しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠井信一

2022年11月21日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区丸の内 (烏城公園)

 

 

山陽路に聳えていた岡山城と福山城の天守閣は、その時期をほぼ同じくして、

昭和20年に米軍の空襲で焼失。

昭和41年前後、コンクリートで天守閣再建。

令和4年、改修工事が完成しお披露目。

 

岡山城天守閣は金の鯱が、いっそう光り輝いている。

 

 

 

その烏城天守閣の石垣の前に笠井信一・元岡山県知事の銅像が建つ。

笠井知事は戦前、貧民救済に尽力し、今も県政に名を残している。

 


笠井信一

(Wikipedia)


笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。

経歴
静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。
静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。
1893年2月、内務省に入り、内務属として警保局に配属された。
1907年1月、岩手県知事に就任。
1913年3月、地元出身初の静岡県知事に就任。
1914年6月、岡山県知事に転じた。
1917年5月、後の民生委員制度の先駆となる済世顧問制度を制定した。
1919年4月、北海道庁長官に就任。
1921年5月、貴族院勅選議員に任じられ、交友倶楽部に属し死去するまで在任した。

 

撮影日・2022.11.13

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒正巌先生

2022年11月21日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区津島 岡山大学構内

 

(岡山県の紅葉名所・岡大のイチョウ並木)

 

戦前、中国・四国には帝国大学がない地域だった。
そんななか、岡山県民が郷土自慢に話す学校が二つあり、
それが「六高(ろっこう)と医大がある」岡山県。

黒正巌先生のことは知らないので、碑文を丸写しする。
先生は六高の校長先生で、
終戦後に聯隊の敷地を教育施設へ変換に功績があった人。

 

(イチョウ並木の突当りに岡山大学図書館があり、その前に胸像が建つ)

 


黒正巌先生


岡山大学創設功労者である先生は、
昭和19年六高校長になられ、戦火に焼失した校舎を復興され、
またこの岡山に中国総合大学を新設する構想を立てられ、
進駐軍より旧陸軍用地25万坪と建物5万坪を接収するや即夜六高生250名を移して分校を置き県立農専の応援を得て、
この広大な敷地を確保し開学に努力されました。
先生は昭和24年9月、脳出血にて急逝されました。
13回忌を偲び岡大教官六高卒業生らにより建像した。

 

(それが黒正巌先生)

 

 

撮影日・2022.11.13

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする