猪木正道先生は、当時の状況をどのように書いているのだろうか?
・・・
(山県有朋像)
中公新書 「軍国日本の興亡」 猪木正道 1995年
(1914年)
ヨーロッパ列強が世界大戦に突入した時、大隈内閣の加藤高明外相は、日英同盟を口実にドイツと戦争する心組だった。
英国大使より援助を求められ、渡りに船と喜び、翌8月7日「英国の請求に応じ、ドイツと開戦する」と英国に申し入れた。
しかし英国は8月11日、日本の申し入れを正式に謝絶した。
日本は対独戦争の方針を改めず、8月23日最後通牒を発した。
8月27日久留米の第18師団が青島攻略を命ぜられた。
日本軍が青島へ進撃する際、山東鉄道を押収したので、中国は日本に抗議した。
日本は中国に対し翌年1月「21ヶ条の要求」をつきつけた。
(1917年)
11月、ソビエト政府の成立を宣言。翌年3月ドイツと単独講和を結ぶ。
ソビエトは首都ペトログラードで勝利したのであって、ロシア全土を制圧したのではなかった。
危険な共産党政権を双葉のうちに打倒しようと、英国、フランスなどは軍隊を派遣して武力干渉を開始した。
ロシア国内では反革命派もいたるところで立ち上がり、ロシアは1921年末まで、外国からの武力干渉と内乱に悩まされた。
(1918年)
英仏両国は日本に対してしきりにシベリアへの出兵を要請してきた。
シベリアで苦戦しているチェコ軍を救援するためである。
寺内首相は元老山県有朋に警告されて出兵に賛成しなかった。
山県は4月24日に次の警告を発している。
「今日本がシベリアに出兵して、はたして勝利を達しうる成算ありや。
戦線は拡張し、深く露国に侵入する必要を感ずる。
現在にしても、米穀の不足を感じ、非常の高値を出している。
これが出兵などという場合になりて、はたして食物の供給に差し支えなきや」
元老が明治維新以来の苦しい経験により、対外関係ではきわめて慎重であったのに対して、新世代に属する外相は概して強硬であった。
7月、米国は日本に、チェコ軍救援のため共同出兵を提案した。
山県や原敬のような出兵反対論者も、共同ならば異存はないということになった。
8月、日・米・加・伊・英が派遣した。
翌1920年9月まで、チェコ軍救援は達成された。
(1920年)
1月米国は撤兵を通告してきた。
日本は、撤兵の機会を逸し、パルチザンと呼ばれた現地民のゲリラ活動に悩まされた。
(1921年)
5月25日~27日、尼港虐殺事件が起こっている。
(1922年)
6月12日、加藤友三郎内閣が成立して撤兵に決し、10月完全に撤兵することができた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シベリア出兵によって、多い時には7万3000の大軍がシベリアに駐屯し、10億の戦費も無駄使いに終わった。
日本以外にもソビエト・ロシアに武力干渉した国は少なくないが、一番長く居座って、国際的に悪評を受けたのは日本であった。
画像・2022.12.19 山口県萩市