しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

竜馬がゆく  (高知県高知市)

2024年06月22日 | 旅と文学

日本国内にある銅像数は、弘法大師と二宮金次郎が群を抜いて多いと思える。
お大師さんは寺院だけでなく、日本全国の街道・路傍に建っている。
金次郎さんは、ほぼ小学校に集中している。

では次に銅像が多い人は?
たぶん坂本竜馬ではないだろうか。

この人の像の特色は近年に造られた像が多い。観光地に多い。
更に言えば、
2010年NHK大河ドラマ、福山雅治主演の【龍馬伝】の放送がきっかけで、
縁の地を観光地化し、その土地に観光目的の銅像が数多く立った。

 

 

・・・

旅の場所・高知県高知市上町・坂本龍馬記念館
旅の日・2015年2月28日 
書名・竜馬がゆく
著者・司馬遼太郎   
発行・文春文庫 1998年発行

・・・

 


竜馬は、十二になっても寝小便をするくせがなおらず、近所のこどもたちから「坂本の寝小便ったれ」とからかわれた。
からかわれても竜馬は気が弱くて言いかえしもできず、すぐ泣いた。

十二のとき、ひとなみに父は学塾に入れた。
ところが、入塾するとほとんど毎日泣いて帰るし、
文字を教えられても、竜馬のあたまでは容易におぼえられない様子なのである。
ついに、ある雨の夜、師匠の楠山庄助が たずねてきて、
「あの子は、拙者には教えかねます。お手もとでお教えなされたほうが、よろしかろう」
見はなされたのである。
「えらい子ができたものじゃ。この子は、ついに坂本家の廃れ者になるか」
兄の権平もにがい顔をしていた。


(略)

--龍馬はつよい。
という評判が城下にたったのは、この正月の日根野道場における大試合からである。 
竜馬は、はじめ三人の切紙と立ちあってそれぞれ初太刀でしりぞけると、つぎに古参目録者ふたりの面と胴をとった。
試合の翌日、日根野弁治は、小栗流の目録をあたえた。 
わずか十九歳である。
異例だった。

 

 

 

(桂浜)

 

 

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