通わせるために、岡山県のみならず各県は非常な努力を払ったのである。
岡山県はすでに見たように、藩主・代官の教育熱心、寺子屋の普及、私塾の隆盛などの背景があってか、
就学率は全国平均をかなり上回っていた。
就学率の推移
明治10年43.5%  明治15年59.8%  明治20年67.5%

学校の名前と進級
明治5年の「学制」では、全国を八大学区に分けたが、翌六年四月、これが改められ七大学区となった。
岡山県は第三大学区、小田・北条両県は第四大学区となった。
一大学区は32中学区、一中学区は210小学区に分けられ、 
学校は、何番小学というように番号でよばれた。 
明治8年3月に入って、固有名詞を校名につけるようになった。

小学は上等と下等に分かれ、
下等は6歳から9歳、
上等は10歳から13歳の各4年であった。

各小学とも入学時が8級で、
卒業時が1級となり、半年に1級ずつ進級することになっていた。

・・


「教育の歴史」  横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


学校制度の流れと実際


「学制」は、明治5年(1872)8月に発布された日本で最初の近代学校制度に関する基本法令である。
「この「学制」によって全国に学校が設けられ、その後近代学校は成立発展していくこととなる。
この「学制」は109章からなり、「大中小学区の事」「学校の事(小学・ 中学・大学)」「教員の事」「生徒及び試業の事」「海外留学生規則の事」 「学費の事」と分けられて規定されている。
実施にあたっては、特に小学校の設立に力が注がれ、小学校は国民すべてが就学すべきもので、六歳で入学すると規定には記されている。
また尋常小学(下等小学四年、上等小学四年)、のほかに女児小学、 村落小学、貧人小学なども小学校の種類としてあげられている。
これに基づきその九月に「小学教則」が公布され教育の内容が示された。
「学制」実施後、わずか数年の間に
児童の就学率も急速に上昇していっ た。

・・・


就学の督促
学制発布以来、政府の重点政策は全国各町村に小学校を設立し、すべての学齢児童をここに就学させるということだった。
このため、学区取締りという、就学の督促、小学校の設立、学費の調達など学事の一切を行う機関を設けた。

かなり強力督促を行った。
府県によっては、各種の 規則を設けて督励業務の役割を明らかにした。
巡査に命じ、就学児童の取締りを行ったり、校旗を就学率によって区別するなどの例もみられた。
厳しく就学を督促するだけではなく、県の役人が各学校を巡回し優等生を表彰したり、学校でも成績優秀者へ賞品を添えた表彰や皆勤賞などの賞状を授与し、就学を奨める手段をとっていた。

学制の規定(明治5年から12年まで)では、小学校を上下二等に分け、この二等は男女とも必ず卒業しなければならなかった。 
下等小学校も上等小学校もそれぞれ六カ月ずつの八級に分けられ、
入学の際は八級から始まり、順次一級までの課程を修めて卒業となった。
また下等、上等小学校ともに段階ごとに試験があり合格しなければ、もう一度同じ級に留められることとされていた。

明治14年(1881)5月4日制定の小学校教則綱領によると、
小学校初等科・中等科は各三年、高等科は二年の三・三・二制となっている。

・・・

「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行
明治12年9月、「学制」にかわって、「教育令」が出され、「小学」という呼び名が「小学校」とされた
更に、明治14年の「小学校教則綱領」によって小学校は、初等・中等・高等の三等とされた。

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ひい祖父さんの学歴

2023年12月25日 | 学制150年

利三郎(りさぶろう)祖父さんは、管理人のひい祖父さん。父の祖父。
元治元年(1864)備中国の茂平村に生まれた。
農家の長男、第一子だが利三郎。

終戦の年の11月、
隣家から発生した赤痢になり、医療や薬品もなく、あっけなく亡くなった。
それまで農業一筋の元気な人だったそうだ。

ひい祖父さんの話は、家庭内でもよく聞いたが、学歴の類の話は記憶にない。
たぶん、義務教育を受けた後、終生を農業して茂平で暮らした。
子は4人、すべて女子。

・・・

 

(利三郎じいさん 1864~1945)

 


じいさんを現在の小学入学に当てはめると、

じいさんは、

明治4年・1年生

明治5年・2年生 (←この年学制発足)

明治6年・3年生

明治7年・4年生


しょうじき、じいさんの学歴はまったくわからない。
茂平に寺小屋があったのか?どうかも不明。
親が文字が読めたのと、督促で、少なくとも「下等学校」は卒業していると思われる。

しかし、それも、
何才で入学して、何才で終了したのか? 不明
その学校はいったい、どこに存在したのか? 不明
(今後の調査まち)

・・・・


「教育の歴史」  横須賀薫 河出書房新社 2008年発行

学制の規定
(明治5年から12年まで)では、小学校を上下二等に分け、この二等は男女とも必ず卒業しなければならなかった。 
下等小学校も上等小学校もそれぞれ六カ月ずつの八級に分けられ、
入学の際は八級から始まり、順次一級までの課程を修めて卒業となった。
また下等、上等小学校ともに段階ごとに試験があり合格しなければ、もう一度同じ級に留められることとされていた。

