しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

男女共学②昭和22年男女共学前夜(旧制・笠岡高女の場合)

2023年05月21日 | 学制150年

戦前社会は男尊女卑といいながらも、小さな町にも高等女学校が多く、そこは女性の方が恵まれていたようにも思う。


笠岡高校は、旧制笠岡高等女学校が学制改革により昭和23年4月誕生した。
その時の校名は笠岡第二高校(第一高校は笠岡商工)で、55名の男子生徒が誕生した。
日本が
もっとも貧しい時代だったが、
もっとも新時代を感じる時代だった。
写真でも、貧しさよりも明るさを感じる。
もっとも、同時代の高校進学率は30%弱であろうから、恵まれたひとたちでもある。

 

時代の混乱(戦争と教育改革)で

昭和8年(昭和8.4~昭和9.3)に笠岡町で生まれ、笠岡女学校に進学した女性は、学生改革のど真ん中にあたる。
女学校に入学し、6年後に卒業する時は男女共学。
学校名は、5回変わっている。

笠岡高女→附属中→第二高校→笠岡高千鳥校舎→笠岡高


昭和15年4月 笠岡女子尋常小学校・入学(尋常1年生)
昭和16年4月 笠岡女子国民学校 (国民2年生)
昭和20年3月 笠岡女子国民学校・卒業
昭和20年4月 笠岡高等女学校・入学 (女学校1年生)
昭和22年4月 笠岡高等女学校・付属中学生 (中学3年生)
昭和23年4月 笠岡第二高等学校 (高校1年生)
昭和23年9月 笠岡高等学校千鳥校舎
昭和24年4月 笠岡高等学校 (高校2年生)
昭和25年4月 笠岡高等学校 (高校3年生)
昭和26年3月 笠岡高等学校(第二回)・卒業  内訳・男子54名 女子 230名


・・・

 

笠岡高校70年史」 笠岡高校  昭和47年発行

(笠岡高等女学校「報国隊」)

・・・


笠岡女学校・和20年卒手記  (O子)

昭和19年6月、私たち4年生にも動員令が下った。
昭和20年の新年を迎えたころから、敵機の襲来の数が増した。
がんばっている私たちに、予想もしなかったショック的な知らせが報じられた。
それは4年生で学校の終了課程を終えるということだった。
仕事をしながらも、書物をひもとき、友だち同志で研究はしあっていたけれでも、
もう一度、千鳥ケ丘の教室で勉強したいと思った。
もう少し、女学生生活を明るく楽しいものにしたかったと願ったが、それは時世的にもゆるされなかった。
万寿工場の川べりの柳の芽がふくらみかけた昭和20年3月31日、
動員生徒の合同卒業式が、三菱重工業水島製作所の講堂で行われた。

 

・・・

 

 

(高島宮敷地作業)

・・

千鳥2600年奉祝号
規律
毎日早起きを励行し宮城を遥拝しませう。
登校下校の際は颯爽たる正常歩で左側通行を厳守致しませう。

・・・
昭和20年9月12日  開墾、製塩、運動場整地
    9月28日 吉田村開墾開始


・・・

昭和20年度 生徒移動数(1.2.3.4年生)
     一学期開始 745
     三学期末  862
     転出 53
     転入187
転入内訳 岡山県45 大阪府32 神戸市23 朝鮮23 東京14 広島市7 ほか

・・・

「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行


学校では空襲にそなえて退避壕がほられた。岡山県内へ縁故疎開してくる児童生徒は日を追って増加した。
あいた校舎は工場や軍の施設として使用されることになった。
昭和20年4月以降の学校は軍隊か工場に使用され、
まるで、学校が校舎を借用しているかのようであった。

 

・・・

「笠岡高校70年史」 笠岡高校  昭和47年発行

昭和22年4月新制中学校が発足したため、第一学年の募集が停止された。

・・・

「戦後教育史」  小国喜弘 中公新書 2023年発行


六・三制

戦前の教育制度は、
男女別が原則であり、一緒に学ぶのは小学校のみであり、
その小学校もしばしば高学年では男女別に学級を編成した。

男女共学
国民学校は共学だったが、
中等学校に進学できるのは男子のみ、
女子の進学可能だったのは高等女学校から女子専門学校であり、
女子の進学を認めていた大学は、東北帝大・早稲田大など一部にすぎなかった。
教育基本法で「男女は、互いに尊重し、協力しあわないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない」と男女共学の原則が定められた。

