笠岡商業学校は、岡山県で二番目に古い伝統校だが、
戦時中には無理やり「笠岡工業学校」に転換させられた。
戦後は”商業”と”工業”を持つ「笠岡商工高校」時代が昭和36年までつづいた。
その間、新制高校誕生時には、いっとき近接する笠岡高校と統合していた。
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「笠商70年史」 吸江会 昭和46年発行
昭和5年11月13日 大演習及び観兵式拝観部隊の編成を行う
昭和5年11月15日 特別大演習を見学する(金光付近)
昭和5年11月17日 観兵式を陪観する
昭和8年12月23日 皇太子御降誕奉祝会を行う
昭和14年4月5日 報国農園を設定する(笠岡町2段3畝、金浦町2段2畝)
昭和15年11月10日 紀元二千六百年記念式典を行う、式後全校旗行列を挙行す、
記念事業として大井村に2段3畝の造林を行う
昭和18年9月27日 予科練他軍関係に多数の生徒が志願して転出する
昭和18年12月27日 特別措置による繰上卒業式を挙行する
昭和19年4月1日 工業学校に転換、校名を笠岡工業とし、機械科定員600名となる
昭和20年2月9日 呉海軍工廠造機部を誘致して学校工場化を契約する
昭和20年3月28日 戦時特別措置として四年制度となる
昭和20年7月5日 工作機械の搬入を終了する
昭和21年4月1日 商業学校と工業学校を併置して夫々約100名の第一学年の新入生を募集する
昭和22年4月1日 学制改革により募集停止
昭和23年4月1日 笠岡第一高等学校と改称し、商業・工業・普通の三科を設け、定時制商業科をも併置する
昭和24年9月1日 笠岡第二高等学校と合併して笠岡高等学校と改称し、吸江校舎、千鳥校舎の二校舎となる
昭和25年4月1日 商業・機械の2課程を置き、定時制商業課程を併置する。
商業課程の定員200名となる。
学区制が設定せられ男女共学になる。
昭和28年4月1日 吸江校舎・千鳥校舎を分離独立して、
笠岡商工高等学校と改称し、商業・機械の二課程を設置する
昭和36年4月1日 工業課程を分離して、笠岡商業高等学校と改称する
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「笠商70年史」 吸江会 昭和46年発行
元教頭
(「私の回顧録」に代えて)
昭和21年度学事報告
戦時中、国家の要請により昭和18年工業学校に転換いたしました。
終戦にともない昨年4月より生徒定員500名として、元の商業学校に復活いたし今日に及んでいる次第であります。
本年度卒業生は98名でありますが、
入学致しましたのは昭和17年4月5日216名でありました。
勉学運動にいそしむことは少なく、
農繁期の食糧増産、肥料の増産、
心身の鍛錬規律の訓練、
昭和19年3年に進級したが、遂に学徒の動員を見るに至ったのです。
この3年生から上級生の後を追って三菱重工業の水島製作所に動員されました。
昭和20年第4学年に進級したものは181名でした。
終戦の下りで、14ヶ月振りに学校へ帰ってきたわけでありますが、
工員風が沁み込んでいるものも幾分ありました。
尚3年及び4年在学中終戦までに予科練または特幹等に入隊した者が系計16名ありました。
これら軍関係に入ったものは次々に復校致しこの学年より上級生をも加えまして52名の多数に上ったのであります。
加えて疎開の為転入学者が8名ありました。
昨年度は戦時中の学生改革により4ヶ年をもって卒業するのが本体でありましたが、
過渡期の措置として卒業するもまたは5年に進級するも、それは本人の希望によることになりまして、
結局227名のうち、
卒業した人が130名、5年に進級したものが95名、2名休学。
そして5年になりましてから更に復員復校したものありまして99名が本年度初めの在籍数でありました。
尚本年度は5ヶ年皆勤、精勤のものが1名もいませんが、動員関係のためこれが皆無になりましたことは遺憾に存じます次第でございます。
卒業後の志望は、
就職者50名、内訳は銀行38名、会社11名、官庁1名。
上級学校進学志望者が22名、自家営業12名、他。
昭和17年4月入学以来今日までの、あわただしい5ヶ年を顧みまして、
このクラスは一番太平洋戦争に因縁の深い組でありまして、
学業の上においては最も大きないわば戦災をこうむったものであります。
あとがき---
笠商在籍11年を振り返り、このもっとも激動した日本の歩みの中で
ここに述べた昭和22年3月の卒業生の歩みは私にとってもわすれることが出来ない深い思いでがいっぱいありすので、
ここにこの学事報告を当時をしのぶよすがとも思い、
あえて原文のまま載せていただき、わたくしの「回顧録」に代えさせていtだきますのでご諒承を願います(1971.10.14)
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「笠商70年史」 吸江会 昭和46年発行
元教諭
思い出
昭和20年8月笠商へ赴任しました。
就任2週間後に終戦になり、
極度に緊張した息詰まる焦燥感から解放されたあの時の異様な感情、
それに続く虚脱放心の状態、物資欠乏の窮状など
当時の余りにも厳しかった思い出は忘れようとしても忘れることはできません。
校庭は耕されて畠に変わりました。
紙や印刷の粗末な教科書、
試験問題を印刷する原紙もなく問題を板書したので出題にも一苦労でした。
答案用紙もなく、古い答案の裏を使ったものです。
寒くなっても職員室にはストーブがなく、職員が交代で木をひいて燃料をつくってたいたので天井はすっかりすすぼけてしまいました。
弁当の盗難、職員のオーバーの盗難、ないないずくしの連続で明け暮れたひどい時代でした。
そういう中に徐々に新教育の精神が確立し、
新制高校への移行統合など激しい陣痛によって現代の笠商は誕生したのです。
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「笠商百周年記念史」
昭和21年8月23日 奉安殿の破壊作業始まる。
この日まで我々は朝夕礼拝していた。教育の基本理念もここに一大転換を遂げたのである。
昭和22年4月 新制中学校が誕生。本校は第一学年募集停止。併設中学校を設置。
昭和23年4月 新制高等学校発足。「岡山県立笠岡第一高等学校」。
発足したばかりの新制高校ではありましたが、早々に再編成への動きをみせます。
それはGHQの戦後の教育改革の理念である「総合制・学区制・男女共学制」の三原則を満足させるものではなかったからです。
実情は、旧制中学校の校名を変えただけでそのまま新制高校へ移行させたケースがほとんどでした。
1・校名、学校差がないことを示すため一高、二高などのナンバー制にしない。
2・職業課程を示す名称はつけない。
3・男女の教育機会均等のため性別校名にしない。
軍政部の強い勧告を受け本校も、
昭和25年4月の入学式で51名の女子生徒を迎え入れます。
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