就学の督促
学制発布以来、政府の重点政策は全国各町村に小学校を設立し、すべての学齢児童をここに就学させるということだった。
このため、学区取締りという、就学の督促、小学校の設立、学費の調達など学事の一切を行う機関を設けた。

かなり強力督促を行った。
府県によっては、各種の 規則を設けて督励業務の役割を明らかにした。
巡査に命じ、就学児童の取締りを行ったり、校旗を就学率によって区別するなどの例もみられた。
厳しく就学を督促するだけではなく、県の役人が各学校を巡回し優等生を表彰したり、
学校でも成績優秀者へ賞品を添えた表彰や皆勤賞などの賞状を授与し、就学を奨める手段をとっていた。

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. いつにするかは府県でまちまち

1872(明治5)年に始まった日本の学校制度ですが、
明治の初めは学年の始まりをいつにするかは決まっていませんでした。
いつにするかは府県によってまちまちでした。 
まだ学校に行くということが当たり前になっていないころでしたから、とにかく学校に行かせる (就学率をあげる)ことを急いだのです。 

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学校制度ができる前

2023年12月25日 | 学制150年

江戸時代、幕府は、庶民教育はまったくの放任主義だったが、
維新政府は庶民教育の必要性を高く認識していた。

 

 

・・・

 

明治維新

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

維新頃
維新政府指導者たちの維新政府の直面する重大な課題は、
欧米資本主義列強からの圧力に抗し得る統一国家の建策設にあり、
その精神的基盤をなす国民意識の形成と国家の富強をめざす人的能力の育成は急務であった。
ことに、国民一般の教育すなわち初等教育の普及の必要性は指導者の間で早くから認識されていた。

尊皇攘夷派公家として、新政府の枢要な地位にあった岩倉具視は、慶応2年9月「時務策」において「文武学校ヲ興ス事」を掲げ、
ついで翌3年3月摂「皇道」を明らかにするための大小学校の設置を建策している。

江戸時代から続いた寺子屋・私塾は、大きな勢力をもって維新後もなお存続し、
さらに新しく設けられるものもあり、これらが「学制」後の小学校設置の重要な基盤となったであろうし、
寺子屋とは別にあるいは寺子屋を母体として新しく公共的性格をもって、成立・普及した郷学校や義校等は、
「学制」後の小学校の直接的なあるいは実質的な母体となったのである。

一方、指導者養成の学校である藩校では幕末から維新にかけ多くの諸藩において教育改革を実施したが、
その学校は廃藩置県後は廃止され、県学校や郷学校などに引き継がれた。
こうした藩校は一般に「学制」発布後の中学校以上の直接または間接の母体となったが、
小藩の藩校はその地方の代表的小学校に転換しており、ここにも近代小学校成立の母体をみることができる。
明治5年の「学制」に基づく近代小学校は、以上のような歴史的基盤なしには容易に成立し得なかったであろう。

維新後
維新後、時代の動きを反映し、
政府及び府県・藩の政策に基づいて、郷村における有志の協力によ郷学校の設立が各地に多数設けられるようになった。
明治3年の太政官からの郷学校に関する達など新政府の郷学校設置の方策にしたがって、
府県において郷学校が各地に普及をみた。

 

・・・

「教育の歴史」  横須賀薫 河出書房新社 2008年発行

寺子屋から小学校へ
わが国の小学校は、明治5年(1872)8月の「学制」によって、
すべての国民を対象とする初等教育機関として発足し、今日に至るまで百余年の歴史をもって発展してきている。
しかしこの小学校は「学制」発布によって突如として成立したわけではない。
「学制」発布後、全国に小学校が設置され、国民のすべてが教育を受ける体制を比較的早く整えることのできた基盤・背景には、
江戸時代中期以後、庶民の日常生活と関連をもって発達し、とくに幕末には全国の農山村にまで広く普及した庶民教育機関である寺子屋の存在があった。

さらに維新後、
「学制」が発布される以前において、時代の動きとともに全国的に学校改革の気運が高まり、
中央・府藩県の政策のもとに、全国各地に民衆一般を対象とする郷学校等の初等教育機関が、
寺子屋とは別に、あるいは寺子屋を基盤として企図され、設置されていた実態があった。
「学制」に基づく近代小学校は、こうした歴史的基盤の上に、近世以来の寺子屋や維新期に企図され設置された様々な初等学校を母体として成立したのである。

学校の設立
「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」
(学制序文)
明治5年(1872)9月、明治新政府は現在なら「学校教育法」に相当する規程を「学制」として制定する。
これによって新しい学校を設立すること、全国民に就学を督励する方針が示され、近代的な学校制度が発足する。

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「学校の歴史 第2巻 小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

郷学校の設立 

維新後、時代の動きを反映し、政府及び府県・藩の政策に基づいて、
郷村における有志の協力によって設立・経営された郷学校が各地に多数設けられるようになった。

明治3年12月の太政官からの郷学校に関する達など新政府の郷学校設置の方策にしたがって、
府県において郷 学校が各地に普及をみた。

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ひいひい祖母さんの学歴

2023年12月24日 | 学制150年

由久(ゆく)ばあさんは、管理人の高祖母で
弘化3年9月20日備中国の吉浜村に生まれた。
元治元年に長男を出産しているので、
逆算すると、文久2年頃吉浜村から茂平村に嫁いだと思われる。

