神島霊場は備中備後から多くの霊場巡りの人達がいた。
たいてい一泊二日の日程で、毎年お参りし、毎年同じ宿に泊まっていた。
外浦には宿が集中してあった。
いつの間にか、車でお参りする人たちが増え、
いつの間にか、それも減り、宿も減り、
巡礼する姿を見るのが珍しくなった。
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撮影日・2008年4月26日 神島88ヶ所霊場・笠岡市神島
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お接待。
青龍寺。
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神島88ヶ所霊場参り
「金光町史」
戦前・戦後の頃、
4~5人で、早朝歩いて鴨方から里庄へ行き、そこから川沿いに神島瀬戸へ出て、
神島外浦を巡って定宿で一泊する。
翌日島を巡って瀬戸から船に乗り笠岡港へ、
笠岡駅から鴨方まで汽車に乗る、そこから歩いていた。
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「岡山県史・民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
大師信仰と88ヶ所めぐり
弘法大師
大師信仰とは一般に弘法大師信仰と理解されている。
そして弘法大師の開基という寺伝を持つ寺、
弘法大師作と伝える仏像、
弘法大師によって湧き出たという泉、
弘法大師の霊験の話などはじつに多く、
弘法大師の信仰が庶民の間に深く浸透していることはいうまでもない。
県下の講の中でも、「大師講」がもっとも普遍的で、
20日の夜、あるいは21日をその日に当てているのは、弘法大師の命日であるからである。
このように弘法大師信仰を普及させたのは、
高野山を根拠とする聖(ひじり)が弘法大師信仰と高野山への納骨を勧めて村々を巡って歩いていたからであるという。
このような高野聖を村に迎えた人びとの心情には、
高貴な霊力を備えた人が、村の外から訪れて祝福してくれるという信仰があり、
その訪れを待ち、その話に耳を傾けようとする態度が強かったからである。
八十八ヶ所巡り
88ヶ所巡りは33観音巡礼と並んで宗派を問わずに庶民の参加する民間信仰である。
これを遍路といい、
また辺土ともいった。
『今昔物語』にも見えるところからすれば、すでに平安の初期に、遠く遥かな四国をあの世(他界)と見て、そこを巡ってくる信仰が生まれていたのであろう。
しかし、
県下などで88ヶ所巡りが行われたのは、江戸時代の中頃であろうといわれている。
そして四国から持って帰った霊場の砂や大師像などを村人に配ったり、
それぞれの村に新四国88ヶ所を設けた。
親しまれている小豆島88ヶ所は1686年(貞享3)の開設といわれる。
神島88ヶ所霊場
笠岡市の神島88ヶ所霊場は、
1744年(延享元年)笠岡の今田卯兵衛(慧玄)が、
愛児の菩提のために四国遍路をして、大師のお告げを受けて開いたと伝える。
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「写真集笠岡」 田中舜治 国書刊行会 昭和56年発行
お大師まいり
春正月ともなれば桃やあんずの花が咲き、
瀬戸内海の潮の香りも一段と強くなり、
お遍路さんの季節である。
備中・備後の奥地の人々は米を背負い老幼相携えて神島八八ヶ所の霊場巡拝に出かけてくる。
そして神島に一泊し新鮮な内海の魚で精進落ちをして一年の農作業のつかれをいやす。
それが江戸時代以来の農民の習慣であった。
五、六月頃は除虫菊が満開である。
神島霊場めぐり
毎年旧暦20日、21日は弘法大師縁日としてお大師参りの客が続く。
彼らは野道・山路を巡礼してひたすらおかげをこうむろうとする。
山あり、海浜あり、そして国立公園瀬戸内海の風景を観賞して気をはらす。
大抵の病気は治ってしまう。
それはこの島が持つ風光の美しさと信仰の渾融であろう。
最近名古屋方面からも参拝者が訪れるようになった。
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