敗戦後の軍国主義一掃の学校現場は、
国民生活の衣食住、そのすべてが不足した中で行われていった。
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「福山市引野町誌」 引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行
墨ぬり教科書
昭和20年9月文部省は教科書の全部削除・一部削除・取り扱い注意を示した。
ただし、これは「国語」科のみだった。
20年12月GHQは、
修身・日本歴史・地理の即時停止と
教科書の全面回収という極めて厳しいものだった。
文部省はこれを受けて指令を通達した。
これが「墨ぬり教科書」であり、翌昭和22年に暫定教科書ができるまで使用された。
◎削除・修正の例
「海軍のにいさん」「菊の花」「神だな」「にいさんの入営」「金しくんしょう」
「病院のへいたいさん」「支那の子ども」
修正
「センチノニイサン」「オクニノタメニ」を
「兄さん、しっかり、元気ではたらけと」と修正するよう指示された。
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「1億人の昭和史4」 毎日新聞社 1975・9月号
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「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
戦後の教育
敗戦処理
戦災を受けなかった学校は、
通常の夏休みあけと同様に二学期を迎えたが、児童の転入出はどの学校も多かった。
教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、
全般的に教育そのものも活気を失ってきた。
これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足は教師生活を不安定にした。
このころ、国民学校では男女共学が基準となり、
学級の男女別編成ができなくなり、二人用の机に男女が並んで席についた。
学校につぎつぎとくるものは、
占領軍の指令と、
物資不足を補うため学童の大動員による未利用資源の採集依頼、要望で、
これは戦争末期よりもさらにきびしかった。
県は市町村長、学校長あて文書を出した(昭和21年6月11日)
集荷原料と品を概ね左の通りとす。
春
ワラビ、ゼンマイ、フキ、蓬、クローバー等の野草
夏
南瓜種子、南瓜の葉、茶殻、蓬、ヨメ菜等の野草、里芋茎、彼岸花球根
秋
団栗、蕨地下茎、果実皮、南瓜種子、南瓜葉
冬
果実皮、葛根、茶殻、甘藷茎葉、大根葉、人参葉
集荷方法
学業の余暇及び実習の時間を以って集めるものとす。
家庭より生ずる残廃物は隣組等の協力を得て学童之を集めるものとす。
学校に於いて品種別に選別し乾燥を成す。
行進
団体行動は号令一下、軍隊式に行われたのであるが、
軍国主義を学校から一掃するとなると、号令をどのようにかけたらよいか、とまどう結果となった。
「気を付け」「休め」「右、左向け」「廻れ右」「番号」等は最小限に止め、
かつ愉快な気持ちを与えるようにするならばさしつかえない。
行進は音楽に合わして調子よく歩くことはさしつかえない。
要は
学校より軍事色を払拭することが目的であるから、その精神に従い責任をもって実施すると共に、許される範囲のものについては積極的に指導するのが肝要である。
体育で号令をかけるのは、軍国主義的だといので、教師の指示だけでできる球技が流行し、
ゴム製ドッジボールなどは意外に早く出回って子どもにも喜ばれた。
球技時代に入った。
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「創立60周年記念誌・精研」 精研高校 平成7年発行
終戦の詔勅を受けて、
学徒動員、防空演習などが即刻廃止され、
銃器、連合軍を敵視したビラ、ポスターの撤去などが急いで進められ、
授業が再開される。
昭和20年9月15日、文部省の「新日本建設の教育方針」に基づき、
銃剣道や教練などの軍事教育の学科が廃止され、
昭和21年1月には修身、日本歴史および地理の教科書は回収され、
他の教科書も軍国主義的記述は墨で塗りつぶされた。
また御真影奉安殿は撤去され、
教育勅語の奉読も中止された。
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「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行
「私の女学生生活」
昭和20年 3年生
〇8月15日 終戦全員早退してラジ玉音をきく。
〇2学期より4年生水島動員より解除され、敷紡の友のとも一緒になり、授業始まる。
〇吉田山、西大戸の山と開墾作業とが半々。教科書もなくザラ紙の洋半紙に先生が印刷したものを使用す。英語の授業も再び始まる。
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沿革
昭和22年、岡山県立笠岡高等女学校・併設中学校を設ける
昭和23年、岡山県立笠岡第二高等学校
昭和24年、岡山県立笠岡高等学校千鳥校舎
昭和28年、岡山県立笠岡高等学校
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「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
社会科
修身、公民、地理、歴史がなくなり、社会科が設けらた。
社会科は、従来の修身、公民、地理、歴史をまとめたものでなく、
社会生活についての良識を養うことを目的として、設けられたのである。
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「創立八十周年記念誌」 笠岡商高・吸江舎 昭和56年発行
「教師時代の思い出」 元教諭 加藤六月
当時は旧制商工学校から新制高校に変わったばかりで、3年生の「社会」の教科書はありませんでした。
文部省の指導要綱を読みながら、毎晩、翌日教える内容を一生懸命勉強して整理し、それを教壇で読みながら生徒にノートして貰いましたが、
週5時間分を書き上げる努力は大変なものでした。
途中私自身、勉強の行き詰まりを感じ、翌日3年生の「社会」の教壇に立つのが恐くて眠れない夜もありました。
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