母とは亡くなる前の1年間を暮らしているが、新聞を読んでいたそうだ。
(字が読めた)
父は以前、「吉浜村の実家は教育に熱心な家だったので学校にいっとる」と話していた。
(たぶん文字も書けた)
吉浜の実家とは、管理人が小学生の頃までつきあいがあった。

・・・


吉浜村には寺小屋が二校あった↓、
由久ばあさんは、このどちらかに3~4年位通ったのだろう。

「語り継ぐ金浦」 金浦郷土史研究会  2009年発行

明治5年の学校令以前の寺小屋
吉浜村(天保年間~明治元年) 教師=北村九平治・農 男40 女5
               教師=大橋勘衛門・農  (生徒数不明)

・・・

由久ばあさん
(1845~1943)

 

・・・・・・・・


ひいひい祖父さんは、
富次郎。
三男であるが、名は次郎がつく。
天保11年1月14日生まれ。
没年が不明。
妻の由久ばあさんが読み書きできるので、夫もできたものと予想している。

 

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寺小屋の授業

2023年12月23日 | 学制150年

 

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世直し大江戸学 石川英輔 NHKラジオ 2009年10月~12月号


民間まかせの初等教育
さまざまな教科書

現代人の多くは、それほど就学率が高かったのならさだめし教育制度は完備していたのだろうと思うだろうが、
江戸時代の日本には、義務教育の制度どころか庶民のための学校制度や教員免許など、教育に関する法規そのものがなかった。
幕府には、民間教育の部門がなく、江戸の市民行政を担当する町奉行所でさえ、手習いを専門に担当する役人などいなかったから、
誰でもその気になれば寺子屋・手習い塾を開業し、「お師匠様」と最高の敬称で呼ばれる教師になれた。

高等教育にはある程度の予算をつけて学問所を建てた幕府だったが、一般庶民の手習いにはまったく無関心だったといっていいだろう。

教室は、教師の自宅を使うのが普通で、教師の生活空間を昼間だけそのまま教室に転用したのである。
そんないい加減なことで初等教育ができるのかと首をかしげる向きもあるだろうが、それで高い識字率を維持していた以上、子孫のわれわれが余計な心配をする必要はない。弊害がなかった理由は簡単で、自転車もなかった時代の人々は狭い地域社会に住んでいたので、都市でもたちの悪い人間が入り込めばすぐわかったからだ。

寺子屋の教科書のことを「往来物」という。
往来とはもともと「手紙のやり取り」の意味で、
平安時代には手紙の模範文例集の意味になっていた。
鎌倉時代から室町時代になると、手紙文のための単語や短い文章などを集めた教科書のように使われるようになり、江戸時代には、寺子屋 で使う教科書の意味になった。
そして、数えきれないほどたくさんの往来物が刊行された。 
寺子屋の教科書の中でもっとも有名なのが『庭訓往来』だろう。
これは代表的な往来物で、文語の手紙文の模範例になる二五通の手紙を十二ヵ月に配列してある。

現在の学校と寺子屋・手習いの最大の違いは、今の学校が「一斉授業」であるのに対して寺子屋式が「個別授業」だという点だった。
今の教室では、机を教師の方へむけて同じ教科書の同じ所を勉強するのが基本だが、
寺子屋式では一人一人の進み具合に合わせて教えるため、教師は原則として生徒と一対一で向き合う。
だから、生徒は机を好きな方向へ向けておくのが普通だった。
寺子屋には制服のたぐいはない。
服装は親の好みや経済力にしたがって決めることであり、師匠が口出しするべきことではなかったからだ。
寺子屋や手習いは、男子だけ、あるいは女子だけの塾が普通だったようだが、男女共学がなかったわけではない。
夫婦で師匠をしていて、夫が男子、妻が女子を教える場合もあった。
お上の決めた決まりはないので、それぞれの地域に合ったやり方で教えていたのである。
寺子屋教育の基本は読み書きだが、勉強が進むと漢文の初歩を習う場合もあった。

 

・・・


「鴨方町史」

江戸幕府の文教政策と町人階級の台頭・農村の商業化に伴い、江戸中期以降庶民の間に読み・書きを主とする学問への要求が高まり、特に幕末期にかけて寺子屋は増加の一途をたどった。
町内にも多くの寺子屋の出現をみた。
寺子屋の実態を鴨方町にあった梅林舎を例にとってみると、次のようであった。

師匠坂本氏(斉・復二父子)は神職で、社務の余暇に教授した。
学科は習字と読書であった。
弘化・嘉永ごろ(一八四四~五四)より習学科を始め、読書科を漸次教授するにいたった。
習字科は正・草二体仮名より漸次教え、習字本はいろは・数字・通用金銭・名数・包物送遺・人名・村名・郡名・国名・商売往来・諸職往来・消息往来・風光往来・
書状文・庭訓往来であった。
読書科は三字経・孝経より漸次教えた。
読書は三字経・孝経・小学・四書・五経・諸詩集で、
女子は、女用文章・女小学女大学・そのほか各自随意であった。

授業時間は、朝の七つ (午前八時)より晩の七つ (午後四時)までの八時間で、その間に昼食時間を休んだ。
修業年限は数年が一般的であったが、梅林舎の例では、九年六年五年となっていた。
束修(入門料)・謝儀(授業料)などは入用であった。
授業料は、師匠より一定の額を定めないですべて父兄の意志に任せた。
五節句・中元・歳暮などに 贈り物がなされた。

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

江戸時代の筆記用具はどんなもの?

