しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大正9年・尼港事件①事件前

2023年07月22日 | 大正

日本とロシア(やソ連)は、江戸時代末期から、
(共存共栄の途ではなく)自国の利益だけで、争ったり仲良くしてきた。

 

大正時代、ロシア帝国が崩壊してゆく過程で、
その弱みにつけこんだ日本はウラル山脈まで影響国家をつくる野望に燃えたが、
わずか1~2年で崩れ、
ニコライエフスク(尼港)では、住民と軍人と領事館の人たち、全員が虐殺された。
日本人を殺したのはロシア赤軍の他に中国人、それに多くの日本人がいた。
この日本人は国籍が日本の朝鮮の人たちだった。

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尼港事件


尼港事件「いのちと帝国日本・14」 小学館 2009年発行


駐留し続ける日本軍に対する潜在的な恐怖が、ニコラエフスク(尼港)事件という惨劇を引き起こす遠因となった。
1920年(大正9年)5月、獄中にとらわれていた日本人130名(うち居留民12名)が殺害され、市街に火が放たれ尼港は焦土と化し、600名を超す日本人が犠牲になった。

事件の直後、7月10日に出版された溝口白羊著「尼港事変 国辱記」は、陸軍332名、海軍44名の戦死者を掲げ、国家的大屈辱であるとした。
巻末に慰問のための綴じ込み葉書を付けたこの本は8月5日で10版を数えた。
国内の新聞は野蛮な過激派を批判する一大キャンペーンをはった。
だが事件の背景には、魚をごっそり獲ってしまう反感など、反日感情が存在していた。

いっぽう極東ロシアに住むロシア人に反中央、反モスクワの意識が強かったのも事実である。
日本軍はそうした一部の人びとの期待にこたえる形で「極東共和国」の樹立を画策したのであった。

 

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「岡山県郷土部隊史」 岡山県 昭和41年発行
 
尼港事件と岡山山砲隊の出動

尼港事件は北部沿海州のニコライエフスクで起こった事件で、
第一次世界大戦の結果帝政ロシアが、共産主義の革命により崩壊して、
過激な赤衛軍と穏健な白衛軍の一部が尼港で衝突した際、
同地に駐留していた歩兵一個大隊が白衛軍を援助して戦い、
戦況は日本軍の不利となった。

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