しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

慰問団と慰安所①

2018年05月17日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の話しでは、
父が北支や中支での野戦中、至るところに「慰問団」が訪れ
至るところに「慰安所」があったそうだ。
これは慰問団の話し


「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記

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それぞれの戦後


山田耕作は1948年脳溢血で倒れた。以後身体が不自由になった。

古賀政男は玉音放送を聞きながら引退を考えたが1946年5月歌謡界に復帰した。
「湯の町エレジー」「無法松の一生」など数々のヒット曲を出し1977年国民栄誉賞を贈られた。

渡辺はま子は慰問中で天津で捕虜。
1946年5月帰国、戦後もヒット曲を生み出した。

東海林太郎は、やくざと兵士ものを多く歌い要注意人物として、レコーディングの機会も阻まれた。1947年復帰、戦前の持ち歌を亡くなるまで直立不動で歌った。

西條八十はある日の新聞に、『比島決戦の歌』で進駐軍によって絞首刑にされるだろうと出た。
GHQはいちばん多く軍歌を書いた作者を調べ上げた。佐々木信綱と西條八十だった。一時、GHQは追放を決定した。しかし佐々木信綱が高齢のため施行されなかった。
石坂洋次郎の「青い山脈」が映画化されることになり、その主題曲を57才の西條八十が作詞した。
「若鷲の歌」で「七つボタンは桜に錨」と制服を歌ったが「古い上着よさようなら」とつづけた。
時代と併走しながら、人々の心に深く届くその時々の言葉を、いつでもやすやすと八十は紡ぎ出した。
「王将」では八十自信を語った。
~吹けば飛ぶよな 将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え
うまれ浪花の 八百八橋 月も知ってる 俺らの心

古関裕而は疎開先で、伊藤久男の様子を心配した。
戦時歌謡を歌いつづけた責任感からアルコール中毒になっていた。
「イヨマンテの夜」でようやく戦後を復活した。
「栄冠は君に輝く」「とんがり帽子」「長崎の鐘」「君の名は」「高原列車は行く」などの他、「東京五輪マーチ」など、戦後も名曲を残した。
戦後壊れても「比島決戦の歌」だけは、放送を許可しなかった。
1989年、没後、国民栄誉賞が内定したが、遺族が辞退した。



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