用之江の西隣、福山市大門町大門東谷の記録によると、
航空隊は守勢いっぽんだった事がわかる。
御真影や書類の焼却は軍の指示によるものと思える。
各所に分散して保管した食料は戦後、どのように処分したのか気になる。
福山市大門町大門「東谷町内会公民館新築記念・ふる里のあゆみ」より以下転記する。
大東亜戦争当時の記録
昭和20年8月8日午後8時、
福山市をB29約60機で来たり焼夷弾爆撃を行う全市火の海と化し、二時間余りにて全市殆ど焼失し、翌日も所々火煙立ち上がるつつあるたり。
防空壕に避難したる者多数焼死せりと聞く。
本村に於いては警防団が郷頭山上に防空監視所をもうけをりたり。
又、海軍航空隊は敵の爆撃を予想し部隊を上ノ坊及び東谷青年クラブ其の他村内各所に配置分宿し、航空指令海軍大佐・渡名喜氏及び飛行長海軍少佐・松島氏の両氏は下堀神原氏宅に移り、倉庫に諸食料品を蓄積し、村内の各倉庫等人家にも分散配置して敵機の襲来に備えり。
8月15日重大放送あり、終戦となりたことのみ判明す。
松島飛行長は隊内にありし御真影、軍人勅諭其の他貴重な書類全部を、下堀宅内庭の西北すみにて焼棄せりしという。
海軍保安隊10月31日解体。
本村国民学校へ残留部隊30名宿泊し、残務整理を為す。
渡名喜氏9月8日引越す。
昭和20年11月1日米軍先遣隊として10名飛行場に来る。
翌、11月2日1.200名来たり駐屯す。