A. 筆記用具は筆と和紙

江戸時代に一般に使われていた筆記用具は筆です。 
寺子屋での学習の中心は習字で、使われていたのは墨と毛筆と紙(和紙)でした。
字を双紙(半紙を何枚も束ねて冊子にしたもの)に書きました。 
紙は貴重品でしたから、同じ紙に何度も重ね書きしたり、墨のかわりに水を使い、乾かしてはまた使ったりしました。

江戸時代の携帯用の筆記用具は 「矢立」 でした。
矢立は硯と筆を1つの容器におさめたもので、
硯の水(墨)がこぼれないよう、もぐさという草などにしみこませてありました。


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寺子屋

2023年12月23日 | 学制150年

 

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

寺子屋

江戸時代は武家が社会を支配した時代であったが、商工業の発達、貨幣経済の発展とともに町人の力が抬頭し、その生活に文字の読み書きや計算が必要になると、やがて庶民の間に自然発生的に教育機関が設けられていった。
これが寺子屋である。
石川謙がその著『寺子屋』の冒頭で「寺子屋とは近世になって生れた初等教育のための私立学校である」と言っている。 

寺子屋は江戸時代の中期から次第に発達し、幕末・明治初年にかけて全国的に激増した。
そこで授けられた教育内容は庶民の日常生活に必要な読み・書き・そろばんの初歩であった。 
寺子屋における日々の学習は「手習い」を中心として、それに読み物が加えられた。
幕末以後にはそろばんを合わせ授ける寺子屋も多くなった。
このように寺子屋は読書・算の三教科を授ける初等学校であり、 
明治初期の小学校に近づいているといえる。

また寺子屋は幕府や藩によって設立されたものでなく、それらの統制・干渉・援助等を受けることもなく、庶民が日々の生活や生産を営んでいく必要から、
庶民自らが民間の教育施設として、自由に設立・経営した学校であった。
なお幕末から維新にかけて寺子屋と同種の私塾が多数存在し、また寺子屋が私塾と呼ばれることも多かった。
寺子屋・私塾は、庶民生活の要求を反映して発達し、幕末には江戸や大阪などの町々はもちろん、全国の農山漁村にまで広く普及した。
それらの一部は、維新後府藩県の教育政策の下に小学校や郷学校等の設立に際して、それに切り換えられたり吸収されたりして新しい学校の母体となったものもあった。
しかし、多くは維新後も存続し、また維新後新しく開設されたものもあり、庶民の初等教育機関として、「学制」発布以前に重要な役割を果たし、
「学制」に基づく小学校の重要な母体となったのである。

・・・


・・・

世直し大江戸学 石川英輔 NHKラジオ 2009年10月~12月号

高い就学率
寺子屋は人間サイズの教育
江戸時代後期の日本では、庶民の就学率、識字率ともに世界一の水準に達していた。
すべて欧米が進んでいたはずだと信じている人が多いが、イギリスの最盛期、十九世紀中頃の ビクトリア時代でもロンドンの下層階級の識字率は10パーセント程度だった。
また、大革命のときのフランスでは、1793年に初等教育を義務化し、翌年にはさらに無料化したが、10歳から16歳までの子供の就学率は1.4パーセントだった。
かけ声だけだったといっていい。
1800年のフランスで、婚姻届に署名できた人の比率は37パーセントだったそうだが、これはあくまでも自分の名前を書けたというだけで、
文章を読み書きできる能力があったかどうかはわからない。
また、ロシアでは二十世紀に入った1910年代でさえ、モスクワでの識字率が 20パーセント程度だったというから驚く。

これに対して文化年間(1804~18)の江戸府内では、当時「手習い」と呼んでいた初等教育のための私塾が大小合わせて1500ぐらいあり、子供が読み書きを習うのは当たり前になっていた。
一般に「寺子屋」と呼んでいた私塾の数は、文部省の『全国教育史資料』によると、幕末・明治初年には全国で15.882ヵ所あったそうだ。

自由放任の封建社会では、面倒な手続きは必要ないし、大した経費もかけずに教師のポケットマネーで学校を始められたから、三点セットを揃えた学校がいつの間にか日本中に雑草のように根づいていったのである。
まず教師だが、教師になるための専門教育も免許もないから、人並みか人並み以上の文字が書けて、子供に教える意欲があれば身分や職業に関係なく誰でもなれた。
それでも、水準の低い教師には生徒が寄りつかないから、大した害はなかったようだ。
教科書も、江戸時代後期にはさまざまな寺子屋用教科書が刊行されていたから、それを買えば済む。
後で説明するように、生徒の人数分だけ揃えるのではないから、大した冊数はいらない。 
何度もいうように、教科書の一字一句にまで目を光らせる民主政府と違って、封建的な徳川幕府は初等教育を民間まかせで放任していたから、何を教科書にしてもかまわなかった。


