しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の祭りほか

2015年09月13日 | 父の話
談・2003・10・4


(茂平の祭り)

御船を海に浮べる。西ん谷の山本が波止の端から飛び込んで.
浜から苫無の松原まで、下の海を行きょうた。帰りしなは上の道(土手)を通りょうた。

御船を海に浮かばすゆうことはなかった。
神輿は土手を守ってもらうゆう意味で通りょうた。
新川もそうじゃ。

神楽が無い年は、芝居やこしょうた。
婦人会や青年団や老人会がやりょうた。
すりゃあめんどくさい、それでせんようになった。

御神灯は主な通りにつくりょうた。銅山はどこどこまでと決まっとんじゃ。
前の晩にお宮に参るんで、少しでも道を明るくするゆうんでつけ取る。
各平(カクヒラ)で分かれてつくりょうた。

(10月1日から第一日曜日に変わった事)

用之江と茂平は親類関係が多い。同じ日にすると呼べん、大人も子供も呼ばれりゃ嬉しん。

(注連縄を編む)

当番組がみんなでてやりょうた。そうせにゃあ大きゅうて出来まあ。
昔からようしょうた人でないとわからん。
それでときさんやまあさんが指導してくりょうた。


阿浜(あばはま)

皿山は皿のようなものばっかし作りょうた。
それで皿山ようた。
皿はすり鉢ど。
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「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」③水島空襲の時

2015年09月13日 | 昭和20年(終戦まで)
空襲警報は東京も岡山も広島も無く、攻撃を受けた。
水島にもなかったようだ。当日は日曜日で戦死者は少なかったが、三菱航空機工場は壊滅した。
昭和20年6月22日午前8時すぎ、110機のB29により工場爆撃を受けた。

以下、高梁川56号より転記。

この時の様子を王島山砲台で砲長を務めたK22期の話を紹介する。

聞きなれたB29の爆音が聞こえてきた。
東の方からまっすぐ進行してくるB29の大編隊が目に入った。
空襲だ!
と叫んだがとっさにどうしていいか分からない。5門の高射砲は上を向いたままだ。
「射てぇ!」
先任下士官が号令をかけたが、砲の操作もとっさにできない。

先頭機の機腹から黒いものがぱらぱらと数個落ちた。
一発が倉敷空の兵舎を直撃した。一瞬、兵舎が空中へ吹っ飛ぶのが見えた。
すぐに爆発音と爆風が襲ってきた。

そのとき、きーーーんという爆音が聞こえグラマン戦闘機が1機、山頂よりずっと低い線から砲台めがけて撃ちあげてくる。
夢中で「射て、射てぇ!」と叫びながら高射砲を発射した。だが次の瞬間にはブラマン機銃がばりばりばりと砲台陣地をないで走った。
みんなわっと物陰や壕に飛び込んだ。もう一度来たら逃れようがない。だが敵機はそのまま飛び去った。

小型機は動きが早いから高射砲では照準できない。

グラマンがいなくなったので水島空襲中のB29めがけて発射したが、残念無念届かない。

B29のはるか下のほうで爆煙の花を開くだけだ。
射ちかた止めにして総員退避になった。
王島山山頂から見ると三菱工場からは黒煙が天に立ちのぼり、附属滑走路では出来たばかりの一式攻撃機数機が炎に包まれていた。

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