しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

福山空襲・登記簿の焼失

2015年09月09日 | 昭和20年(終戦まで)
戦争中不足したのは食料や兵器でけでなく紙も不足した。
現在残っている役場の書類は年月よりも紙質が悪い。
それでも残っているだけで貴重だ。

終戦直後、国家や風評により故意に焼失させた文書。
空襲で焼失した文書。その他。



「福山市多治米町誌」より、空襲により無くした戸籍簿の話。


福山市の戸籍簿は古野上町県土木主張所に疎開していたが、8月8日の空襲で炎上、宿直員などの努力で、わずかながら五ヶ町の戸籍簿と戸籍見出帳を持ち出した。
このため焼失を免れた戸籍見出帳を頼りに、市民資料提供や関係市町村の協力により、その後10年近い歳月を費やして一万三千世帯の戸籍を再製した。


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大津野飛行場の歴史

2015年09月09日 | 昭和21年~25年
昭和30年代の頃だが、祖母はよく「津之下の飛行場ができたら茂平も町になる言わりょうた」と話していた。
結果は大津野も茂平も町になることはなかった。
なぜそうゆう流言があったのだろう?
思うに、国家によい事であり、地域も恩恵が大である、すすんで協力せよ(土地の提供・工事へ労働供出)という事ではないかと勝手に推測する。


大門町誌「大津野のあゆみ」より

昭和18年福山高等航空機乗員養成所開所。飛行機が到着。618名入所。
福山海軍航空隊所属員数・・・士官121、兵員1.889、事務員24、雇員378、合計2.412人。
当時の大津野村人口約3.000人。
昭和20年4/18福山で最初の空襲警戒警報発令、以後終戦まで93回、空襲警報28回。

8/15終戦。

福山海軍航空隊も敗戦とともに解散し、代って昭和21年3月英連邦軍オーストラリア歩兵隊65大隊240名が進駐した。
航空隊跡地はGHQが塩田化することに決定したが、航空隊兵舎は駐留軍宿舎に転用された。
後に米軍も駐留したが、進駐の期間は3年間であった。

昭和24年6月進駐軍跡地に広島大学水畜産学部が設置され、練習船「豊潮丸」が大津野湾沖に係留された。
昭和25年警察予備隊の第823救急隊が駐屯した。広島大学と同居することになった。
水畜産学部はキャンパスが狭くなり、後に市内御幸町へ広大な敷地を求めて移転した。
広大移転後、昭和28年自衛隊病院が開設され、牛の首もそのころには広大な敷地ができあがっていたが、やや閑散とする状態となっていた。

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学校給食・大津野小

2015年09月09日 | 城見小・他校
参考まで、城見小学校の隣・大津野小学校。
ほぼ城見と同じようだが、
「完全給食」はどうだったか?
城見小の場合、完全給食の“完全”は遅いような記憶がある。というのは隔日での完全給食であったような気がする。


大門町誌「大津野のあゆみ」より


戦後の食糧難は極めて深刻な問題であった。
この農村地域の大津野でも学校に弁当を持ってこられない児童が多かった。
弁当を持って来れる者でもその中味は粗末なものでした。
こうした状況の中で昭和25年から脱脂粉乳によるミルク給食が始まった。
昭和29年学校給食法が設定され、これを受けて学校給食が実施されていった。
昭和30年には、みそしる給食(副食給食)が始まっている。
そして昭和36年から完全給食が実施されるようになった。
それから20年後の昭和56年には米飯給食も導入されていった。
なお、完全給食が始まった頃は、一食当たり20円くらいであったが、一ヶ月の給食費がなかなか払えない家庭もあった。
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笠岡駅~大門駅の路線

2015年09月09日 | 江戸~明治
山陽鉄道は金崎にトンネルを掘ることで議論はあったろうが、城見地区についてはほぼ田んぼであり、買収等に問題はなかったのではと思う。


大門町誌「大津野のあゆみ」より

笠岡~福山は明治24年9月に開通している。
当初山への迂回も考えられたが、結局金ヶ崎隧道工事(現在の笠岡トンネル)によって最短距離となった。
大津野村では灌漑用の池(河口池、海運寺池)を買収されては用水を失うので地区民が反対、紛争は長引いたが池を他につくることで話し合いがまとまった。
河口池の東南に新池がつくられたのはその事情によると伝えられている。
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大津野地区の空襲

2015年09月09日 | 昭和20年(終戦まで)
大津野の米軍襲撃の正式な史料はないようで、回数や被害は不明。
「大津野のあゆみ」では日付がはっきりしているのは7月2日のみ。
母は、桃の袋掛け中に襲われたと話していたが「大津野のあゆみ」6月以降と書いている。
「物資を隠す」というのも俄に信じられない。大半は勝手に持ち帰ったと思われる。


以下「大津野のあゆみ」より転記する。

6月より米軍機グラマンの大津野航空隊襲撃が頻繁に始まる。
7/2米軍機が大津野飛行場へ20機30機と4度来襲。
8/15正午、終戦。
村人、航空隊の物資を津之下の山に隠す。
11/2米軍福山に進駐、大津野の旧海軍航空隊施設を兵舎として入った。(歩兵大隊約1.000名。
11/14備後灘、大津野湾海域の機雷掃海航路啓開。機雷3ヶ処分。
11月GHQ飛行場の跡地の塩田化方針を発表。

昭和21年3/23 米軍に替わりオーストラリア軍400名が進駐。

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