「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行
爾後聯隊は、9ヶ月間にわたってこの共産八路軍のゲリラ作戦に呼応して東奔西走、
討伐に次ぐ討伐を以てし、席のあたたまる間もなかった。
共産八路軍は諜報活動に秀で、
我軍が急襲するや一夜にして遁走し、
また我が嘘を衝いて攻撃を加えてきた。
而も軍規正しく、遁走に当っても遺棄死体一つ残していなかった。
最も始末におえぬ敵と四六時中相対したことになる。
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(石家荘・きょろくの床屋の子と。父=右端)
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【父の野戦日誌】
きょろくにて昭和14年(1939)6月27日夜11時
夜の月
一日戦塵にまみれし身体を風呂にて流し。
露天風呂だ。
美しい月と星をながめつつ身体を流す。
一日の疲れも吹き飛んで気持ち良い。
僕等にとっても月は美しい、この月も故郷の山河に輝いているのだ。
内地の両親の求めで突進していくのだと思うと、なんだか懐かしい。
寂しい気持ちもさらっと忘れてくる。
戦友眠りにつく頃、俺の今の気持ちを伝えて暮れと一点の曇り無き空を見る。
懐かしい郷里の事がそろそろと、脳裏に浮かんでくる。
彼等もまた決して無心ではないではあろう。
幾千年の間、人類の過去、盛衰を彼等もみな知り尽くしている。
突然夜の静寂を貫く銃声は、敵奇襲かと銃を取り外を睨む。
月は輝く銃声に、月陰あわく人の波。
いざ来たれり、いざ撃たん。
吾等の腕は鉄血の、御国にささげたこの身体。
銃身の彼方に、ただこうこうと輝いている人の陰。
戦友たちの話し声。
(父の話)2001年8月15日
ドラム缶の中で風呂にしょうた。
下は熱いので下に板を敷いて入りょうた。
横も当たれば熱い。
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(父の話)
支那の正月
正月は旧正月のこと。
が兵隊に正月はない。というのも戦闘がない時はいつも休みじゃから。
北支にいる時は警備だけじゃったけぇ。
旧正月には雑煮のようなものを売っていた。
中共軍が来る、来ているという情報があるとき以外はだいたいのんびりとしていた。
談・2000・12・10
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(父の話)
ペーの話
休みの日は何もすることはない。
ものを買って食べたりするかペー屋にするか。
ぺー屋は・・・淫売。
何処へ行っても(ぺー屋は)出来きょうた。
金をつかうゆうても、それくらいしか無かった。
ペーにも相場があって日本人は3円、朝鮮人は2円、支邦人は1円でほかに、ころび、これは支那人で自分でしているひとだで50銭から70銭。で、日本語も話せん。朝鮮人はだいたい(日本語が)話せた。
日本人はオバーで年増、20代が多く、朝鮮人は若かった。
いたるところにそういう(女郎部屋みたいな)ところは設けられていた。
談・2000・4・30
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(「赤柴・毛利部隊写真集」 合同新聞=山陽新聞前身の慰問団)
笑顔の女性が3人いる。記者の雰囲気はなく、いったい新聞社が何をする慰問団で、前線でどんな慰問をしたのだろう)
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(石家荘)「岡山県史」
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