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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和18年、国民学校の卒業旅行

2021年03月18日 | 昭和16年~19年
義母は国民学校を昭和18円3月に卒業した。
当時は修学旅行でなく、卒業前に行くので”卒業旅行”と呼ばれた(と思う)。


義母は岡山県後月郡(しつきぐん)芳井町の芳井国民学校の生徒だった。
6年生は昭和17年4月~昭和18年3月、
戦争の真っ只中。
果たして卒業旅行はあったのだろうか?
あるとすれば日帰りか?
行先はどこだろう?
尾道?岡山?







義母の話・2021.3.14

他の学校では、行かない、やめた、という話はよく聞いていた。
うちの学校では校長先生が旅行について熱心で伊勢神宮に行った。一泊した。

(五十鈴)川の水が冷たかったことだけをよく覚えている。

学校には夜に帰ってきた。

(義母は分校の出身で)
友達のお兄さんが学校まで迎えに来ていた。
それで3人一緒に村まで帰った。
村の入り口に、自分の親と友達の親が迎えに来ていた。
そこからは賑やかに家まで帰ったが、着いたのは深夜だった。


旅行に参加したのは1/3くらい。
うちは親が、学校行事は無理をしてでも不自由のないようにしてくれていた。




昭和18年の卒業旅行が伊勢神宮とは驚いた。
義母本人が驚いていた。
それにしても参加率1/3程度でよく卒業旅行が成立したものだ。今なら大問題だ。







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学年全員が予科練受験=矢掛中学

2021年01月23日 | 昭和16年~19年
学年全員が予科練受験=矢掛中学


旧制矢掛中学といえば明治32年、岡山県下の公立として
岡山・津山・高梁に次いで4番目に設立された伝統校。

この名門校はとんでもない記録をもっている。
それは学年全員が予科練受験したこと。
戦時のど真ん中とはいえ極端なできごとだ。


この件(強制受験)に関する資料がみつかれば、追記したい。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





「矢掛町史」  矢掛町 昭和57年発行


中学生以上では、海軍兵学校、陸軍幼年学校・士官学校などに優等生の志望が増え
海軍甲種飛行予科練生などの志望には半強制的な指導が学年全員になされた時や所もでた。
兵士になる年齢に達しないあるいは志望しない生徒は、勤労動員で武器生産工場で働いた。
矢掛中の場合、敗戦の前年には5年生は水島航空機製作所、4年生は相生造船所、3年生は水島航空機製作所で栄養失調と病気と闘いながら勤労奉仕をした。
1.2年生は開墾・田植え・稲刈り・麦播・麦刈りなどで食糧増産に励んだ。
学年の進級には配属将校の発言力が増し、上級学校進学の内申書には、学業に代わって勤労成績が大きなウェートを占めるようになった。
敗戦の年(1945年)には1年繰り上げ卒業、4年生.5年生は同時卒業式という非常事態となり、雨天体操場(体育館)は学校工場となり、地下壕を掘り、すべてを本土決戦に備えた。

このように学校教育は全く破壊され、家庭から父を、職場や地域から青壮年を戦場へ送り出した後の家庭
社会教育もまた破壊されたといえよう。
児童・生徒・学生は、ことごとく無謀な戦争遂行のための手段とされてしまったのである。

その人的物的被害は、各種の職業軍人学校の志望状況からもわかるように、権力を持つ者よりも待たない弱い者、中央よりも地方、大・中都市よりも農・山・漁村、富豪よりも小市民、
要領のよいずる賢い者よりも生真面目で純粋な者の身の上に、戦争の経過に正比例して、大きくのしかかっていったのは、痛恨の史実であった。





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(下記は当ブログの2021.1.9をコピーしたもの)


軍国時代の教育(岡山県教育史)


昭和10年代になると、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校、海軍経理学校などを志願する中学生がしだいに増加した。
管費で陸海軍将校になれる学校は、学資にめぐまれない優秀な中学生には大きな魅力でもあった。
12年9月から海軍甲種飛行予科練習生制度が設けられ、中等学校4年修了者を入隊させ、多数の中堅幹部を養成することとなった。
太平洋戦争の拡大により、ますます航空戦力が必要となり、海軍の勧誘もいよいよ急となり、学校にその出願者の割り当てまでする状況となった。
18年8月1日から行われた甲種飛行予科練習生徴募試験において、願書は2.312通であった。
その内訳は

