しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陽明丸とシベリア出兵②当時のロシア 「軍国日本の興亡」より

2022年12月22日 | 大正

猪木正道先生は、当時の状況をどのように書いているのだろうか?

・・・

 

(山県有朋像)



中公新書 「軍国日本の興亡」 猪木正道 1995年



(1914年)
ヨーロッパ列強が世界大戦に突入した時、大隈内閣の加藤高明外相は、日英同盟を口実にドイツと戦争する心組だった。

英国大使より援助を求められ、渡りに船と喜び、翌8月7日「英国の請求に応じ、ドイツと開戦する」と英国に申し入れた。
しかし英国は8月11日、日本の申し入れを正式に謝絶した。
日本は対独戦争の方針を改めず、8月23日最後通牒を発した。
8月27日久留米の第18師団が青島攻略を命ぜられた。
日本軍が青島へ進撃する際、山東鉄道を押収したので、中国は日本に抗議した。
日本は中国に対し翌年1月「21ヶ条の要求」をつきつけた。

(1917年)
11月、ソビエト政府の成立を宣言。翌年3月ドイツと単独講和を結ぶ。
ソビエトは首都ペトログラードで勝利したのであって、ロシア全土を制圧したのではなかった。
危険な共産党政権を双葉のうちに打倒しようと、英国、フランスなどは軍隊を派遣して武力干渉を開始した。
ロシア国内では反革命派もいたるところで立ち上がり、ロシアは1921年末まで、外国からの武力干渉と内乱に悩まされた。

(1918年)

英仏両国は日本に対してしきりにシベリアへの出兵を要請してきた。
シベリアで苦戦しているチェコ軍を救援するためである。
寺内首相は元老山県有朋に警告されて出兵に賛成しなかった。

山県は4月24日に次の警告を発している。
「今日本がシベリアに出兵して、はたして勝利を達しうる成算ありや。
戦線は拡張し、深く露国に侵入する必要を感ずる。
現在にしても、米穀の不足を感じ、非常の高値を出している。
これが出兵などという場合になりて、はたして食物の供給に差し支えなきや」

元老が明治維新以来の苦しい経験により、対外関係ではきわめて慎重であったのに対して、新世代に属する外相は概して強硬であった。

7月、米国は日本に、チェコ軍救援のため共同出兵を提案した。
山県や原敬のような出兵反対論者も、共同ならば異存はないということになった。
8月、日・米・加・伊・英が派遣した。
翌1920年9月まで、チェコ軍救援は達成された。

(1920年)
1月米国は撤兵を通告してきた。
日本は、撤兵の機会を逸し、パルチザンと呼ばれた現地民のゲリラ活動に悩まされた。

(1921年)
5月25日~27日、尼港虐殺事件が起こっている。

(1922年)
6月12日、加藤友三郎内閣が成立して撤兵に決し、10月完全に撤兵することができた。

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シベリア出兵によって、多い時には7万3000の大軍がシベリアに駐屯し、10億の戦費も無駄使いに終わった。
日本以外にもソビエト・ロシアに武力干渉した国は少なくないが、一番長く居座って、国際的に悪評を受けたのは日本であった。

 

 

画像・2022.12.19 山口県萩市

 

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毛利元就「三矢の訓像」

2022年12月22日 | 銅像の人

場所・山口県萩市江向 萩市民会館前

 

三矢の訓は、小学校の6年生の頃学校で習った記憶がある。

有名な訓話で、日本人なら誰でも知っている訓話の一つ。

なんとなくその場所は安芸高田をイメージしていたが、萩市の市民会館前に像があった。

 


【萩市観光公式サイト】


毛利元就の逸話「三矢の訓え」

「三矢の訓え」は、萩城を築いた毛利輝元の祖父・元就が、三人の息子(隆元、元春、隆景)にあてた教訓状をもとに作られた説話です。
元就が息子たちに書状を送った年(弘治3年(1557))は、
大内氏を倒した陶晴賢・大内義長の軍勢を打ち滅ぼし、防長両国を支配下に置いた年であり、
大内氏に代わって中国地方から北九州にかけて大きな勢力を持つ戦国大名にのし上がるきっかけを作った年でした。
大きくなればなるほど一族間での争いが生じることは戦国の世の常である。
毛利家の将来のため、一家の頭領として三人の子どもに一致団結を切々と説き
「1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめて束にすれば折れない。それと同じように、3人が力を合わせれば、誰にも負けることはない」
と諭したと伝承されています。

萩市民館前に建つこの銅像は、萩出身の彫刻家・長嶺武四郎が製作したものです。
また、城下町建設の測量起点にした基準石である「萩城下街割原標石」が市民館の西側に残っています。

 

撮影日・2022.12.19

 

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杉山岩三郎

2022年12月22日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区幸町 下石井公園

 

 

「おかやまインターパークス里丘」のイルミネーションを見に行った。

会場に胸像があった。

杉山岩三郎翁の胸像とあるが、今日の今日まで翁の名は知らなかった。

 

 


【コトバンク】

杉山岩三郎(すぎやま・いわさぶろう)


1841-1913 明治時代の実業家。
天保(てんぽう)12年8月15日生まれ。
岡山県典事,島根県権(ごんの)参事をつとめる。
明治5年郷里の岡山にかえり,士族授産のため,第二十二国立銀行や岡山紡績所などの創立にくわわる。
28年中国鉄道社長。
備前西郷と称された。
大正2年7月18日死去。
73歳。
本姓は中川。名は厚。

 

 

撮影日・2022.12.19

 

 

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