六・三制度が始まる前の中等教育機関は、
男子校や女子校が大半だったが、男女がいる学校もあった。
父は岡山県小田郡から広島県深安郡にある、「神辺実業」学校に通った。(片道15km)
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父の話・2002年4月6日
(女生徒はいたのか?)
おった。
女(おなご)は女子部で校舎が違うとった。
男の校舎は北側、女の校舎は南側。
女がエエ南側じゃった。
家庭科じゃ。男は農業科じゃ。
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同じ学校の同じ敷地でも、男女間の交流は・・・運動会など含めても・・・たぶん、全くなかったようだ。
精研高校が実業学校時代も、”共学”の面では神辺実業とほぼ同じと思える。
これで”共学”といえるかどうか不明だが、校内に彩があったのは確かなような気がする。
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「精研 六十年の歩み」 精研高校 平成7年発行
(昭和19年3月第一回卒業生)
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昭和21年家政科卒・在校生だった4年間
入学した時は、すでに第二次大戦が始まっていました。
唐鍬をかついで、尾根づたいに上野の山の開墾にかよいました。
校庭で育てた薩摩芋の苗を植えたのです。
母の着物で作ったモンペをはき、藁草履をはいた姿です。
3年生の時は、学徒動員で航空機の生産に励みました。
凍りついた様な工場でジェラルミンを削りました。
足が冷たくなっても履く靴下もなく、はぎれで足袋を手縫いしたものです。
小さな防空壕に避難して、敵機が飛んでいくのを見た日もあります。
食べ物も少なく、ひもじい思いを随分味わいました。
4年生の8月に終戦を迎えました。
図書室に少しばかっかりあった本を、焼却処分しなければならない命令で、
あの本がほしい、とジーっと見つめていました。
卒業はしたもの、
「思いきり勉強したい!」という夢が消えませんでした。
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終戦の詔勅を受けて、学徒動員、防空演習などが即刻廃止され、
銃器、連合軍を敵視したビラ、ポスターの撤去などが急いで進められ、授業が再開される。
昭和20年9月15日、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表し、
この方針に基づき、銃剣道や教練などの軍事教育の学科が廃止され、
昭和21年1月には修身、日本歴史及び地理の教科書は回収され、
他の教科書も軍国主義的記述は墨で塗りつぶされた。
また奉安殿は撤去され、教育勅語の奉読も中止された。
昭和21年3月後月実業学校は後月農学校と改称した、
昭和22年4月学制改革により付属中学を設け、2.3年生は付属中学の所属となった。
昭和23年4月井原高等学校芳井校舎となり、8年間の幕を閉じることになる。
昭和24年3月井原実業学校として独立認可。
昭和24年5月井原実業高等学校芳井分校となる。
昭和25年2月精研高等学校芳井分校に校名変更。
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(年度不明)
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「精研 六十年の歩み」 精研高校 平成7年発行
旧職員
昭和20年7月1日付で後月農学校に奉職することになりました。
8月15日、終戦。1億国民茫然自失、全く虚脱状態でした。
国民生活は窮乏のどん底で食べることにも事欠く有様で、
食糧増産が唯一の目標でした。
生徒は男女を問わず、毎日勤労作業に追われて、
農園作業に、開墾作業にと明け暮れました。
民主主義の理念もまだ不鮮明な中から、新制中学校の誕生、あい住まいを余儀なくされ、窮屈な時代を過ごしたこともありました。
続いて新制高等学校の誕生で、後月農学校は自然閉鎖、井原高等学校芳井分校の誕生、
さらには精研高校芳井教室となりましたが、昭和37年井原校舎へ統合されました。
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