矢掛中 251
勝山中 120
岡山一商 114
岡山市商 104
吉備商 98
津山商 90
津山中 82
興譲館中 79
高梁中 76
天城中 70
岡山二中 69
金光中 68
興譲館商 63
閑谷中 54
笠岡商 51
(50名以下は略)





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焼夷弾

2021年01月20日 | 昭和16年~19年


「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行


焼夷弾

1944年7月サイパン島失陥によって日本本土は、B29爆撃機の行動範囲に入った。
11月1日から東京上空に姿を見せていたB29は25日、85機の編隊で襲来、中島飛行機武蔵製作所を爆撃した。
B29による本格的空襲の始まりだった。

東京は約100回、
中でも1945年3月10日は史上最多の被害者を記録した。
死者・行方不明者10万人以上と推定される。
政府は防空法で、国民に消火活動を義務づけていた。これを守って多数の人が逃げ遅れた。
1945年3月からルメイ司令官に着任すると、低空飛行で焼夷弾を使い、広範囲の市街地を焼失さす方針に変更した。
地上からの攻撃を少しでも避けるため、出撃も夜間にした。


6月15日までに目標とされた6大都市の工業地域は焼き払われ、それ以降は地方の中小都市に移った。
北海道はマリアナ諸島を飛び立つB29の航続圏外だったことから空母艦載機が攻撃した。


「空戦規則」に違反
1923年空戦規則が作られた。一般市民への空襲を禁止していた。
日本政府はスペイン駐在公使を通じて米政府に国際法違反であると抗議し、見解を求めた。
米側は黙殺し、日本への大規模爆撃を継続した。
日本の主張には、重慶などへの無差別攻撃は正当化しつつ、自らの被害を抗議するという矛盾があった。



・・・・・・


※B29

1943年に量産開始。
2200馬力の新型エンジン4基を搭載。
高い高度でも酸素マスクが不要。
時速587km。
航続距離5300~7300km。
爆弾搭載量9000㎏


※油脂焼夷弾

攻撃目標を燃やすことが目的の爆弾。
M69は、
木造の日本家屋を焼く払うため、瓦屋根を突き通して家屋内にも到達するように開発された。
直径8cm、全長50cmの6角柱形。
19発*2段=38発を束ねてある、クラスター爆弾。
地上約700mでばらまかれた。

開発は、米国ユタ州で日本家屋の町並を再現して実験した。



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「戦病死」

2021年01月19日 | 昭和16年~19年
戦病死とは何か---戦場と餓死




(小さな絵本美術館 ミネルヴァ書房 2005年発行)

「日本の歴史 15巻」 大門正克著 小学館 2009年発行 



戦病死とはなんなのか。
戦病死とは食糧不足による栄養失調とマラリア、脚気などの病気、行軍による心身消耗が重なって餓死することである。

みずからも中隊長として中国戦線に参加した体験を持ち、戦後の軍事史研究の第一人者であった藤原彰は、晩年に、
日本の軍人・軍属の戦没者230万人のうち約6割が餓死だったとする研究を明らかにした。

藤原は、1942年のガダルカナル島の戦いからポート・モレスビー攻略戦、ニューギニアの戦い、44年のインパール作戦、メレヨン島など孤島への置き去り部隊、
フィリピン戦、中国戦線を詳細に検証し、大量餓死をもたらした要因について解明している。

無謀な作戦計画、情報の軽視、兵站地誌の調査不足、作戦参謀の独善、補給や兵士の人命の軽視、現地自活主義の破綻、降伏の禁止と玉砕の強制など、
日本軍隊の体質が大量の餓死につながったと説明する。


ニューギニアで戦病死が多かった理由を整理すると以下の三つになる。

一つ
大本営はニューギニアの地誌について知識をもたず机上の計画と作戦をたてた。
ニューギニアは日本の三倍もある巨大な島である。
全島が熱帯の密林、大河と湿地が多い、集落は海岸線に点在するだけ。中央に5.000mの山脈が連なる。

二つ
補給がきわめて軽視された。
自活の条件を欠く地域で、兵士たちは事実上放置された。

三つ
降伏の禁止と玉砕の強制
日本軍は兵士が降伏して捕虜になることを厳しく戒めた。
捕虜になるくらいなら死ねと、自決の方法まで教育された。
軍規の退廃現象がひろがり、放火や略奪、暴行などが多発した。


