しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

北木島「大浦監視硝」

2021年07月25日 | 昭和16年~19年
10年ほど前、北木港の待合所で元バックリ山の監視硝に勤務していた人の話を聞いた。
その時、女性3人ほどいて次のような話だった。

全員青年学校、北木と真鍋の女性がバックリ山を登っていた。
若いので苦も無く、楽しいばかり。

楽しいばかりというのは、ほぼ同年齢の人が玉野の造船所などに行き、それに比べると恵まれているという面が大きい。

なお邑久の監視硝は全員男性、
現笠岡市では表にバックリ山が載らず、小丸が載っている。どんな事情があるのだろう。


「笠岡市史3巻」 笠岡市 ぎょうせい 平成8年発行

空襲が激しくなり、岡山県でも約20か所の山頂に「防空監視硝」が設置し、
笠岡地区内では北木島村大浦のバックリ山の山頂に「大浦監視硝」が設けられ、
瓦ぶきの屋根にガラス張りの窓、部屋には事務所と奥には休憩室が用意されていた。
この監視硝では北木島村の大浦・豊浦・金風呂の各地区と真鍋島村・白石島村の女子青年団が5班に分かれて毎日交代で24時間体制による敵機の監視が続けられた。
「敵機発見」の言葉は部屋に備えた電話で、村役場→県庁の監視隊本部→中部軍幹部司令部へと伝えられ、
管内情報によって警報が発令される仕組みになっていた。



「北木を語る」 元気ユニオンin北木 平成8年発行

1945(昭和20)
大浦防空監視哨設置
本土空襲に備えて、バックリ山の山頂に設けられた。
監視には、北木島大浦・豊浦・金風呂・真鍋島村・白石島村の女子青年団員が動員された。
5班に分かれ24時間体制で監視に当たる。
県下20ヶ所笠岡地区唯一の監視哨で、敵機発見の情報は、北木村役場経由で直ちに中部軍区司令部に送られました。



・・・・・



「勝央町誌」 勝央町  山陽新聞社 昭和59年発行

防空監視硝

勝間田町平(現在の工場公園内スポーツ公園付近)に防空監視硝が常設されていた。
昭和16年12月16日「防空監視隊令」が制定され、ここに防空監視硝が設けられたもので、
勝間田青年学校の生徒が硝員となり二交代で毎日24時間硝舎の屋上に設けられた監視硝で空をにらんだ。
硝舎と警察には直通電話が敷設されていた。
監視硝建設費、演習費は町村が年々補助した。





・・・・・


「奥津町史」  奥津町  ぎょうせい 平成17年発行

奥津防空監視硝

「岡山県史」に「その設置数については県内で20か所ともいわれているが正確な数は不明である」と述べている。
しかし、昭和16年の防空計画では22ヶ所の監視硝が新設されているところをみると、
その数は数十か所にのぼるのではなかろうか。

監視硝長及副硝長
主として青年学校指導員及び在郷軍人にして指導能力良好なる者

監視硝員
青年団、青年学校生徒及び之に類するもの。長期間服務し得る者。
聴力・視力・体力に優れた人物。
年齢は15歳以上、班編成は5~7班。総員は60人である。

勤務は午後5時から24時間勤務。
一班7名で、班長は総括
2名は立硝、1名通信士、3名仮眠、一時間で交替した。
青年学校生は非番時には登校した。
慰問者はしばしばあった。
炊事はレンガ作りのかまど、飲料水は下の谷川まで降りて天秤で日に二度運搬した。
仮眠用ふとんは不衛生でノミが多く安眠を妨げた。

爆音を聞くと肉眼で確認し、飛行方向・高度を判断し、
さらに双眼鏡で確認して大声で通信士に連絡する。
通信室には警察電話があり、津山警察署と奥津駐在所で同時に受信された。

昭和16年度計画岡山県防空監視硝表(井笠地域)
7・笠岡監視硝  小田郡笠岡町小丸山頂
8・井原監視硝 後月郡西江原町大字寺戸字青陰(青陰城跡)
9・矢掛監視硝 小田郡矢掛町大字矢掛蛸ノ山
計22ヶ所






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