しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

みはらし温泉 

2023年07月17日 | 無くなったもの

場所・広島県三原市須波
無くなった日・2019年1月31日
撮影日・2009年6月16日

 

「みはらし温泉」は、いい温泉だった。

 

外観からして”みはらし”がよかった。

これは↓、生口島沢港~須波港のフェリーから見る「みはらし温泉」。

写真左から、ホテル・温泉・駐車場。

 

 

 

ここが「みはらし温泉」、国道185号線。JR呉線とほぼ平行する。

 

 

 

 

 

大浴場は海側に面して長い風呂。

前に見える佐木島と小佐木島の間には渦潮が発生するが、浴槽内も渦を思わす流れがあった。

 

 

大浴場のガラス越しに見える眺めも最高。

大浴場から見る左から「みはらし連山」「小佐木島」「佐木島」。

 

こんなに眺めも温泉もよかった「みはらし温泉」だが、レジオネラ菌で新聞テレビで報道され、

営業休止を経て再開後に再びレジオネラ菌が見つかり、死者も出て、ついに休館となった。

 

 

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小早川隆景

2023年07月17日 | 銅像の人

場所・広島県三原市本町(駅裏)

 

小早川隆景

(Wikipedia)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。
吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。
毛利水軍の指揮官としても活躍している。
豊臣政権下では五大老の一人に任じられた。
実子はなく、豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。

 

・・・

「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

豊臣秀吉は得意の絶頂にあった。
しかし、高齢であった秀吉は、幼少の秀頼を残して死ぬことを何よりも心配していた。

自身の死後の安定を図り、有力者に幼い秀頼を補佐させなければないと思い立った。
そして当時秀吉に次ぐ地位を誇った徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家の5人の大名に対して、
豊臣政権における政治上の最高顧問を委嘱し、のちのことを託したのである。

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三原観光navi

三原の礎を築いた知将・小早川隆景

三原の礎を築いた知将・小早川隆景
三原の歴史を語る上で欠かせない人物といえば、1567(永禄10)年にこの地に三原城を築いた戦国武将・小早川隆景です。
隆景は、戦国時代に中国地方の覇者として君臨した毛利元就の三男として生まれ、
毛利家にまつわる有名な逸話「三矢の訓(みつやのおしえ)」のうちの一本として本家・毛利を支えました。

 

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撮影日・2014年10月26日 「 第11回みはら浮城まつり」

 

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笹川良一母子像(孝養の像)

2023年07月17日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区高松稲荷・最上稲荷

 

最上稲荷に行くと、笹川良一さんの銅像(母子像)があった。
昔はTVコマーシャルでよくみた銅像。

岡山県内には倉敷市児島ボートレース場にもある。
児島ボートの銅像は「孝養の像」と呼ばれるから、
この最上稲荷の銅像も「孝養の像」が正式名称かもしれない。

でもなぜ、最上稲荷とは縁がなさそうな笹川さんの像がココに建つのだろう。

 

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笹川 良一

(Wikipedia)抜粋

生年月日 1899年5月4日
没年月日 1995年7月18日(96歳没)
称号 勲一等旭日大綬章
座右の銘 「世界一家 人類兄弟」。

 

・・・

 

撮影日・2023年7月16日

 

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高松城跡の宗治蓮

2023年07月17日 | 令和元年~

場所・岡山県岡山市北区高松・備中高松城跡公園
日時・2023年7月16日

帰省していた長男が東京へ帰るので、妻といっしょに岡山空港へ送っていった。
途中、空港の10kmほど手前にある高松城へ寄った。

 

 

 

目的は宗治蓮を見ること。
満開には少し早いかな?
時間が午後3時なので、早朝に咲く蓮見物には不利。
とか思いながら、
公園駐車場からハス池に向かった。

 

予想通り、
満開には早く、
見物時間は遅かった。
しかし四百年地下に眠っていたという「宗治蓮」は、
見る人に花と戦国の歴史を、じゅうぶん感じさせてくれた。

 

 


高松城水攻め

(Wikipedia)

備中高松城の戦い
天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を攻略した戦いである。
秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。
この攻城戦の最中に、秀吉の主君である織田信長が明智光秀に討たれた、いわゆる「本能寺の変」が起きた。

 

 

清水宗治辞世の句碑

「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

 

・・・

 

 

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