行軍と飢餓と病で極限状態になって、大量の餓死者が出現したのである。


生存率
師団長をはじめ師団司令部に属した人々は2/3が生きて帰れた。
それ以外は生存率が3割にとどまった。
階級によって大きな格差があったのである。





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昭和戦後史

2021年01月15日 | 昭和16年~19年

(玉音放送「戦後50年」山陽新聞社発行)



「昭和戦後史・上」  古川隆久著 講談社2006年発行


圧倒的な国力さ

日本政府や軍部は、開戦前から日本の工業生産力はアメリカの1/7~8にすぎないことを知っていた。
だが、アメリカ人の多くはアジアに関心がないこと、
アメリカの国民性は享楽的であるという判断から、
アメリアkが本気で日本と戦うとは考えていなかったようだ。
ところが、開戦の際、ワシントンにある日本大使館のミスで真珠湾攻撃の前に開戦通告が米国に届かなかった。
日本はだまし討ちをしたとして、米国民は敵愾心が一気に高まった。
「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、アメリカは本気で日本と戦うことになってのである。
アメリアはイギリスや中国など連合国側に軍事援助をおこなっていたが、強大な工業力ゆえに日本とも十分に戦う力を持っていた。
軍艦、空母、飛行機、洗車、銃器がすさまじい勢いで大量生産され、十分な訓練と栄養、休養を与えられた元気いっぱいの米兵とともに前線に送り出された。




最高権力者マッカーサー

マッカーサーには事実上、絶大な権限があった。
彼は日本の最高権力者になってのである。

マッカーサーは占領軍の威信を示すために、絶対君主のようにふるまった、
日本の一般の人々の前に姿をあらわすのは、第一生命ビルの正面玄関で、
住まいとした米大使館と第一生命のあいだを送迎する車の乗り降りをするときだけ。
首相などごく一部の政府首脳以外の日本人には会わず、二度以上会見した日本人は、
昭和天皇と、占領期に長く首相をつとめることになる吉田茂くらいだったといわれる。

それまでは、毎年元旦の新聞の一面は、天皇あるいは皇后の写真で飾られてきたが、
昭和21年元旦の、いわゆる人間宣言の記事と肖像写真を最後に、
マッカーサーが連合国軍総司令官を解任される26年まで、元旦の新聞第一面には、
毎年、マッカーサーの肖像写真と年頭メッセージが掲載された。

視覚的にも、マッカーサーが最高権力者であることが示されたのである。




天皇の人間宣言

天皇とマッカーサーの初めての会見は、昭和20年9月27日、天皇がマッカーサーを訪れるというたかちでおこなわれた。
昭和天皇が、太平洋戦争の開戦責任は君主たる自分にあるという主旨の発言をしたのは明らかとなっている。
昭和天皇は大臣や軍高官に責任を押し付けてすますような無責任な人間ではなかったと解釈されている。

マッカーサーは国民の皇室制度への支持が高いという事前の情報に加え、昭和天皇の誠実な態度に感銘を受け、昭和天皇の協力を得て統治をおこなうことを決意したようである。
実際、毎日新聞が昭和20年暮れにおこなった世論調査では、皇室制度への支持率は9割を超えていた。

マッカーサーは、諸外国で高まっていた「天皇を戦犯として裁判にかけて処刑せよ」という声や、国内で出始めた「天皇は責任をとって退位すべきだ」という議論を封じる必要が生じた。
日本政府も、昭和天皇を戦犯にするのは避けようとした。
「天皇は立憲君主として政府や軍の決定に従っただけ、終戦時は意見が割れたので決断したのだから、天皇に戦争責任はない」という見解を昭和20年11月にまとめた。

天皇は11回のマッカーサーとの会見があるが、度重なり国家国民への援助要請をした。
自分の住所宮殿の再建は、住居は昭和36年まで、宮殿は43年まで仮住まいだった。

GHQのすすめもあり、国民を直接励まそうと日本全国に出かけた。地方巡幸である。
おおむね熱狂的な歓迎を受けた。



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食べるものがない①戦中(昭和15年~終戦)

2021年01月13日 | 昭和16年~19年
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「日本のいちばん長い日」や「ノモンハンの夏」、自称・歴史探偵、元・文芸春秋編集長、作家・歴史家等の
半藤一利さんが亡くなった。90才。


(画像はウィキペディア借用)


合掌



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食べるものがない①戦中(昭和15年~終戦)


