日本の原爆開発は、あまり報道されることはない。
里庄町でも仁科博士の原爆研究はタブー視されているような気がする。
あった事を隠すのは今の時代にそむいていると思うが、どうだろう。
中央公論社「昭和時代」より転記
昭和15年夏、理化学研究所の仁科芳雄が陸軍航空技術研究所の安田武雄中将に「あなたがその気なら、私のところで始めてもよい」と伝えた。翌年4月、陸軍は理化学研究所に原爆製造の基礎研究を依頼した。
昭和18年6月、陸軍航空本部の直轄事業として本格化し、仁科博士の頭文字を取って「
二号研究」と言われた。
ウラン濃縮のため高さ6mの熱拡散分離塔が東京駒込に設けられたが、成果をあげないまま春の空襲で焼失した。
ウランの入手も容易でなかった。福島県石川町で地元中学生を動員、採掘を試みたが成果はでなかった。またドイツの鉱山から潜水艦で日本に運ぶ計画もあったが、うまくいかなかった。
陸軍にやや遅れ、海軍も京都大学と連携して核研究に着手した。
湯川秀樹博士も研究チームに参加している。陸軍とは別の遠心分離法を採用したが、分離器の製造段階で挫折した。
ウランを用いた兵器製造が可能なことは雑誌「学生の科学」(昭和19年)にも掲載され国民も知っていた。
いっぽうドイツは原爆製造の可能性を検討したが、実現には至らなかった。ヒトラーの関心が薄かったとされる。
里庄町でも仁科博士の原爆研究はタブー視されているような気がする。
あった事を隠すのは今の時代にそむいていると思うが、どうだろう。
中央公論社「昭和時代」より転記
昭和15年夏、理化学研究所の仁科芳雄が陸軍航空技術研究所の安田武雄中将に「あなたがその気なら、私のところで始めてもよい」と伝えた。翌年4月、陸軍は理化学研究所に原爆製造の基礎研究を依頼した。
昭和18年6月、陸軍航空本部の直轄事業として本格化し、仁科博士の頭文字を取って「
二号研究」と言われた。
ウラン濃縮のため高さ6mの熱拡散分離塔が東京駒込に設けられたが、成果をあげないまま春の空襲で焼失した。
ウランの入手も容易でなかった。福島県石川町で地元中学生を動員、採掘を試みたが成果はでなかった。またドイツの鉱山から潜水艦で日本に運ぶ計画もあったが、うまくいかなかった。
陸軍にやや遅れ、海軍も京都大学と連携して核研究に着手した。
湯川秀樹博士も研究チームに参加している。陸軍とは別の遠心分離法を採用したが、分離器の製造段階で挫折した。
ウランを用いた兵器製造が可能なことは雑誌「学生の科学」(昭和19年)にも掲載され国民も知っていた。
いっぽうドイツは原爆製造の可能性を検討したが、実現には至らなかった。ヒトラーの関心が薄かったとされる。