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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

国民生活の窮迫

2021年08月16日 | 昭和16年~19年


 
学校出て、初めて社会人になったころ、
会社の健保組合から「家庭医学」の本を配布されることが何度かあった。
何冊か配られたので著者(監修者だったかも)”杉靖三郎”の名前はよく覚えている。

医学博士・杉靖三郎氏は、戦前・戦中から家庭医学の分野で啓蒙活動をしていたようだ。





「昭和 第6巻」  講談社 平成2年発行
飢餓とたたかう「決戦食」
茶殻も野菜代わりに


飢える銃後
厚生省は昭和16年9月、米の供給減にともなう新たな「日本人栄養要求量」の最低限度を、成人男子1人1日熱量2.000カロリー、蛋白70gと発表した。
しかし昭和19年になると、この最低限度を下まわる1927カロリー、45.4gにまで低下した。
大阪府の場合、15歳の平均体重は17年45.4k、18年44.7g、19年42.8gと減少していった。

政府は食糧不足に対する抜本的な解決策よりも、「工夫が足りない」「我慢が足りない」として、
米や代用食以外のものを主食化しようという「決戦食」を喧伝した。
また「日本に栄養不足絶対になし」とする栄養学者も現れた。
「日本人の栄養は1.000カロリーを割っても栄養学的にはまだ大丈夫。
ようするに日本人は『玄米と味噌と野菜少々』あれば、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく定期で頑張れるのです」(杉靖三郎『婦人倶楽部』昭和19年6月号)
と主張する学者もいたのである。

・・・


国民生活の窮迫

昭和16年4月、米が配給制。二合三勺。
その内容は急速に変化した。当初の7分搗きから、5分搗き、二分搗きになっただけでなく、雑穀や代替食品の混入割合が多くなった。
昭和16年11月の閣議で玄米食普及が決定され、これが大政翼賛会指導の国民運動になった。
昭和18年6月以降、馬鈴薯・小麦粉・乾パン・満州産大豆・甘藷・脱脂大豆・でん粉・切干甘藷・麦などの代用食の比重が米と引き替えで次々に高められた。
昭和19年からは大豆やとうもろこしも米と混炊するようになった。

魚の最低必要量は1日50Gとされていたが、17年に36G、18年に26Gとなり、20年には10Gまでに低下した。
イワシ・サメ・スケトウダラが配給の大部分を占めた。
野菜も配給では必要量の半分しかなく、家族総出の「買い出し部隊」が近郊の農村に繰り出した。
空地や庭に家庭菜園を作らせ、主食代わりになる南瓜の増産が奨励された。
昭和20年の野菜消費量は12年の6割以下に落ち込んだ。
主食への大豆・高粱・ともろこしの混入率は20年5月の13%から6月49%7月59%と急速に高まり、7月にはついに主食配給が一律1割削減された。
芋づる・どんぐり・よもぎ・にら・南瓜のつる・蜜柑の皮をはじめ、桑の葉・もみがら・おがくずまでが食糧となった。

生活物資も行列買いがはじまりった。
衣生活では、衣料品はますます買いにくくなった。
短袂実行・国民服・モンペ着用・衣料融通交換の国民運動が起された。
昭和19年6月、現物の衣料は底をついた。

住宅事情も悪化の一途をたどった。
縁故疎開で農村に殺到した疎開者は、農家の納屋や蚕室・鶏小屋まで借りて住居とした。

「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

・・・・・




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大政翼賛会・庄原

2021年08月16日 | 昭和16年~19年
「庄原市の歴史 通史編」 庄原市 平成17年発行

昭和24年石川達三は、戦争中に思想弾圧に屈しなかった中央公論社社長嶋中雄作をモデルにした『風にそよぐ葦』を発表している。
そこには特高警察、
特別高等警察・・・高等とは恐れ入る名称であるが
死に至ることを当然として拷問を繰り返している治安警察の姿が描かれている。
憲兵と特高は、ナチス・ドイツの親衛隊と同じ役割を果たしたが、
戦後厳しい反撃を受けたナチ親衛隊関係者とは異なり、
日本では元特高警察を励ます会まで組織され、政界に進出する者さえあった。