昭和15年から25年の10年間は、食べ物に事欠いたのは知られているが
それは町に住む人のことであって、
自給自足の農村の人にとっては、あまり関係のないことであった。



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「昭和・平成家庭史年表」 河出書房新社 1997年発行


昭和15年

2.3 各地、節分の豆撒きで、撒いた豆は集めて慰問袋に入れる。
3.- 待合・料理屋の営業時間が1時間短縮され午後11時までとなる。
4.7 全国で肉なしデーが始まる。
4.29 高知で米の切符配給制が始まる。順次全国へ。
5.10 週1回の節米デーが始まる。大豆入り昆布めし、ニシン入りうどんめし・・など。
6.- 野草食が流行し、雑草のパンや桑の葉パンも登場。
10.- 砂糖の配給統制が実施。




昭和16年

1.20 米屋の自由営業が廃止。
1.27 食糧増産のため国鉄の線路わきにトウモロコシが植えられることになる。
2.3 各地の節分が豆抜きとなる。
2.27 横浜市、食糧増産のため市内の桑畑をつぶして米麦生産へ。この頃、全国で桑畑の整理盛ん。
2.- 清酒が配給に。
4.1 大都市で米穀の配給通帳制。1人1日当たり2合3勺。
4.8 肉屋で犬・タツノオトシゴ・オットセイの肉も販売できるようになる。
4.17 厚生省が大豆・馬鈴薯・人参など空閑地栽培方法を全国へ通牒。
5.- 九段の外濠に「水産の空き地利用」として鯉を1万匹を放流。
6.- 備荒動植物の調査をまとめる。げんごろうの天ぷら、トンボの佃煮など。雑草の1.000種、動物は100種が食糧になると。
7.- 東京の野菜不足が深刻化
-.- 作付け統制令により、スイカ・マクワウリ・イチゴなどが不急作物として栽培抑制、次いで禁止扱い。
-.- キャベツが急速に普及。食糧不足の折から、1個で大勢が食べられることが普及の原因。




昭和17年

2.1 みそ・醤油・塩が配給制となる。
8.- 南方占領の戦果として届いたコーヒーと紅茶が配給される。
9.- マヨネーズの製造を中止。
10.8 農林省、飯米にトウモロコシのひき割を混ぜるよう通達。
-.- 食糧不足の人体への影響が出始める。




昭和18年

1.7 米の搗き減りを防ぐため、配給米が5分搗き米となる。
1.15 玄米配給が始まる。
1.- 戦時代用食「芋パン」登場。薩摩芋を粉にし、4割小麦粉を混ぜ、イワシの粉5分などを混入。
2.- 東京で菓子の配給はじまる。
3.- リンゴ園の耕作転換令が出される。
6.4 政府、食糧増産応急対策を決定、休閑地で雑穀増産。
7.16 「サツマイモは大切な主食」という標語のもと、大増産運動が始まる。
-.- 空地利用の路傍菜園、校庭農園も本格化。




昭和19年

1.24 スイカ・メロンの作付け禁止。イチゴ・唐辛子・落花生など不急作物は抑制が強化される。
2.24 内務省、河川堤防に大豆・そら豆の栽培を許可。
2.25 文部省 食糧増産に学童500万人の動員を決定。
4.23 「食べられるものいろいろ」が週刊毎日(現サンデー毎日)に掲載される。虫・・・孫太郎虫、ささ虫、クロスズメバチの幼虫とサナギ、げんごろう虫。「国内も前線と同じく虫けらどもを食べても頑張ろう」。
5.4 決戦食に「菊芋」登場。牛の飼料になっていたもの。
7.- 柿やリンゴの皮・落花生を用いた戦時代用パンが登場。
8.1 砂糖の家庭用配給が停止される。
12.17 軍需相、全国の飼い犬の強制的供出を決める。毛皮は飛行服、肉は食用にするため。




昭和20年

1.30 閣議でイモ類増産対策要綱を決定。戦時下の食糧と軍用液体燃料の生産原料確保のため、特攻魂でサツマイモなどの2倍増産を目指すと。
7.- この頃、蛋白源として、ヘビ・カエル・ネズミも食用に。


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    つづく→食べるものがない②戦後

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昭和19年、「飲食店は午後9時まで」

2021年01月12日 | 昭和16年~19年
2021年1月7日、東京では飲食店の営業時間は午後8時までという「新型コロナウイルス緊急非常事態宣言」を発表した。

