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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

野網和三郎(ワーサン)

2021年06月01日 | 銅像の人
場所・香川県東かがわ市引田  安戸池


内湾でのハマチ養殖を始めた人。
地元漁業者では大功労者、偉人。






【引田業業協同組合】より

香川県の引田では昭和3年、内湾を堤で仕切った安戸池において、
野網和三郎氏が世界で初めてブリ(ハマチ)を養殖することに成功しました。
引田漁業協同組合では、その技と経験を活かして、天然に近い 良い
環境と独特の手法で育て上げたブランド魚「ひけた鰤(ブリ)」を皆様に
お届けします。


養殖業の始まり
引田漁業協同組合における魚類養殖の歴史は、
1928年(昭和3年)に野網和三郎(ワーサン:和三郎の愛称)が 安戸池でハマチ養殖に成功したときから始まります。
地元引田の網元の3男であった和三郎は、当時の漁師の厳しい生活とその将来について、強い危機感を持っていました。
当時、瀬戸内海の漁業は、昔ながらの漁法でタイやサワラを獲っていましたが、大きく漁獲が伸びることはなく、頭打ちの状況でした。
そのため、香川県から海外への出漁が盛んになりつつありましたが、厳しい気象条件などによる遭難や不漁が多く、
事業の失敗により 網元から雇われ漁民に転落する人が増え、下層漁民が増加しているような時勢でした。
和三郎は、このような状況を肌で感じて育ち、漁民の窮状を何とかしたいという思いから水産学校に学び、当時の先端の学問を修めました。
卒業後は、引田に戻り、早速学んだことを生かすため、安戸池を使った魚類養殖試験を開始。
父、佐吉の全面的な協力のもと、 試験開始後、わずか2年目にして、養殖に成功しました。
これが、日本における海面での魚類養殖の最初の成功事例となったのです。


養殖業の進展
安戸池の養殖事業は観光化し、その盛況ぶりは全国の注目を集めました。
一方、県内では、戦後昭和25年までは、養殖施設として築堤式(固定式施設)が主流であったため、 大きな資本が必要で、経営体は僅かでした。
しかし、この年化学繊維の魚網が発明され、網仕切り式施設で養殖できるようになると、県内でも 養殖事業に着手する人が増え始めました。
その後、昭和30年代になって、小資本・少人数での経営が可能な、小割生簀が普及すると、 急激に養殖が盛んになり、
香川県を含めた西日本各地で養殖が広く行われるようになりました。
和三郎は、養殖事業から離れた後は、県の水産業関係団体や海区漁業調整委員などの要職を歴任し、
「養魚秘録海を拓く安戸池」を出版した昭和44年秋、病没しました。
彼は、自分の生涯をかけた養殖業の発展を目の当たりにすることができたことと思います。





(安戸池)



撮影日・2013年9月17日


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