特高警察の拷問で殺された人は哲学者三木清、作家小林多喜二など数多い。
嶋中雄作は横浜警察署で拷問を受け、拷問に負けず、信念を守った。

昭和15年には大政翼賛会が組織され、政党活動はできなくなった。
学者・作家・画家なども大政翼賛会文化部に所属し、
安部能成(戦後学習院大学学長)、岩波茂雄(岩波書店社長)、菊池寛(文芸春秋社長)など戦後は自由主義の総本山と目される人々も「大政翼賛促進の会」の発起人となった。


(福山41連隊の応召兵と家族)


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防空監視哨(岡山県新庄村)

2021年08月13日 | 昭和16年~19年
先に北木島・バックリ山の防空監視哨を書いたが、
岡山県北の新庄村の監視哨も勤務形態はほぼ同じ。

国民学校高等科を卒業後、青年学校へ行っている男女(村で一番若い青年団)が6人一組で山に登り、24時間勤務して、翌日交代する。


「新庄村の暮らしと俗信」  立石憲利 2020年発行

昭和18年に新庄防空監視哨ができた。
監視員は、のべ30人で交代で行う。
6人が一昼夜を、三交代で1時間おきに2人ずつが監視する。
監視員は新庄村と美甘村の者で、5日に1日ずつ任務についた。
朝8時から翌朝8時までで「異状なし」などと申し送りをして帰る。

通称「宝田の監視哨」と言っていた。宝田の山頂付近にあったから、現在の道の駅の裏山。

私は監視哨ができてから、出征する昭和20年3月まで2年半ほど監視員をしていた。
飛行機の識別などは、監視哨手帳があって、機体や標識、方位などが記されていて、それによって行った。
監視哨には、監視舎と聴音壕とがあった。
聴音壕のあとは、現在も残っている。
監視舎は4間*2間くらいの小屋で、寝泊りができる畳の部屋があり、炊事場があった。
壕は深さ3mほどのコンクリートの円筒になっていて、高さ60~70cmの台があり、その上に立って勤務した。









円筒の外側は30cmの空間があって、飛行機の音がよく響くように作られた。
その音で飛行機の飛来を知った。
監視哨は哨長が1人で伍長以上の軍人、退役軍人だった。副哨長は1班に1人ずつ。
監視員は、青年学校に行っている者が中心で、
2年生までは3週に2回、3年生以上は3週に1回の勤務だった。
監視業務をするとき以外は、学校に行ったり、百姓をしたりした。
監視員はお互いによく知っていた。哨長が、人選をしたと思う。
監視哨の管理は警察がしていた。
警察へは電話がついていて、すぐに連絡が取れた。




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産婆さんは大忙し

2021年08月12日 | 昭和16年~19年
管理人が生まれる当時は、
お産は家でする。妊婦は産気づくまで畑で仕事をする。
陣痛になったら産婆さんを呼ぶ。
このころ、生まれてくる子が多く、産婆さんは西に東に大忙しだった。

茂平の産婆は、同級生Aくんのお母さんがしていた。
茂平の人は、後年病院でお産をする時代になってからも”産婆さん”と感謝を込めて呼んでいた。
茂平の産婆さんは、自身に幼子が3人いた。
そして、
茂平や城見の婦人会の役員、
茂平婦人消防団の団長も長く務めた。
妻であり、母であり、産婆さんであり、農業をし、地域の役をして、
寝る間もなく茂平や城見地区に貢献された。

産婆さんは高齢で亡くなられたが、生前、産婆の話を一度も聞いたことはない。
書籍で、その苦労を偲ぼうと思う。


「戦争中の暮らしの記録」 暮らしの手帳編  昭和55年発行



静岡県・産婆
支度
「お腹が痛くなったから来てください」と迎えをうけて行き、
すぐ生まれるもの、二日、ときには三日がかりで生まれるものもあった。
お産をたのまれると、支度が大変だった。
お産道具を入れたカバン。
ふろしき包。この中には赤ちゃんの着物、じゅばん、おむつ。産婦さんの腰巻も入っている。汚したときの取りかえ。

