しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

男女共学⑧井原実業(精研高校)の場合

2023年05月24日 | 学制150年

六・三制度が始まる前の中等教育機関は、
男子校や女子校が大半だったが、男女がいる学校もあった。

 

父は岡山県小田郡から広島県深安郡にある、「神辺実業」学校に通った。(片道15km)
・・・


父の話・2002年4月6日

(女生徒はいたのか?)
おった。
女(おなご)は女子部で校舎が違うとった。
男の校舎は北側、女の校舎は南側。
女がエエ南側じゃった。
家庭科じゃ。男は農業科じゃ。


・・・


同じ学校の同じ敷地でも、男女間の交流は・・・運動会など含めても・・・たぶん、全くなかったようだ。

精研高校が実業学校時代も、”共学”の面では神辺実業とほぼ同じと思える。
これで”共学”といえるかどうか不明だが、校内に彩があったのは確かなような気がする。

 

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「精研 六十年の歩み」 精研高校 平成7年発行

 

 

(昭和19年3月第一回卒業生)

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昭和21年家政科卒・在校生だった4年間

入学した時は、すでに第二次大戦が始まっていました。
唐鍬をかついで、尾根づたいに上野の山の開墾にかよいました。
校庭で育てた薩摩芋の苗を植えたのです。
母の着物で作ったモンペをはき、藁草履をはいた姿です。
3年生の時は、学徒動員で航空機の生産に励みました。
凍りついた様な工場でジェラルミンを削りました。
足が冷たくなっても履く靴下もなく、はぎれで足袋を手縫いしたものです。
小さな防空壕に避難して、敵機が飛んでいくのを見た日もあります。
食べ物も少なく、ひもじい思いを随分味わいました。

4年生の8月に終戦を迎えました。
図書室に少しばかっかりあった本を、焼却処分しなければならない命令で、
あの本がほしい、とジーっと見つめていました。
卒業はしたもの、
「思いきり勉強したい!」という夢が消えませんでした。

 

・・・

 

終戦の詔勅を受けて、学徒動員、防空演習などが即刻廃止され、
銃器、連合軍を敵視したビラ、ポスターの撤去などが急いで進められ、授業が再開される。
昭和20年9月15日、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表し、
この方針に基づき、銃剣道や教練などの軍事教育の学科が廃止され、
昭和21年1月には修身、日本歴史及び地理の教科書は回収され、
他の教科書も軍国主義的記述は墨で塗りつぶされた。
また奉安殿は撤去され、教育勅語の奉読も中止された。

昭和21年3月後月実業学校は後月農学校と改称した、
昭和22年4月学制改革により付属中学を設け、2.3年生は付属中学の所属となった。
昭和23年4月井原高等学校芳井校舎となり、8年間の幕を閉じることになる。
昭和24年3月井原実業学校として独立認可。
昭和24年5月井原実業高等学校芳井分校となる。
昭和25年2月精研高等学校芳井分校に校名変更。

・・・

(年度不明)

 

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「精研 六十年の歩み」 精研高校 平成7年発行
旧職員

昭和20年7月1日付で後月農学校に奉職することになりました。
8月15日、終戦。1億国民茫然自失、全く虚脱状態でした。
国民生活は窮乏のどん底で食べることにも事欠く有様で、
食糧増産が唯一の目標でした。
生徒は男女を問わず、毎日勤労作業に追われて、
農園作業に、開墾作業にと明け暮れました。
民主主義の理念もまだ不鮮明な中から、新制中学校の誕生、あい住まいを余儀なくされ、窮屈な時代を過ごしたこともありました。
続いて新制高等学校の誕生で、後月農学校は自然閉鎖、井原高等学校芳井分校の誕生、
さらには精研高校芳井教室となりましたが、昭和37年井原校舎へ統合されました。

・・・

 

 

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男女共学⑦井原高校の場合

2023年05月24日 | 学制150年

井原高校は昭和23年4月1日設立され、
翌、昭和24年3月が第1回卒業生。
(昭和24年3月)第一回卒業生は、井原高女5年+井原高1年=6年間就学
(昭和25年3月)第二回卒業生は、井原高女4年+井原高2年=6年間就学
(昭和26年3月)第三回卒業生は、井原高女2年+中学1年+井原高3年=6年間就学
(昭和27年3月)第四回卒業生は、井原高女1+中学2年+井原高3年=6年間就学
(昭和28年3月)第五回卒業生は、井原高3年=3年間就学

誕生した高校は、旧制中等学校の当時の4年生、5年生が、そのまま新制高校に進み、
看板だけ変えた面があった。
全国の新制高校にいえるが
事実上、初めての入学試験があった昭和25年4月入学(第五回卒業生)が、
新制高校のスタートだった。
男女共学のスタートも、その時から。

 

 

・・・

 

「創立100周年記念誌 萩の道」  井原高校 2004年発行

 


女学校最後の入学生
昭和27年卒


終戦の翌年、女学校最後の入学生です。
それは初めて女性が選挙に参加し、投票できた年でもありました。
最初にいただいた教科書は、今の新聞紙に一日分くらいの印刷物で、
それを各自切って折りたたみ、製本しました。
数ある楽しい思い出のトップは、映画鑑賞です。
先生の引率で、長蛇の列を成して、町内の映画館へ行くのでした。
「青い山脈」「秀子の応援団長」「銀座カンカン娘」等々・・・。
食糧の乏しい時代なればこそ、一層、健全な映画で精神のやすらぎと充実感を味わったのです。
高2になって新入生を迎えた時は感激でした。
6・3・3制への移行で、
3年間新入生を迎えないまま、年毎に先輩は卒業され、在校生は減少するばかりで、
5年目にしてやっと上級生になれた喜びは大きく、思わず顔がほころびました。
又、開校以来の”女の園”へ異色の男子学生の御入校と遭って、俄然、活気が張り、
そのかもしだす雰囲気に心弾んだのを覚えております。

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 【男女共学に再編成】


昭和24年8月31日、男女共学の井原高等学校として再編され、再発足することになった。
昭和25年3月22日、女子学生179名、初めて男子学生121名に対して入学が許可された。
ここに女子教育の場として続いた井原高等女学校時代が終わりを告げ、
昭和25年度からは男女共学の高等学校として、地域の期待をにないながら踏み出すことになったのである。
この時の募集定員は普通課程250名、家庭課程50名であった。

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男女共学始まる
昭和28年卒 男

私が井原中学校を卒業して、新制井原高等学校に入学したのは昭和25年4月。
私は試行錯誤に終始した中学3年の次に我々を待つ高等学校とはいかなるものであろうかと思案しつつ、その前途に期待と不安を胸に校門をくぐった。
この年井高は男子生徒を初めて受け入れた。
従来の女学校に男子も通学することで地域社会の話題にもなった。
又学校当局におかれても婦女教育の伝統と男子の処遇をいかに調和さすか大層気を配らせたと聞いた。

 


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