・・・
「江戸の子育て読本」  小泉吉永  小学館 2007年発行

全国に五万校以上あった寺子屋

江戸時代、庶民は一般に寺子屋(手習塾・手習所)に入門して読み・書き・算盤を学んだ。 
江戸時代の寺子屋の数は手習師匠を称えた石碑や墓(筆子塚)などの研究で、文献に記されていない寺子屋が多数存在したことが明らかとなり、これらを踏まえると、寺子屋は全国に五万校以上あったという推計もある。
現在の小学校が およそ二万三〇〇〇校だから、人口比率から考えても、全国各地にきわめて多くの寺子屋が存在したことがわかる。

江戸時代後期になると、寺子屋での教育のニーズが急速に高まった。
学校制度のない当時は、多少読み書きができれば、誰でも自由に寺子屋ができたため、
なかには師匠らしからぬ手習師匠も現われた。

・・・

「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

裁縫塾やけいこごとと同じように、需要に応じて発達してきた教育機関に寺子屋がある。
『日本教育史資料』をもとにした石川松太郎の試算によると、13.816に及ぶ寺子屋のうち、女児の就学していた寺子屋は、62.5%に達し、男子100対する女子の就学率は、ほぼ25%に及んでいる。
東京や京都・大阪などの大都市では、ほとんどの寺子屋が男女共学で、しかも、女子の就学率が男子に匹敵している。
こうした状況をふまえると、男子に読み書きを教えていた寺子屋に、女子も進学するようになり、とくに大都市では、女子用教材も伝達する女師匠の経営する女子向けの寺子屋が発達してきたと考えられよう。

・・・

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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
寺子屋
寺子屋は、庶民の子弟を対象に僧武士などが先生となり、文字の読み・書き・そろばんを教えた教育機関である。
江戸時代に普及したが、古いものは室町時代後期まで遡るといわれ、 
寺院での師弟教育から始まったことから「寺子屋」の名称がついたと考えられている。
寺子屋で子どもたちは「お手本」をもとに、練習帳の「草紙」が真っ黒になるまで何度も書き、文字を覚えていった。
子どもたちが使用した教科書を「往来物」と呼び、手習いの手本と して使用されていた。
往来とは、もともと往復一対の手紙をいくつも収録して編集した教科書のことで、
十一世紀後半から十九 世紀後半までに七千種もつくられた。 
その種類は多種多様で社会・歴史・雑学・産業や専門分野女子用のものもあった。

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江戸時代の子ども

2023年12月23日 | 学制150年

出産時・間引き・疫病等、
赤ちゃんが二歳まで生きるのも、なかなかたいへんだった。


・・・

「江戸の子育て読本」  小泉吉永  小学館 2007年発行


菜っ葉のように子を堕ろす

ルイス・フロイスは堕胎が日常化しているしていることに仰天した。
「日本の女性は、育てられないと思うと、嬰児の首に足をのせ、すべて殺してしまう」と述べた。

・・・

 「子宝」を人為的に抹消する「間引き」には、子どもの生命を尊重する観念はまったくない。
たしかに経済的な理由による間引きも多かったが、しばしば親の身勝手(体面保持や性的欲求など)のために子殺しが行なわれ、 
なおかつ、残忍な手口で行なわれることもあり、「子宝」思想とは相容れないものであった。
間引きを「お返しする」「お戻しする」と表現したように、たとえ「授かりもの」でも一定期間なら、育児を放棄し授かった生命を神に返しても何ら問題はないと考えた。
それは「孝」によっても正当化された。
いずれにしても、一度「お返し」しても、子どもの生命は再生可能と考えた。
言うまでもなく子どもの人格や生存権など皆無の世界である。
今いる家族が生きていくために、または子どもの誕生が不都合な場合に、しばしば罪の意識もなく間引きが行なわれた。 
そして、男児なら「山に遊びにやった」、女児なら「野に草摘みにやった」という隠語で周囲の了解が得られるほどに常態化していた。
仮に間引きした子を憐れみ悲しむ親がいても、周囲は「また産めばよい」と慰めたであろう。 
また、「預かりもの」という観念には「本来自分のものではない」という意識が含まれており、その考え方が親の養育義務の放棄につながった可能性もある。 

芭蕉は、旅の途中に出会った捨て子を見て、これはまったく運命であり、その不運を泣けとつぶやいて立ち去ったというが、
捨て子や間引きにはこのような「運命」「天命」への責任転嫁がなされたのであろう。
実際に、乳幼児の死亡率はきわめて高く、普通に育ててもつぎつぎに死んでいった。
成人まで丈夫に育つという保証はまったくなく、むしろ、育たない確率のほうが高かった。
このように多産多死の状況で、間引きや堕胎の罪悪感は希薄になった。

 

将軍の子でも七割が二歳未満で死亡

「子だくさん」で知られる11代将軍徳川家斉は、正室と側女40人との間に55人の子をもうけた。
だが、40歳以上まで生きたのはわずかに7人(約13%)にすぎなかった。
ちなみに15歳を超えたのは21人と半分に満たず、じつに69%が二歳未満で死亡しており、
御典医による最高の医療でも、乳幼児の7割を救うことができなかったという。

・・・

出産は「あの世とこの世の境」といわれ、
母子ともに命がけだった。
だから、死産でも妊婦が無事なら「安産」といった。
周囲の心配も大きく、神仏への祈願も一入だった。