綿花
一番不自由したのは綿花で、
配給の綿花では一週間使うほどあるなしで、ずいぶん気を付けて、無駄のないよう使った。
はじめは大きく切って使い、汚れたのは川で血液を洗い流し、クレゾールで消毒し、さらに煮沸して二度も三度も使う。
分娩が長引くと、つい綿花もたくさん使う。ゆかたの古いのや晒の古いのを、きれいに洗って20cm角くらいに切って揃えて消毒し分娩中の綿花代用にした。

夜のお産
夜のお産はまたみじめ。
電灯に黒い布をかけ、光が漏れないように雨戸を閉め、光がもれないように雨戸を閉める、産婦は「う~んう~ん」、
「そーれ、いますこし、そーれ」と、掛け声をかける私も、汗びっしょり。
電灯のある家はまだよい方で、物置やはなれに疎開してくる人たちは、電灯のないところが多かった。提灯をぶらさげるが、かんじんのところがよく見えない。
はだかろうそくを2~3本立て注意しながら、やっと産声を聞いたこともある。


東京都・産婆
燃料に困る
生めよふやせよの徹底した時代で,たくさんのお産を扱っていました。
戦が激しくなるにつれ、物資不足は目立ち、その中でも
ガス、水道の時間制限と、薪炭等燃料の配給不足は、じつに困りました。
産湯にも差支えるようになりました。
漬物桶をこわし、お湯を沸かした話もありました。漬物桶は、漬けるものがないので、不必要だったのです。

空襲警報中のお産
警報中のお産には困りました。
少しでも光が漏れると警防団員から注意されますので、
窓には暗幕、お産は押入れの中でローソク1本の光を頼りに、その光をさらに黒い傘を開いておおい、いうにいわれぬ苦労がありました。





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空襲化の育児

2021年08月11日 | 昭和16年~19年
母は母乳がよく出る人だった。
管理人は5歳ころまで吸っていた。
母は子を3人産んだが、すぐ近所の赤ちゃん二人にも乳をあげていた。
しかし、その赤ちゃんは二人とも戦時中の物資・食糧不足の時代を生き抜くことができず死んでしまった。



「神国日本のトンデモ決戦生活」 早川タダノリ  合同出版2010年発行

空襲化の育児

乳児の栄養面について、「代用乳(無乳栄養)の作り方と与え方」(主婦之友・昭和19年10月号)、
丁寧に指南。炒った米・小麦・大豆などの粉に鰹節・魚・イナゴ・サナギなどのタンパク質と乾燥野菜、砂糖、塩をお湯で溶いたもの。
「戦時下妊婦の使命」「敵米英の母に勝て」と役にたたない精神論も遺憾なく発揮している。





空襲が本格的に始まる直前には、
「子供を被害から逃れさすことばかりが防空ではありあせん。
戦場に育った子供でなければ経験し得ない、生々しい戦いの体験を、将来国の強兵として戦場に立つ時の基礎に、立派に活かしていこうではありませんか。
戦争を怖がらせてはならない、盲目的な平和思想を抱いてはさらにならない。
空襲をも戦時下の精神鍛錬の鉄床として活用する、この母の心構えこそ『子供の防空』の根底をなすものであると信じます」(主婦之友・昭和19年8月号)
と無責任に説教してもいた。
もはや、負け惜しみを通り越して倒錯の域に達している。

こんな「空襲体験」をおしつけられた母親も赤ん坊もたまったものではなかったろう。

 
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「産むな 増やすな 国のため」

2021年08月11日 | 昭和16年~19年
「貧乏人の子だくさん」
明治、大正、昭和初期、日本人の大半が貧乏人だった。どこの家庭も子だくさんだった。
「産めよ増やせよ国のため」
戦時中は、未来の兵士を増やし、そして死んでもらうために、多くの子供(5人以上)を産むことが国民の義務とされた。
「ベビーブーム」(団塊の世代)
終戦後、食うや食わずで娯楽のない時代、夫婦の唯一の娯楽として性行為があり、日本中に妊婦の人があふれた。
世が落ち着くと、ベビーブームは終わった。