女子の高等女学校の上級学校進学率は文部省でも調査してなく、統計がなかった。
戦前は、国としても女子の上級学校進学について考えていなかったのである。
女子の高等教育進学の権利がいかに文部行政の下で軽視されていたのかを端的に物語る。

・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真備町「岡田更生館事件」その5・・・「ゆうれい人口撲滅せよ」

2023年05月21日 | 昭和21年~25年

真備町岡田は、静かな田園都市だが、けっこう全国的にも知られている。
その訳は、名探偵・金田一耕助氏がこの地で横溝正史により誕生したから。

横溝正史は、昭和20年4月から約3年半、真備町岡田に疎開し、家族とともに暮らした。
そしてかの有名な名探偵・金田一耕助が真備町岡田で誕生した。

「岡田更生館事件」が起こった時と2年間重なっている。
”金田一さん”も、この事件を見ていたのかもしれない。

 

・・・

 

(角川文庫「犬神家の一族」)

・・・


「続・ぼっこう横丁」  岡長平 岡山日日新聞社 昭和47年発行

捨子
捨子も大流行した。
食うために肉を売ったその因果の報いよりは、
痴情のはてのテテ(父)無し子が多いので、問題になっている。

刑務所
強盗が馬鹿に増えてきた。
とらえてみれば、ほとんどが引揚者の旧軍人ばかりである。
食う物も着る物もないのでつい出来心の俄強盗なんだ。
刑務所は満員だと新聞は報じている。

性の恐怖
闇の女のばら蒔く病毒で岡山でも一か月に千人以上の罹患者が現れだした。
とうとう9月1日から性病予防法が実施されることになった。
性病中の売淫は2年以下の懲役、1万円以下の罰金。
性病者はキッス厳禁。
・・・どれだけ利き目があったか。

岡山駅前には浮浪者が横臥
終戦後三度目の正月を迎えた。
6月29日の戦災記念日には、その後のたくましい再建岡山の歩みを発表している。
昭和20年5月 戸数 38.500、人口 164.000
昭和20年戦災直後 戸数 13.500 人口 88.300
昭和23年5月 戸数 28.400 人口 140.000
六・三制への整備費(新制中学)の起債は各学区の割り当てでまとまった。

8月22日の山陽新聞に「岡山の玄関から浮浪者群一掃」という見出しで、
駅前広場、車道、植込み、安全地帯へかけて毎晩、数百名の浮浪者が足の踏み込めぬほど横臥し、無料宿泊所になっているので一斉検挙を行った。
家出娘、街の与太者、不良少年、スリなどの多数前科者を連行しているが
これらは中筋を背景とする悪の温床なのだった。
そのうえ5月6日の新聞には岡山駅へ毎日数人の戦災孤児の流れ込む日本版「家なき子」の記事を載せている。

この浮浪者や戦災孤児は、むろん前記の「常住人口」の中にはおらない。
あの人口は「米穀通帳」によったものと思われる。
そうすると全然アテにならない。
5月7日の新聞に「ゆうれ人口撲滅せよ」と農林省が全国へ指令した旨を書いている。
その推定人口は60万人を越え、東京だけでも悠に10万人以上の見込みだと言っている。

 

・・・

 

「戦後教育史」  小国喜弘 中公新書 2023年発行

 

焼け跡

街を放浪する浮浪児は、1947年時点で全国で約7.000名いた。

一般的に浮浪児は戦災で身寄りをなくした孤児とされるが、

家出児童も多かった。

背景には戦争で兵士としての心の傷を負った父親たちによる家庭内虐待があったとされる。

さらに、親たちによる少年少女の身売りも1950年代を通じてしばしば新聞を賑わした。

家庭があっても栄養状態すらままならなかった。

子どもたちは弁当を持っていける子どもばかりでなく、

弁当泥棒・弁当強盗に気をつけなければならなかった。

 

浮浪児たち

靴磨き、新聞売り、煙草巻き、闇屋の使い走り、街頭売春婦の客引きなどに従事する彼らは

「成人の給料生活者の何倍かにおよぶ」収入を得

「外食券の闇買して白米の上に車エビの天麩羅の載った天丼を食べ」

あるいは、

「ほんもののチョコレエト、チューインガムの類を間食」を間食し、

児童保護施設に収容されても繰り返し脱走する者もいた。

 

(戦災孤児たち 東京・上野 1948.5)

 

・・・

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする