しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

金浦町の漁業発達概況

2019年01月21日 | 暮らし
「金浦要覧」編・増成松平 昭和11年6月発行より転記

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金浦町の漁業発達概況

明治中頃までは鞆港の東方海面において漁業使用は殆ど西浜漁業者の占有なりしが其の後各地沿岸に漁業者増加ししたがって漁網の使用を発明習得し西浜漁民の漁場範囲を漸次狭められ、明治36年漁業法の施行せられしにより漁業組合は各地に設立せられた。
魚量を減するが故に、明治39年頃西は豊前豊後及び朝鮮近海に東は阪神方面地先へ出漁を試みし者ありしが未知の漁場の事情により漸減す。


水産物販売概況

西浜に板屋なるものありて、魚問屋を経営し、相当手広く沖は真鍋島を始めとし、小田郡内の漁業者全部の、漁獲物を販売せし由、故に相当多数の魚類も集散す、以後板屋は廃業し、数名にて西浜漁業者の漁獲物の販売をなせり。
一方出買業者出来るに及び、広島、香川、愛媛、山口県等より、鯛、鰆(さわら)ハモ、コチ、其他の魚を積みかえり販売するため、漸次その額は増加を呈し、最高40万円以上のこともあり、即ち魚類集散地としては、尾道市をも凌駕するの盛況なりし時代もありき。
其の後各地に魚問屋開業勃興の余波と地元仲買人の減少相なって、逐年不振となり、近年漁獲も減少す。
然れども近年朝鮮、九州、下関方面より委託として積送らるる魚類は巨額の金額を算出するに至り、古よりの漁港金浦は依然として、岡山、福山、尾道に次ぐ魚の町として魚の西浜か、西浜の魚かと県下へ主として高梁、成羽方面は毎日自動車に依り、配給せられ後月、浅口、小田三郡下の魚は金浦の手によりて食膳に給せられつつあるの状態なり。
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