・・・

若者組


「若者組」は、おおむね一五歳以上の、 成年式を終えた青年が加入する組織で、加入の際には保証人となった先輩・知人に付き添われて「若者宿」などの集会所へ行き、リーダーや先輩から掟を聞かされたうえで杯を交わし、正式な加入が認められた。
新米のうちは雑用や使い走りをさせられ、さらに先輩から徹底したしつけや教育を受けることで、子供心をぬぐい去っ 自立した大人へと成長していった。
若者組は、地域における祭礼・芸能、消防・警備・災害救援、性教育・婚礼関係 などに深くかかわり、その責任も裁量も大きなものだった。
いったん若者組に加入すれば内部事情はいっさい口外しない決まりで、周囲の大人たちも口出しすることはなかった。
このように、江戸時代の子どもたちは、大人の仲間入りをするまでのあいだ、さまざまな人々との重層的な関係や集団のなかで育てられたのであり、
そこには、大勢の人間が深くかかわって一人の子どもを育て上げていく、網の目のような教育システムがあったのである。


・・・
女子教育

貝原益軒は『和俗童子訓』で、女子教育の内容について、つぎの指摘をしている。

▼7歳から仮名と漢字を習わせる。
古歌を多く読ませて風雅の道を教える。
▼名数などの単語を多く読み覚えさせた後に、『孝経』首章、『論語』学而篇、曹大家の『女誡』などを読ませる。
▼10歳になったら外に出さず、家の中で「織り縫い」「積み紡ぎ」の技術を教える。
▼女子に読ませる草紙も吟味する。
『伊勢物語』『源氏物語』は言葉は風雅だが、みだらな風俗が書かれているため、早く見せてはいけない。
▼女子にも物を正しく書くことや算数を習わせよ。 
物書きと計算ができなけれ ば、家内の記録や家計のやりくりができない。

このように益軒は、
読み・書き・算盤の初歩教育を男女同様に行なうとした点は画期的だったが、
女子教育を基本的に家庭内に限るなどの限界もあった。

 

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12/8 学童

2023年12月07日 | 学制150年

 

・・・

「尋常小学校ものがたり」 竹内途夫 福武書店 1991年発行


一石二鳥の馬糞ひろい

毎週木曜日の登優時、道路に散乱する牛の糞を、部落ごとに拾い集めて登収する行事であった。
この作業は道をきれいにすることと、ほった馬薫や牛葉を、学校の実習や野菜園に肥料として利用することの、一石二鳥のねらいがあった。
トラックはめったに見かけなくて、 もっぱら牛の力による荷車に頼ったから、道路にはいつもその糞が散乱し、蠅が群がって悪臭を放っていた。
この糞は、道路沿いの田畑の持ち主が、自分の田畑に取り込むのであるが、朝早ければ葉は無事で、村中の道から拾い集められた糞は、学校の堆肥舎に山をなした。
不況に喘ぐ村では、道端の馬ひとかけらも無駄にしなかったから、今日は子供が馬を拾う日だと気づくと、わざわざ早起きして糞を掻き集める始末屋もいた。
またこの反対に、子供のためにわざわざ二、三日も前から掻き集めた糞を道端に置いておく奇特家もいた。
こういうことは、今の常識からすれば理解できないかもしれないが、当時ではこれが当然だった。
たとえば、部落ごとにある公会堂や役場、お宮などの公共設備の便所の読み取りは、ただで奉仕することはできなかった。
希望者が多く競争になっ た。
早い者勝ちでは不公平であるから、入札制をとるのが普通だった。
度々の入札は煩わしいので、年の初めにその年一年間の汲み取りを入札で決めていた。
このひろいの作業は、原則として子供の登校する道路に限られていたが、量が少ない時は他の道順を選ぶこともあった。

 

奉安殿

運動場の東側に隣接した水田を埋めたてた敷地に、建坪三坪ぐらいの鉄筋コンクリート造りで建てられ、その頃では珍しかった手動式の鉄のレャッターがついたモダンなものだっ た。
この奉安殿は村の酒造家が、千円という大金を投じて建立寄贈したものと聞かされていた。
正方形の敷地は、周囲に土塁を巡らし、土塁の上には榊に 似た木の生垣が設けてあった。
内庭には石英の白砂が一面に敷き詰められ、植え込みの黒松の翠がこれに映えて、運動場の賑わいをよそに、森厳幽寂とまではいかなくても、いかに神々しい別世界を作っていた。
ふだんはこの聖域に立ち入ることはできなかった。
月に二、三回、高学年の女の子が身を清め心を正して清掃に奉仕したが、作業はすべて厳冬を除いて素足で行なわれ、無駄口を聞くことはできなかった。 
なぜ女の子だけが当番になったのか。たぶん神に仕える神子の例に倣ったものであろう。

 

