しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日ソ戦・棄てられた居留民

2022年09月04日 | 昭和20年(戦後)

ソ連は一日も早く、参戦し、日本領の奥まで侵攻しようとした。
日本の政府・軍は、居留民のことは議題にもならず、ソ連軍侵攻即、”棄民”となった。

 

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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

1945年7月5日「対露作戦計画」が決定された。
いよいよとなったら、新京を頂点とし鴨緑江を底辺とする三角形の地域に陣地を築き、長期持久戦に持ち込もうとするものだった。
満州から朝鮮北部に居住していた約180万の日本人にも、この計画は知らされなかった。
したがって、8月にソビエトが侵攻してきたときには
住民の期待を裏切り、軍隊の方が住民より先に移動していて、
「棄民」といわれるような事態が生じる結果となった。

 

 

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「日ソ戦争 1945年8月」 富田武 みすず書房 2020年発行

棄てられた兵士と居留民

1945年5月、ドイツの敗北で日本は同盟国を失い、
連合国が残る一国をいかに降伏させるかに全力集中できたという
絶対的に不利な情勢下で、
二面戦争は何としてでも避けねばならなかった。
しかるに日本は、
4月に日ソ中立条約不延長を通告されたにもかかわらず、
対米英戦争の仲介を依頼しようと絶望的な努力を続けた。
そして7月、
ポツダム宣言を受諾可能と表明すべきところ、抗戦派の圧力下で「黙殺」報道によって原爆投下を急がせ、ソ連の参戦口実を与えた。

ソ連は「ソ連参戦前の日本降伏」は権益確保が困難になるので、参戦を急いだ。
参戦日を繰り上げ「電撃戦」的勝利で満州、南樺太、千島を、それに北朝鮮まで制圧したのである。

およそ日本の政府・軍部には、国力を見極め、国際関係を見通して、
戦争をどのように進め、終わらせるか、
そのための外交的方策は何か
といった政・戦略がなく、ドイツ頼みの他力本願的な期待を持つにすぎなかった。


関東軍は惨めな敗北を喫したのだが、
出さずに済んだかもしれない大量の犠牲者を生み出した。
国境要塞地帯から作戦変更による、守備隊の見殺し。
対戦車特攻は「棄兵」そのものだった。
開拓団に無通告、
なおかつ都市部に避難してきた彼らの列車輸送の後回しは「棄民」に他ならない。

関東軍首脳の責任は免れないが、兵士も開拓民も、
長年の軍国主義教育の結果として「お国のために死ぬのは本望」
「敵の手にかかるよりは自決する」という建前と心情に囚われていたことを指摘せざるを得ない。

集団自決は終戦時には珍しくなかったが、生き残っても書き残す人はいない。
これが日ソ戦争の真実の一端である。

 

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棄てられた「臣民」は、日ソ戦争だけではなかった。
終戦時、帝国臣民であった朝鮮人も台湾人も棄てられた。
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「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

「民間人の切り捨て」指示

当時、満州国を含めた中国や東南アジアの占領地は大東亜省の管轄下であった。
日本軍の武装解除と復員については大本営の指令によって行われるが、
民間人は大東亜省の出先機関に委ねられていたのである。
広大な地域に300万を超す日本軍がいて、
300万を超す民間人も同じように各地域に散らばっていた。
とくに日本政府の保護が及ばなくなる民間人の取り扱いが大きな問題になることは明らかであった。
 
大東亜省は「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」とされた。
事実上の民間人の切り捨てを行ったのである。
また朝鮮人と台湾人について「追って何等の指示」を出さないま彼らに対する保護責任は連合国側へ丸投げされた。
「帝国臣民」であった朝鮮人や台湾人の生命財産の保護を日本政府が実質的に放擲したものとなった。
天皇が語り掛けた「帝国臣民」は、
「内鮮一如」「一視同仁」といったスローガンのもとに皇民化され
「帝国臣民」になっていた朝鮮人や台湾人やその他の少数民族は含まれていなかったのである。


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9月3日  ロシアの「対日戦勝記念日」

2022年09月04日 | 昭和20年(戦後)

日本の書物では、
日ソ中立条約を突然破棄して攻め込んだ
終戦後も攻撃した
シベリアへ60万人抑留した
と書かれているが、
ロシアでは、”侵攻”でなく”解放”と書かれているようだ。


山陽新聞・記事(2022.9.4)

ロシアが太平洋戦争での対日戦勝記念日としている3日、
北方領土の択捉島や国後島、色丹島で記念行事が行われた。
ロシアは旧ソ連が日本統治下の満州や樺太南部、千島列島に侵攻したことを
「軍国主義からの解放」
と位置付けており、実効支配を誇示した。
ロシアは米戦艦ミズーリで降伏文書に調印した9月2日を大戦終結の日と定めたが、
2020年になって
9月3日を「対日戦勝記念日」に変更した。

 

(朝日新聞web 戦勝記念パレード 2022.9.4)

 

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「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

樺太

昭和20年8月11日、ソ連軍は本格的な攻撃を開始した。
8月14日午後6時、ポツダム宣言受諾が伝えられた。
ソ連軍の攻撃は依然として激しく続き、16日夕になって古屯は占領された。
第八八師団は、停戦と戦闘という相反する命令によって現場で混乱が生じていた。
8月17日太平洋炭鉱病院の看護婦による集団自決が起きている。
8月20日未明、要港であった真岡に艦砲射撃を加えた後、上陸しその日のうちに制圧した。
真岡から豊原に進撃を続け、23日まで激戦が続いた。


北千島

8月18日未明、今度は北千島の占守島に上陸したとの報がもたらされた。
千島攻略にとりかかったのである。
占守島での戦闘は21日の停戦まで続いた。

 

北海道の占領要求

8月16日スターリンは、
日本の降伏地域に、千島列島全部を含めること、
釧路と留萌を結ぶ線以北の北海道を含めること
を要求した。
北海道占領を求める根拠は、
1918年から22年にわたった日本軍が行ったシベリア出兵の代償であると主張した。
トルーマンは、
全千島をソ連軍の担当とすることを認める一方、
北海道占領は拒絶する返信をした。
ヤルタ協定で千島列島をソ連に引き渡すことを取り決めている以上、拒絶することは困難であった。

 

在留日本人

ソ連は在留日本人の送還にはまったく興味を示さなかった。
反面、在留邦人に対して
ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与えた。
実生活の面では大きな違いはほとんどなかった。
学校も、神社も、日本人の習慣に対して寛容であった。
ロシア人の間では、日本人がソ連国民になると見ていたようで、
多民族国家であるソ連にとって、とくに日本人を外国人扱いして排除する必要性もなかった。
樺太は米を生産できなかったので、ソ連は満州や北朝鮮から、米や大豆を移入し日本人へ配給した。

 

「引揚」

米国は、占領地や植民地に在住する日本人を本国へ送還することにこだわっていたが、
ソ連は逆に日本人の送還に無関心であった。
しかし日本人は、日本への引揚を望み、日本政府もGHQに促進を働き掛けた。
1949年7月の第五次引揚までに292.550人が引揚げた。
共産主義国家ソ連の内実を実体験を通じてもっとも知っていたのは彼らだった。
しかし彼らの生活者の目線は、戦後日本社会で理解されることはなかった。
樺太には敗戦時に約23.500人にのぼる朝鮮人がいた。
ソ連は国交を結んでいる北朝鮮への帰国は認めていた。
しかし彼らの多くは南朝鮮出身者であり、韓国への帰国を希望した。
彼らの多くは帰国できず、
1990年の韓ソ国交樹立まで待たねばならなかった。

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