近年まで、日本は子だくさんの時代がつづいたが、
「産むな増やすな国のため」と半ば強制的に断種された人たちもいた。



「熱風の日本史」 井上亮 日本経済新聞社 2014年発行 

「悪質な遺伝子」の根絶をめざす優生学は社会的ダーウィニズムの影響を受けたもので、20世紀初頭から世界的に流行する。
日本の優生政策に大きな刺激を与えたのが昭和8年、ナチス・ドイツによる断種法制定だった。
「劣悪者」が人口に占める比率が増加すると、人口の質が低下すると考えられた。
「国民の体力向上=強兵養成」を主張していた陸軍の要請を受けて昭和13年に厚生省が誕生。優生課が設けられる。
昭和15年3月国民優生法が帝国議会で可決。
「悪質な遺伝子」を持つ者への優生手術、すなわち断種の規定が設けられた。
ほかに本人や祖先に遺伝的な障害・疾患を持つ者の結婚を規制した。

断種対象者は全国で約30万人と見積もられていた。
昭和22年法が廃止されるまでに実施された断種手術は538件(男217,女321)にすぎない。
これは強制でなく、任意としたためだった。
国家が多産奨励に傾斜していったのも、非人道的な断種法を骨抜きにした。

ところが優生法とは無関係に断種手術を強要されていた人々がいた。
ハンセン病患者である。
昭和6年の「らい予防法」で全患者の隔離政策が推進された。
療養所では結婚の条件として「任意」の断種手術が非合法に行われていた。
昭和24年~平成6年までに強制的不妊手術は1万8.000件で、戦前をはるかに上回っている。

アメリカ
世界でもっとも断種法が普及していた国はアメリカだった。
対象者は精神病患者や知的障害者で、性犯罪者にまで広げられた。
32州で1937年時点で2万5.000人以上に不妊手術が施された。
1940年代までには、カナダ、メキシコ、デンマーク、スウェーデン、ノルェーなどの欧州各国も断種法を制定した。
ドイツ
第二次大戦が始まると断種を中止。
精神病患者、障害患者などを抹殺する「安楽死計画」を実施し、十数万人が殺害されたという。

優生思想はファシズムと結び付けられて考えられがちだが、民主主義国家にも受け入れられていた。
人間の尊厳を社会がいかに実現すべきなのか、考える必要がある。








「ビジュアル日本の歴史 116」

産めよ増やせよ国のため

1940年(昭和15年)11月3日、「明治節」の祝日に、厚生省は全国10.336の優良多子家庭を表彰した。
厚生省は前年より「人的資源」確保のために多産奨励を打ち出しており、今回の表象はそれを浸透させる目的で行われた。
選ばれる家庭の条件は、同一父母のもとで満6歳以上の子どもが10人以上育てられ、しかも子どもも両親も健康かつ性行善良であること。
都市部では大正時代から晩婚少子化傾向があり、選ばれた家庭の大半は農村の中・上流家庭であった。
政府が「産めよ増やせよ国のため」と大奨励したため、翌年日本の出生数と婚姻件数は大きく増加する。
しかし、
その裏では「不良な子孫の出生を防止」する国民優性法(1940年公布)のもと、障害者やハンセン病患者の断種手術も行われていた。





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【靖国の妻】の貞操

2021年08月11日 | 昭和16年~19年
女性は結婚する以前は純潔を言われ、
結婚して夫が死ぬと貞操を守れと言われる、(特に戦争未亡人には)
「生めよ増やせよ」(5人産む)を実現しよとしたら、再婚しないと不可能なのだが。


