しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」②

2015年09月12日 | 昭和20年(終戦まで)

以下、高梁川56号より転記。

「水島軍都」に対する空襲が必至の見込みとなったので、周辺地区に高射砲陣地及び20mm機銃陣地を配置する事になった。
呉鎮守府からきた砲術科要員の指導のもと急ピッチで防空陣地構築が進められた。
6月1日、予科練教育が正式に中止になると300~400人がこの水島防空隊に編入された。

編成は次の通りである。

王島砲台(王島山山頂) 8インチ砲 5門
中畝砲台 12.7インチ高角砲 3基
連島砲台(箆取山) 8インチ砲 5門
玉島砲台(狐島) 12.7インチ高角砲 3基
機銃座(倉敷空内) 飛行機搭載用20mm機銃 10基
機銃座(三菱滑走路ふきん) 飛行機搭載用20mm機銃 基数不明

また定員分隊では「農耕班」を結成して自給自足体制を備えていく事もしている。
隊内の未整地で食用に牛を飼い、野菜や稲を植え、竹竿をたててカボチャをならせ、甘藷やともろこしも植えた。

残留予科練の陸戦隊は三菱航空機製作所の雑作業や、掩体壕の構築、物資の疎開、工場の移転手伝い、塩田開発、男子のいない農家への手伝い、といった隊外作業に派遣されていた。

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「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」①

2015年09月12日 | 昭和20年(終戦まで)
倉敷予科練と言えば終戦間近に出来て、敗戦と共に解消された。その期間があまりに短期間であり、ローカル放送・新聞・誌に載ることも極々稀となっている。

「高梁川56号」に「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」という記事があるので転載させてもらう。
しばしばいわれる「予科練」でなく「どかれん」の実態であったろう。

以下、高梁川56号。

倉敷海軍航空隊は、昭和19年11月1日に岡山県児島郡福田村松江に開隊された。
兵員は、
飛行予科練習生 21期 500名
飛行予科練習生 22期 500名
航空隊要員(一般兵員) 700名。※管理人記・予科練生は乙種。

当時、倉敷郊外の水島地区には三菱水島航空機製作所を中心として、「水島軍都整備計画」という壮大な計画が海軍の手で進められていた。

急ごしらえの航空隊はいかにも貧相だった。練兵場(飛行場)はバラストを敷き詰めただけで、これが新設の航空隊なのかとすっかり気落ちしてしまった。

昭和20年3月、学生・練習生の空中教育は一時中止となった。これにより予科練教育は事実上終わりとなった。

翌日から王島山に防空壕を掘ることとなった。
4月になって松山航空隊から2600名が転属入隊し倉敷空の予科練は4500名になった。
山林開墾隊、防空陣地構築隊などのほか、農作業手伝い、軍需工場の構内作業手伝い、工場疎開手伝いなどにも駆りだされた。

6月1日予科練教育は正式に中止となった。
全国数万の予科練生は練度によって、次のような本土決戦配置につくこととなった。

回天特攻隊
こう龍特攻隊
海龍特攻隊
震洋特攻隊
伏龍特攻隊
水際特攻隊
陸戦隊
防空隊
陣地構築隊
雑作業隊

いままで各期ごとになっていた分隊編成が解かれ全期混成の戦闘編成になった。
わたしは抜根隊になり、チーフとして4名を引率して吉備高原の奥深い山村に松根油工場の手伝い作業員として派遣された。
その後、7月15日佐伯空配置になり水際特攻の訓練を受けていて終戦となった。

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