今から77年前にも飲食店は”午後9時まで”という政府決定があった。


お店の営業時間を短くするのは似ているが、背景や目的が大きく異なる。


今回の”午後8時まで”
原因と目的・新型コロナの感染を予防するため。(人との接触を避ける)




(小さな絵本美術館 ミネルヴァ書房 2005年発行)


前回の”午後9時まで”

原因と目的・電力不足。
     ・米軍の夜間空襲から逃れるため。(暗くする)
     
他にも要因が多い。
「ぜいたくは敵だ」という時代に外食は「営業規制」された。
食堂が食材に不足。


77年前と比べ全く異なるのは、
日本には、そもそも外食文化はなかった。(東京と大阪の金持ち市民限定)
電力は、田舎の家では早寝早起きで夜間の利用時間は限られる。

これは↓、茂平の隣村の話だが、日本全国の農村・山村・漁村は、ほぼ同じだったと思う。
管理人の家族や地域の人からも、戦時中の電灯時間の規制が話題になった記憶はない。


「野々浜むかし語り」1991年 野々浜公民館

野々浜に電灯が灯るようになったのは、大正11年。
大概の家は、一軒に一灯しかなく、それだけで用を足していた。

家の真ん中の辺りに電灯を吊るしておき、飯を食う時はコードを引っ張って台所へもって行くし、
お客が来れば、下の間に運ぶ。
そんな使い方で1灯だけで間に合わせた。
戦後もしばらくの間は一軒に一灯が野々浜の標準的な家、という時代が続いた。



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戦時体制・空き地の芋づくり

2021年01月11日 | 昭和16年~19年
「新修倉敷市史第六巻」倉敷市 平成16年


戦時体制・空き地の芋づくり

昭和16年ごろから空き地に野菜や雑穀を栽培するのが奨励され始めたが、
昭和18年6月、政府が休閑地を動員して雑穀などを栽培する食糧増産応急対策要綱を出し、
岡山県が河川敷や道路敷などの活用基準を決めると、今の総社市以南の高梁川下流の河原約20ヘクタールを筆頭にして、県内の三大河川下流の河川敷を利用する希望が続出した。
また岡山県青少年団は岡山・倉敷の国道沿線の青少年団を動員し、同国道の両側で大豆を栽培することを決定。
さらに倉敷国民学校新川校舎では低学年児童の父母らが校庭を耕し、
水島の三菱航空機製作所は工場敷地で乳牛・豚・鶏などを寮の残飯や台所くずなどで飼って食料にするため
家畜飼育施設の建設を始めている。
食糧不足の深刻さがうかがえよう。



戦時体制・ガソリン不足

石油類は日を追って不足した。
昭和13年から切符制。
トラックの輸送範囲は50㌔以内。バスは減便。
昭和18年には高梁川などに高瀬舟が復活し、
翌年には味野や高梁でリヤカー輸送隊が発足した。
岡山では15人乗りの乗り合い馬車が大雲寺~福島を運行するようになった。

農作業用の石油は、
籾摺りや灌漑に石油発動機を動かす以外は禁止され、足踏み脱穀機などが復活した。



戦時体制・電力

昭和17年11月から使用制限が始まり、
昭和18年10月から看板灯・暖房用電熱器・扇風機などが使えなくなった。
昭和19年になると、家庭では「夜10時以後絶対消灯厳守」運動が展開された。
その年6月から家庭は一戸一灯だけで、点灯は7時46分から10時まで。
料理店や飲食店は午後9時までとされた。

・・・・・・・・・・・・・



(小さな絵本美術館 ミネルヴァ書房 2005年発行)






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昭和16年の日米交渉(駐米大使館)

2021年01月07日 | 昭和16年~19年
「マリコMARIKO」  柳田邦夫著 新潮社 昭和55年発行  




新駐米大使野村吉三郎が、日本郵船の鎌倉丸で横浜港を発ったのは、昭和16年1月23日だった。
着任して3日後ルーズベルト大統領をホワイトハウスに訪ねた。
二人は1915年(大正4年)以来の旧友だった。
3月8日、野村・ハル第一次会談を手始めに日米交渉が実質的な話し合いに入ると、両国の主張と見解にはあまりにもへだたりがあり過ぎ、
容易に妥協点を見出すことができないまま、矢のように月日が過ぎて行くことになる。