「神国日本のトンデモ決戦生活」 早川タダノリ  合同出版2010年発行

【靖国の妻】の貞操
遺された未亡人は、立派な【靖国の妻】でありつづけることが厳しく要求された。
昭和14年に帝国在郷軍人会本部が刊行した『軍国家庭読本』は、
靖国の妻たちの生活態度を思いっきり引き締めるために作成したパンフレットで、
「期待される軍国婦人像」をストレートにあらわしている。
その中でも、かなりの量が割かれているのが【靖国の妻】たちの「貞操問題」だった。



未亡人の貞操をどう守るか、
「婦人本然の美徳であります徹底的な愛は、とかく一面において盲目的であり、熱狂的であり、偏狭である恐れがあるのであります。
一時的の愛に溺れて、永遠の幸福を忘れたり,或いはあるものを偏愛するとかいうような事例がないではないのであります。
つまらぬ劣情や、一時的な感情に左右されてのことが多いのであります。
此の偏狭な熱狂的な愛は、婦人として最も慎まねばならぬ所であります。」

彼らは、女=詰まらぬ劣情に左右されるという徹底した女性蔑視観に基づいて、【靖国の妻】の大義名分をふりかざし、女性たちにタガをはめようとしたのである。

こうした道徳の強制は、
「理想としては、一生独身生活を送るのが至当」
「身の勝手や、情欲の為に、再婚するようなことは許すべからざる罪悪である」
などという人な結論をもたらした。
婦人の「劣情」や「情欲」に注目しこだわっているのところに、帝国在郷軍人会のやらしい目線を感じる。



戦争未亡人の多くは昭和19年、20年に発生している。
その年齢は24.25歳、子供1~2人で未亡人となったと推測される。
自分と子供が、どうやって食べていくか、毎日がぎりぎりの生活だったと思えるが,その心中に、ほんのいくらかはタガになったのかもしれない。

しかしまあ、無責任極まる「読本」である。
発行した在郷軍人会は、戦後地方の支部分会の役員に至るまで、公職追放になっている。





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北木島「大浦監視硝」

2021年07月25日 | 昭和16年~19年
10年ほど前、北木港の待合所で元バックリ山の監視硝に勤務していた人の話を聞いた。
その時、女性3人ほどいて次のような話だった。

全員青年学校、北木と真鍋の女性がバックリ山を登っていた。
若いので苦も無く、楽しいばかり。

楽しいばかりというのは、ほぼ同年齢の人が玉野の造船所などに行き、それに比べると恵まれているという面が大きい。

なお邑久の監視硝は全員男性、
現笠岡市では表にバックリ山が載らず、小丸が載っている。どんな事情があるのだろう。


「笠岡市史3巻」 笠岡市 ぎょうせい 平成8年発行

空襲が激しくなり、岡山県でも約20か所の山頂に「防空監視硝」が設置し、
笠岡地区内では北木島村大浦のバックリ山の山頂に「大浦監視硝」が設けられ、
瓦ぶきの屋根にガラス張りの窓、部屋には事務所と奥には休憩室が用意されていた。
この監視硝では北木島村の大浦・豊浦・金風呂の各地区と真鍋島村・白石島村の女子青年団が5班に分かれて毎日交代で24時間体制による敵機の監視が続けられた。
「敵機発見」の言葉は部屋に備えた電話で、村役場→県庁の監視隊本部→中部軍幹部司令部へと伝えられ、
管内情報によって警報が発令される仕組みになっていた。



「北木を語る」 元気ユニオンin北木 平成8年発行

1945(昭和20)
大浦防空監視哨設置
本土空襲に備えて、バックリ山の山頂に設けられた。
監視には、北木島大浦・豊浦・金風呂・真鍋島村・白石島村の女子青年団員が動員された。
5班に分かれ24時間体制で監視に当たる。
県下20ヶ所笠岡地区唯一の監視哨で、敵機発見の情報は、北木村役場経由で直ちに中部軍区司令部に送られました。



・・・・・



「勝央町誌」 勝央町  山陽新聞社 昭和59年発行

防空監視硝

勝間田町平(現在の工場公園内スポーツ公園付近)に防空監視硝が常設されていた。
昭和16年12月16日「防空監視隊令」が制定され、ここに防空監視硝が設けられたもので、
勝間田青年学校の生徒が硝員となり二交代で毎日24時間硝舎の屋上に設けられた監視硝で空をにらんだ。
硝舎と警察には直通電話が敷設されていた。
監視硝建設費、演習費は町村が年々補助した。