非常時日本の教育
国のため、大君のため

昭和六年九月に満州事変が勃発してからは、学校教育も、それまでの国家主義的傾向がますます強まって忠君愛国の軍国主義教育がより鮮明になってきた。
満州事変が関東軍の画策した陰謀だったことを知ったのは、ずっと先の戦後のことであるが、当時の一般の者がそんな軍のからくりを知ろうはずもなく。
校長以下全教師全児童が支那軍の暴虐を憎み、断固膺懲の鉄槌を下すべしと力んだ。
暑ければ、炎熱地を焦がす満州の将兵の苦闘を偲んで耐え、寒ければ酷寒零下三十度の満州の広野に戦う兵士の辛苦思って耐え抜いた子供たちであった。
天皇や国家に対する意識の高揚も、この事変を機にますます盛んになった。
何事につけても国のため、大君の御ためが罷り通った。
学校の諸行事に日の丸と君が代はつきものだったが、
これに皇居の遥拝と、皇軍将兵に感謝の黙疇が加わり、最後は必ず「大日本帝国万歳」が三唱された。

・・・

 

「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


国民学校

昭和十六年「国民学校令」が公布され、明治以来広く市民に親しまれてきた小学校の名称が 「国民学校」に改められた。
国民学校令の第一条に「国民学校 は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」とあり、
この目的に向かって教育内容も大きく変革していっ た。
国民学校は初等科六年、高等科二年とし、その上に一年の特修科を認めた。
初等科の教科は国民科、理数科、体鍊科及び芸能科で改められたが、高等科はこれに実業科が加わった。
「国民学校の教育理念に基づき授業内容も大きく改められたが、従来の修身の授業内容に「礼法」を加え、国語には従来の「読方」「綴り方」 「書方」のほか「話方」が加わった。
国民学校の教科書は、低学年向けには色刷りの絵が多くみられた。
教育上の苦心がみられるが、内容は当時の社会情勢や思想を反映し国家主義的色彩が濃かった。
また軍関係からの要求もあり、軍事的傾向も強く現れている。


児童の名誉標章 
戦争に向かって
昭和十三年、国防目的のために国の全力を発揮できるよう人的、物的資源を統制し運用するという「国家総動員法」が発布され、
翌年には「青少年学徒二賜ハリタル 「勅語」を下賜、この年発行の東京市錦華尋常小学校の校報には「名誉標章に就いて」と題し次のように記載 されている。
「昭和十四年元旦を機して今事変出動軍人の児童たちに名誉標章を配布して胸間に佩びさせることにした。
円形の青地に輝く日章旗を描いた。 
この名誉標章を制定した趣旨は、出動軍人の子弟であることが一見してわかるようにするためである。
 (中 略)これをつけている児童は学校においては模範の児童となり、
家庭においては孝子、近隣の手本となって流石皇軍勇士の家庭に育つだけあって見上げたものだと賞賛されるようにとの念願からである」
そして、昭和十五年の紀元二千六百年を契機に一段と戦時体制が強まった。


終戦

小学六年生の時に終戦を迎えたがそれ以前は教室に入るにしても、 
「何年何組、何のだれそれが何々先生に用事があって参りました」 と入り口で名乗って入らなければ ならない。
軍隊と同じ様な教育は訓練そのもので、また登校時は班長を先頭に二列縦隊になって校門をくぐり、奉安殿に向かって整列最敬礼してから教室に入った。
何かにつけ厳しい教育体制化の中にあって、校則に反するようなことは当たり前だがひとつもできない気風だった。
冬の体育の時間には、裸足で雪の上を走らせられ、アメリカ軍のB29爆撃機を模した絵を板に描き、離れたところからB2に向かって雪玉を投げ、当たるまで何回も雪玉を握っては投げた記憶がある。 
昭和二十年八月十五日、天皇陛下の「終戦の詔書」の玉音放送は正午だった。
私は家にあったラジオを家の前の道路に出し陛下の玉音を待った。 
放送の内客は子どもには理解できなかったが、戦争が終わったと母が話をしていたのを覚えている。
当時は雑貨であった家業も商品不足のため、少しだけあった財産を売っての暮らしが始まった。
その日から数日後、学校へ登校すると勉強道具をすべて持って体操場に集合するよう言われた。
すべて持って行くと板の間に正座させられ、カバンの中の本やノートをすべて出すよう指示があり、戦争や軍に関係する絵や文字を硯ですった墨で消すように命令された。 
何が何だか分からないが、生徒全員が黙々と作業していた。
いわゆ墨塗り本で、墨で手が真っ黒になって作業していたのを思い出す。
戦争に負けたことはなんなのかも分からず、先生からは全く説明された覚えもない、子ども時代の記憶に残っているシーンである。 
軍国主義一辺倒の社会と教室の空気は敗戦後は日毎に民主主義へと変化していった。

 

・・・

「美星町史」
学童の生活

小学校では、敵国の肖像画を書いて、長針を突き刺し「打ちてし止まん」と朱書きしたポスター等を
教室や廊下にはり付け、校門の入り口にわら人形をしつらえて竹槍をそなえ、気合をかけて刺殺したりして敵愾心を養い、
又、朝礼の時、「海ゆかば・・」の短歌を朗読し、必勝の祈りをして教室に入った。
戦争末期になると、青年学校男生徒は次々に戦地にかりたてられ

昭和20年2月、女性徒は軍需工場に徴用され飛行機の部品を作るところで3ヶ月間働いた。
工場では早朝から機械に取りくみ、夜は午後10時に工場長が廻ってこられ「ご苦労様」おわれて終わりのベルとともに機械が止まった。
夜具も極端に粗末で、裏表の判らないセンベイぶとんで12時ごろ、床に入れば、空襲警報の発令で防空頭巾をかぶり、
服装を整えてそのまま夜を明かしたことも度々であった。

