しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

東京へ行ってきた②陸軍東京第一病院

2018年03月15日 | 平成元年~平成31年
昭和15年、
父は岡山の連隊の陸軍病院から、東京の陸軍第一病院へ搬送された。
その後も二度の出征を経たが、無事95才で人生を終えた。

いつか、その地へ行ってみたいと思っていた。
行っての帰り、ほっとした気持ちになった。

昭和15年東京・戸山 陸軍第一病院



以下柏書房「戦争遺跡の辞典」より転記

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陸軍軍医学校跡地

皇居の北西部に軍事施設が集中している区域がある。

「戸山ヶ原」で、陸軍軍医学校や軍楽学校などの教育施設や傷病将兵の病院、近衛騎兵連隊や蒲鉾型の陸軍射撃練習場、そして山手戦の外側には陸軍技術本部・陸軍科学研究所等があった。


現在、当時の建物や遺構が残っているのは次の通りである。

学習院女子短期大学構内に旧近衛騎兵連隊の赤煉瓦建物が二棟現存している。

戸山教会の土台は、戸山学校の集会所の土台をそのまま利用して造られたものである。

軍楽隊の屋外ステージ跡が戸山公園内に残っている。

陸軍病院内に通じていたという地下道の出入り口は、石垣の補修に寄り注意して見ないとわからいないようにしてしまった。


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東京へ行ってきた①東京湾海堡

2018年03月15日 | 平成元年~平成31年
竹芝桟橋から伊豆大島へ高速ジェット船で行った。
雨の天気だったが、波間に浮かぶ東京湾第二海堡は迫力があった。



できれば、二階席から見たかった。


以下は転記。

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「戦争遺跡の辞典」柏書房

東京湾要塞は、東京湾に侵入しようとする敵戦艦の通行を阻止し、かつ海上からの敵の攻撃に対し、帝都東京および横須賀軍港を護る目的で建設された。
海堡は、海上に築島して、その上に砲台を築いたものである。



「旧軍史跡」現代に遺された戦争遺産より

海堡とは砲台のために海に造った人口島のことである。
2.5キロ間隔で第一・第二・第三海堡が、当時の最先端の技術で造られた。
第二海堡は明治22年から25年の歳月をかけて完成した。
世界的にも最大級の海上要塞。
戦後米軍の爆砕による割れや、
地盤崩壊や浸食などで倒壊が進み、原形を留めない個所もある。
現在入口のほとんどが塞がれている。



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