・・・・・


「奥津町史」  奥津町  ぎょうせい 平成17年発行

奥津防空監視硝

「岡山県史」に「その設置数については県内で20か所ともいわれているが正確な数は不明である」と述べている。
しかし、昭和16年の防空計画では22ヶ所の監視硝が新設されているところをみると、
その数は数十か所にのぼるのではなかろうか。

監視硝長及副硝長
主として青年学校指導員及び在郷軍人にして指導能力良好なる者

監視硝員
青年団、青年学校生徒及び之に類するもの。長期間服務し得る者。
聴力・視力・体力に優れた人物。
年齢は15歳以上、班編成は5~7班。総員は60人である。

勤務は午後5時から24時間勤務。
一班7名で、班長は総括
2名は立硝、1名通信士、3名仮眠、一時間で交替した。
青年学校生は非番時には登校した。
慰問者はしばしばあった。
炊事はレンガ作りのかまど、飲料水は下の谷川まで降りて天秤で日に二度運搬した。
仮眠用ふとんは不衛生でノミが多く安眠を妨げた。

爆音を聞くと肉眼で確認し、飛行方向・高度を判断し、
さらに双眼鏡で確認して大声で通信士に連絡する。
通信室には警察電話があり、津山警察署と奥津駐在所で同時に受信された。

昭和16年度計画岡山県防空監視硝表(井笠地域)
7・笠岡監視硝  小田郡笠岡町小丸山頂
8・井原監視硝 後月郡西江原町大字寺戸字青陰(青陰城跡)
9・矢掛監視硝 小田郡矢掛町大字矢掛蛸ノ山
計22ヶ所






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松竹映画『永訣』、と海軍の飲酒年齢

2021年07月23日 | 昭和16年~19年
舟木一夫が主演する松竹映画『永訣』。
主題曲「永訣の詩(わかれのうた)」は 作詞・横井弘 、作曲・古賀政男のまさに名曲、





映画も文芸調で、舞台は萩、相手役の大空真弓と尾崎奈々もしっとりいい感じ。
その『永訣』をユーチューブで見ていたら、
海軍兵学校の舟木が飲み明かすシーンがあった。

舟木が演じた役では、まだ未成年。


以前、予科練生だったおじ(母の弟)の話では、
「入って1年したら週に一度ビールとタバコが支給された」と話していた。
それで、おじは16歳で飲酒とタバコを始めた。
軍の施設内でのことだ。国家公認といえる。



【日本ワーキング・ホリデー協会】

日本での飲酒は「20歳」からですが、フランス・ ドイツ・イギリスなど欧州の国はなんと16歳からの飲酒が認められています!
ちなにみ、オーストラリアは18歳から、カナダは19歳から飲酒することが出来るようです。
アメリカは州ごとにルールが異なるのですが、基本的には21歳から飲酒ができるようになる認識でいいと思います。



日本も「なんと16歳からの飲酒が認められています! 」だったことになる。


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材木の供出

2021年04月24日 | 昭和16年~19年
戦時中の「金属類供出」はよく知られている。
学校の金次郎像やお寺の鐘が溶かされ、家庭からも多くの生活用品が”出陣”していった。

戦争末期には材木も供出されたのは知っていたが、その対象となるのは山の木ではなく神社・寺院の古木(大木)であったようだ。
八百万の国では、大木は地元で神木となって祀られていると思うが、どのような木が出陣したのだろう?
なお使用目的は、木造船の材料である。


身近な場所からも出陣していった記録写真があったので、転記させてもらう。








「ふるさとの想い出写真集」 森脇正之編  国書刊行会  2020年発行

長川寺の大松の供出


鴨方町長川寺の境内にあった大松。
戦時中に供出することになり、伐採されたが、
これを前に仏事が営まれ、記念に写されたものである。

昭和17年頃



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