・・・

 

 

 

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敬業館

2023年12月06日 | 学制150年

笠岡村に”寺子屋”は、推測だが5~10程度あったと思われる。
笠岡は寺の町だったので、文字通りの”寺子屋”も多かっただろう。

名代官として知られた早川八郎左衛門正紀の時代に、「敬業館」ができた。
四書五経など教える郷学だったので、現在に言うと中等教育(中学・高校)の一段高い学校だった。

 

・・・・・
「岡山県教育史上巻」 

久世條教刊行 

代官は躬行実践を以て身を律し、屡々部民の啓蒙に奔命し、更に其の趣旨を徹底せしめんが爲、條を纏めて月毎に部民に諭した。 
これが『久世條教』である。
『久世條教』は早川代官の管下たる美作久世に流布したのみならず、常陸の代官岡田寒泉によつて刊行、其の管下七郡百八十二個村にまで頒布せられ、
此種著書の権威としてとして重きをなしたものである。

・・・

笠岡敬業館

笠岡住民の感激

久世代官早川正紀は、天明八年七月二十一日備中笠岡の陣屋をも支配することなり、其の教化的活動は久世同様に熱烈であった。
幕府は久世典学館の成績に鑑み早川代官を褒章し、支配所高二万石を加増した。
笠岡住民を感激せしめ、同年八月有志26名をして学問振興のため学館建設方を請願し、遂に笠岡八幡平に敬業館の完成を見るに至った。

・・・

(笠岡市笠岡「敬業館」跡 2017.12.28)

 

・・・

 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

『久世条教』を忘れるな

「どんなに貧しい家庭でも、母の乳房が二つあれば二人の子どもは養える。
子を殺すことは言語道断の悪事である」(『久世条教』)
奔走した一人の代官がいた。 
それが、江戸後期の名代官として知られる早川八郎左衛門正紀である。
彼が天明七年(1787)に美作(現、岡山県東北部)に赴任して間もなく村々の実情を見て回ったところ、
村人は三人目からは間引きをし、貧困者にいたっては 一人残さず間引きをしていた。
そこで天明九年に「赤子間引きの制札」を村々へ出 し、三人目から銭五○貫文の養育費を支給するとともに、
目付役による間引き監視 や連帯責任による処罰を行なうことを伝えた。


いっぽう、当時荒廃していた地域を復興させるため、寛政七年 作国久世に日本最初の教諭所「典学館」、
寛政一〇年笠岡に「敬業館」を設立して庶民教化に努め、さらに『久世条教』という啓蒙書を出版した。
本書には、堕胎・間引きを戒めた「洗子 を禁ず」の一条を加えて育児を奨励し、
農民を集めて月三回教論を行ない、正紀自身も春・秋二回に地域を巡回して民衆に説論した。


*早川正紀、江戸中・ 後期の幕臣。通称、八郎左衛門。 
関東の河 川工事を行ない、出羽・美作・備中・武蔵 国の代官として活躍した。 

・・・


「井原・笠岡・浅口の歴史」 郷土出版社 太田健一 2009年発行

敬業館

江戸時代後期、武士や庶民の間に学問への欲求が高まった。
支配階層である藩士の教育を目的とする藩校が設立される一方、庶民が学ぶ郷学も登場した。
笠岡に作られた敬業館も庶民の学問への高い志によって造られた郷学である。
寛政九年(1797)、笠岡代官所石橋屋久右衛門他二十五名の連署で学館設立の請願書が出された。 
その内容は「在町之老若」に時々教諭の機会を設け、志ある者には家業の間に素読などを学ぶことができるようにというもので、
まさに庶民のための学校作りが目的であった。
建設費は学館建設を請願した人々の中の富裕層を中心に、銀二十貫目と三十両が集められた。
また運営費は建設費の余ったお金を貸し付けて、その利子を運営費に充てるとした。

笠岡村八幡平に教堂ほか三棟、約四 十坪の建物・敷地を持った敬業館が開設、翌年には町内有志から漢籍も寄附され、敷地も村有となるなど態勢が整い、教育の場が開かれた。
敬業館を語るうえで欠かせない人物が二人いる。
一人は当時の笠岡代官早川正紀である。
早川は天明七年(1787)久世の代官として久世村 (真庭市)に赴任、翌年には笠岡の代官も兼務となった。 
早川が久世に郷学典学館を設立したことを知った笠岡の領民は、笠岡にも学館をと代官所に請願を行った。
早川代官はこれを許可し、敬業館と名付けたという
もう一人は初代教授の小寺清先 (1748~1827)であ る。
笠岡の祠官であった清先は、早川に敬業館の初代教授に迎えられ、 四書五経を中心に講義を行った。
郷学の教授として長年庶民の教育に当たるとともに、笠岡の文化の向上に努めた清先は文政十年(1827)に死去、三男の廉之が二代目教授を継いだ。
さらに嘉永元年(1848)廉之の死去後その子完之が跡を継ぐものの、
慶応三年学館の維持が困難となり郷学としての敬業館は閉校、五十有余年の公教育の場は幕を閉じた。
しかし明治五年(1872)敬業校と名付けられた学校は、明治十年に改称して現在の市立笠岡小学校となり今に至っている。

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