大使の役割には「伝達者」と「交渉者」の二つの側面があるといわれる。
戦前においては、19世紀的な「交渉者」の性格が、まだ残っていた。
特に野村大使は交渉者の意識が高かった。

時の外相松岡洋祐は、独伊との枢軸路線の熱烈な推進者だった。
しばしばアメリカ側を刺激する伝達を控え、松岡を激怒させた。

日本政府が絶対に譲れないとした基本原則は、
アメリカは対中国援助を中止、
蒋介石に対日和平交渉につくよう働きかける、
アメリカは対独伊戦に参加すべきでない、
日中が和平を結んだら対日通商関係を復活する。

どれもアメリカ側には認め難いものばかりであった。

アメリカ側は、
中国の領土保全と主権の尊重、
日本軍の中国からの撤退、
日本の南進政策の中止、
を求めた。

野村・ハル会談は頻繁に開かれたが、修正案の提出と拒否の繰り返しにすぎなかった。
この年7月ついに南部仏領インドシナにまで軍を進めた。
これは、日本がインドネシアの石油資源をねらっていることは、明らかだった。
ルーズベルトは日本資産を凍結する命令を出し、すべての通商関係を断絶させる措置に出た。
野村が東京を発ってから半年余り経つうち、情勢は野村の手に届かないところへ行ってしまった。
日米関係が破局を迎えるのは、もはや時間の問題だった。

「マリコの病気は悪くなる一方です。」



(米大使館寺崎書記官夫婦と長女・マリコ)



近衛内閣は「マリコ」(米側態度)の情報を入手するより先に、
内部から”最後通牒”を突き付けられていた。
突き付けたのは陸相の東条だった。
「アメリカに屈すれば、ますます高圧的に出てとまるところを知らなくなる。人間たまには
清水の舞台から、目をつぶって飛び降りることも必要です」
無謀な対米開戦論だった。
近衛は東条を説得するだけの政治力を持っていなかった。
その2日後、近衛内閣は総辞職した。

野村を助けるために、特命全権大使来栖三郎が11月15日ワシントンに着いた。
来栖の派遣は、日本がなお日米交渉に熱意を入れているように見えたが、現実には大使館でできることは、何も残されていなかった。
最後のカードを見せたのはアメリカだった。
11月26日『ハル・ノート』を受け取った。
その内容は、
かねての主張を一歩も退けずに強調するとともに、日本軍の中国および仏領インドシナからの撤退、重慶政権以外の不承認などを強く要求していた。
東条内閣、とりわけ軍部の容認できるものではなかった。

日本では12月1日、「米英蘭に対し開戦す」を下したが、奇襲作戦で臨むため、ワシントンには知らされなかった。
日本大使館はピエロ役を続行した。
栗栖は、
「大統領から天皇陛下に宛てて親電を打ってもらう以外ない。
外務省や東条首相を通さずに、直接天皇陛下に届くような方法で打ってもらわなければならぬ。
三井物産ニューヨーク支店長を仲介に、駐日大使グルーに宛てて打電し、グルーが参内して手渡すという方法をとる」
だが、このときすでに日本海軍の南雲機動隊は、
「Xデーは12月8日なり」の命令を受け北太平洋上を刻々とハワイに向かっていた。


グルーの要請を受けた東郷が、ルーズベルトの親電を持って宮中に参内したのは午後2時過ぎだった。
その頃、
南雲機動部隊は三百数十機の攻撃隊がつぎつぎに発進していた。
ハワイは7日の夜明け前だった。


翌朝、寺崎家の玄関のベルが鳴った。
ドアを開けると,FBI局員が立っていた。
氏名、住所、職業、などをカードに書き込むと、その局員は言った。
「これからあなた方は、私の許可なしで外出することはできません。
私はあなたがたを保護するために、毎日玄関先で見張ることになります」






(映画「太陽にかける橋」に主演のキャロルベーカーとマリコ)



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捕虜⑥「アーロン収容所」 

2020年12月15日 | 昭和16年~19年
戦後の著名な文化人だった京大の会田教授はかつて、ビルマ戦線での戦争捕虜でなく、終戦後に捕虜になった。
本の副題は~西欧フューマニズムの限界~となっている。

