しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

国営の売春施設RAA

2025年03月04日 | マッカーサーの日本

戦争に負けて、占領軍が進駐してくる。
この時に、敗戦国がまっさきに準備したのが占領軍慰安婦。

現代人から見れば性の奴隷とか人柱だが、当時の日本国民はふつうの目で見ている。
戦争中の従軍慰安婦も、・・・それが後世で問題になったとしても・・・当時そのことに疑問を持つ人は誰もいなかった。

 

 

 

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「昭和二万日の全記録 第七巻」 講談社  平成元年発行  


国営の売春施設RAA

8月18日、内務省警保局長から全国警察に通達が出された。
占領受け入れの具体策として打ち出された「性の防波堤」としての施設づくりである。
警視総監坂信弥が中心となって、関係者を集め協力が要請された。
貸座敷組合、待合組合、料理飲食業組合、芸妓置屋同盟、接待業組合、慰安所連合会、遊技場組合の七つの団体によって、
「特殊 慰安施設協会」(RAA)が設立された。
活動資金3000万円の銀行融資を認めたのは大蔵省主税局長池田勇人である。 
8月27日、東京大森の小町園に最初のRAAが開場した。

8月31日の『朝日新聞』を皮切りに、慰安婦の募集広告が続々と登場した。 
応募した人のなかには、食糧の支給という条件に誘われた人も多く、最初に1.360人が選ばれた。
だが、占領軍兵士の性病罹患率の急激な上昇と、米国本土の世論に押されて、 
21年3月27日、すべてのRAAは閉鎖された。

 

慰安所をオフ・リミットにした性病

RAA施設第一号は、終戦直後の8月27日に東京大森の料亭「小町園」で開業し、以後数は増えて都内だけでも20ヵ所以上、
最盛期には全国で7万人にのぼる女性が従事した。
GIたちがここへ殺到し、一時は非常な繁盛ぶりを見せたが、次第に性病が蔓延するところとなりGHQの頭痛の種にまでなった。
そして21年1月21日、「公娼廃止に関する覚書」がGHQから発せられ、3月27日にはRAAの占領軍用慰安所の21ヵ所が閉鎖された。

しかし日本政府は赤線区域を指定し、事実上の骨抜きで売春は存続させた。 
兵士に対しても自粛の命令がくだされていたが効力はなく、
結局「オフ・リミッツVD」 (venereal disease = 性病)の黄色い標識が立てられるところとなったのである。
公的売春施設RAA慰安所は閉鎖された。
だが、閉鎖時でも全国で55.000人を数えた女性たちのある者は、そのまま赤線に流れたり街の私娼となって、
その日の糧を得ていくことになる。



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「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行

日本の大本営だけではなく、軍組織というものは、すべて自分たちに都合の悪い事実は控え目に発表するものだ。
アメリカのジャーナリズムもまた、「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」という一方的な報道をした。

歩兵師団のマルコム・ジームスン少佐が御殿場に駐屯すると、県の代表だという男がさっそくやって来て、
”何かご用はありませんか。
たとえば慰安所でも・・・・・・ と申し出た。
少佐が断わると、次の日、もう一人の男が来て、きのう来た者より位が高い者だと宣言した上で、
慰安所など、作らせていただけませんか"といった。
ノー"と答える と、翌日さらに偉いのが来た。自分は信じがたい話を聞いた。

 


多くの米兵は、用意された娼婦と寝るのではなく、「チャーミングな日本女性」 とマトモなデートをしたかった。
しかし、〝聖人"マッカーサーの取締りはかなりきびしく、 占領初期は、米兵が夜十一時以降に日本人の家にいることは許されなかった。
そこで占領の 最初の時期、米兵たちのかわきをいやす方策といえば結局、「ジョロウヤ」か強姦しかなかった。
「ジョロウヤへ行くこと自体に、何か屈辱感があった。
行列して、便所のニオイのする部屋にはいる順番を待つことに、とてもイライラしたことを覚えている。
せっかく戦争が終ったのだから、もっと天下晴れて、人生を楽しむ権利があると、私は不満だった」と。

 

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「世相おかやま」 山陽新聞社 平成3年発行

 
進駐軍用にダンスホール

進駐軍に贈る岡山県特殊娯楽施設協会のダンサー応募者はすでに百名以上となり、
県下各地から集まったこれらダンサーは、21日午前10時から、岡山市上伊福、傷痍軍人練習所に集合、4~5日間合宿の予定で、 
ダンス教師の指導のもとに軽やかな足どりでダンス練習を開始した。
女学校出の娘さんや元女給さん、あるいは未亡人など18.19歳から 30歳前後までの美人ダンサー群からなっており、
ここで一生懸命ダンスの初歩を習得した上で、目下改築を急ぎつつある岡山市内の三ダンスホールに配置し、25日から開場する。
なお、これら三娯楽場の名称は、
岡山グレートホール (岡山劇場跡)、キャバレーサクラ (日赤支部事務所)、 バーリヴァーティー (三井物産出張所)と正式に決定、
県内ダンサーのほか、近く阪神方面から移入することになっている100名のダンサーと合流して、
岡山市始まって以来の一大歓楽不夜城が進駐軍を迎え、和(なご)やかに開かれることになった。

昭和20年10月22日

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「岡山県の百年」 柴田一・太田健一  山川出版社 1986年発行


戦後の混乱と進駐軍

占領軍の進駐

これまで「鬼畜米英」と敵愾心をあおられてきた県民は、昭和20年8月15日を境に、
これまでの敵軍を占領軍としてむかえることになった。
この占領軍をロざわりのよい「進駐軍」とよんだのは、国民のショックを緩和するための支配層の知恵であったかもしれない。
県下へのアメリカ軍進駐がはじまったのは10月23日であるが、
当時広島にあった中国総監府は中国五県の関係者を集めて、進駐軍の受入れについて指示した。 
中国地方に進駐するのはフィリピンの戦闘に参加したアメリカ軍の約二個師団を中心として約7~8万人の見込みで、
1県平均15.000~16.000人であった。 
そのため、宿舎・食糧・自動車・給水施設・通訳・建築大工を用意する必要があった。

しかし、中国総監府は、ほかに特殊接待婦を各県200人ほど用意しておくよう指示した。
特殊接待婦とは 売春を業とする慰安婦のことである。
これを指示した理由は、「予想される一般日本婦女子に対する進駐軍兵士の暴行を避けるため」であった。
すなわち、一般の婦女子の貞操をまもるための犠牲としてアメリカ軍の前に差しだされたのが、特殊接待婦といわれる女性たちであった。

岡山県はこの指示にしたがって、9月29日県知事安積得也を長とする岡山県進駐軍受入本部を県庁内に設け、
また市町村ならびに関係方面との連絡協議のため岡山地区進駐軍受入連絡委員会を設置した。
また、進駐軍用の特殊接待婦の調達については、岡山県特殊娯楽施設協会が設立され、
一般から募集した100人のダンサーにダンスの講習をおこなうとともに、
阪神方面からも約一100人のダンサーをまねき、
岡山劇場・三井物産岡山出張所・日赤岡山支部の建物の内部を改装してダンスホールとし、
10月256日に開場した。
またこの日、岡山市の東西中島の遊郭では、遊郭の組合が共同経営で東中島に61室・西中島に31室、合計92室を用意して開店した。
進駐軍の先遣隊としてローバー代将以下28人が岡山にはいったのは同年10月12日であり、
当時県庁分館となっていた内山下小学校の校舎を宿舎とした。
ついで、同月23日にはコート代将のひきいるアメリカ軍第十軍団第二十四師団所属の第二十連隊約5000人が進駐した。

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