・・・・・・・・・・・・・・・



「アーロン収容所」 会田雄次著  中公新書 昭和37年発行


昭和18年末、私たちの師団はビルマ東部のシャン高原に進出した。
終戦直前には一切の重火器を失い、兵力は当初の数十分の一に減少し、
ビルマ東南端におしつめられ、全滅を待つ寸前であった。
しかし終戦によってからくも全滅はまぬがれ、武装解除した私たちの師団はラングーンに送られ、
そこで約2年間、英軍の捕虜としてはげしい強制労働に服せられたのである。


終戦

みんなマラリヤをもち、定期的な熱発(陸軍用語)に苦しんでいる。
疥癬(かいせん)というひどい皮膚病にかかっている。
かゆいのか、いたいのか、知覚に麻痺がきていてよくわからない。
アミーバ赤痢にかっかっている人も多い。
水虫もひどい。うじがわいている。
靴もない。
小銃さえ持たない兵士が多い。


陸軍主計部

私の場合でいうと、二年間のビルマ戦線生活で、何かを配給されたのは、ごくはじめの昭和19年夏以前を除くと一切なかった。
食糧は全部徴発、つまり掠奪(りゃくだつ)したり物々交換したりした。
シャツ、靴、水筒、地下足袋、小銃、背嚢、帯皮、みなボロボロで使いえなくなってしまった。
いま持っているのは、すべて前線で拾ったり、戦死者のものをみなで分けあったものばかりである。


収容所へ

鉄条網でかこまれた広い地域のなかに、屋根だけしゅろの葉でふいた、壁も床もない掘立小屋が幾棟もずっと並んでいる。
物見台があり、ダルカ兵(ネパールの土民兵)が自動小銃を持って看視している。
荷物検査が終わると、今度は噴霧器でDDTをいっぱいふりかけられた。
英軍から食糧が支給されたが、それは米の粉だけであった。
ひもじくてほとんど夜は眠れない。


捕虜生活

床にはドンゴロスをひいてねた。
中央に通路があり、その両側にメザシのように並んで寝るのである。
英軍からの支給はボロボロの衣類と寝具。
食器、床材料、タバコそのほかはみな自給した。
自給とは英軍の倉庫などから泥棒のことである。
作業は、食糧・衣類の運搬整理、工場の雑役、英軍宿舎の掃除や建設、戦禍のラングーン市の清掃復興作業などがあった。



女兵舎の掃除

英軍兵舎の掃除というのは、いちばんイヤな作業である。
もっとも激しい屈辱感をあたえられる。
便所につまった糞を手で掃除させるくらい朝飯前であった。

その日は英軍の女兵舎の掃除であった。
彼女たちの使役はじつに不愉快である。
私たちが英軍兵舎に入るときはノックの必要はない。
イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。
イギリス人からサンキューという言葉は一度も耳にしたことがない。
タバコをお礼にくれたりするが、手渡しは絶対にしない。口もきかない。一本か二本を床に放ち、あごをしゃくるだけである。
もう一つ、
足で指図することだ。
足でその荷物をけり、あごをしゃくる。

その日、掃除に部屋に入ると驚いた。
一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていた。
ドアの音で振り向いたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。
彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。


(おんぼ)作業

終戦前、戦病死するイギリス人やインド人は、仮墓地に応急的に埋葬された。
それを整頓することになったのである。
私たちに与えられたのは、棺を掘り出し、別の場所に移すことである。

ほとんどの屍体は腐乱最中である。
悪臭で目から涙がボロボロこぼれる。
ウジ虫のかたまりのようなものを素手で運ばされるのである。


帰還

昭和22年5月、1年ぶりに引揚船がやってきた。
その人員が選ばれ、その中に私が入っていた。小隊長が運動してくれたのであろう。
こうして戦友と別れ、一足先に今度来た船で帰ることになった。
帰るとなるといそがしい。
没収されるかもしれないが、手紙もことづかる、戦没者や、生存者の名簿もつくる。
戦犯で刑を言い渡された人の名簿も借りてきて写した。
内地へ帰って家族の人はみなとても喜んでくれた。
生きているとはわかっていても、それが一番心配だったそうだ。

内地から送られた「リンゴの歌」のレコードも聞いた。ラジオで二三度聞いたことのある、何だかばかに明るい歌である。
負けてアメリカに占領されて、女たちが無茶苦茶されて(と私たちは考えていた)、食糧不足で、こんな明るいとは・・・・。
もうすぐこんな世界の人間になるのかと思うと不思議な感じがする。
しかし私はこの歌を知ったことに感謝した。
内地の思想の急転換をあらかじめ予想させてくれたからである。


コメント
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