戦後からみれば、
そもそも、何故、他国の満州へ移民したのだろう?
と簡単に言える。
そして開拓団が昭和20年8月9日を期に、
石を投げられ、暴行・略奪され、
全てを棄てて逃げ出すしか方法はなかった原因も、簡単にわかる。
開拓団に募集した人は正義感や国を思う心が強かったことも、感じる、が
それは当時の日本と日本人にしか通用しなかった。
他国はそれを侵略とみなしていた。
本当に悪かった人は、国の指導者であろう。
・・・
雑誌 「NHKラジオ深夜便」 2015年10月号
戦後七十年特別企画
戦争・平和インタビュー選3
ただ一人、私だけ 死にきれなかった 久保田諫
昭和5(1930)年生まれの久保田錬さんは、終戦当時15歳。
国策で進められた「満開拓移民」として、家族と離れ満州(現・中 国東北部)に移り住んでいました。
開拓団として満州へ
一満州に行かれたのは昭和19年の5月とのこと。当時はどんな心境でしたか。
久保田
それはもう、すばらしい所という話だったから、楽しみで。
満州国の首都たる新京からわずか12キロの場所だから、みんなわくわくして行ったわけだわな。
ちょうどアヤメが花盛りの季節で、いたるところに自生してるんだよ。
確かにすばらしい所だった。
農地も、一戸当たり二十町歩ぐらいもらえるという話だった。
内地とは桁違いの広さで農作業の手が足らんから、
苦力っていう中国人の人夫を雇って、みんなやらせちゃうんだ。
一開拓団が、一から開墾したのではないんですか。
久保田
現地の農民が開拓した土地を、ただ 同然の値段で強制的に買収したんだよね。
その人たちを住んでる家から追い出して。
日本からの開拓団とは名ばかりで、むしろ土地を荒らすくらいだったんです。
―そうすると、開拓団に対する現地の人々の目も厳しかったのでは?
久保田
表面的にはそういう感じは全然なかった。
我々には好意的で、近所の者が「休みの日には遊びに来い」とかって声かけてくれるんだよな。
ふらっと遊びに行くと、いろいろな料理を作って歓迎してくれるんだ。
―長い時間が過ぎましたが。
久保田
あの終戦直後の出来事は、絶対忘れることはできんの。
―終戦翌日、略奪が始まるんですね。友好的だった雰囲気が、終戦で一変した。
久保田
まず五月の中頃から一人か二人ずつ召集令状が来て、男の働き手がだんだん少なくなって、
しまいには全員根こそぎ召集。
最後の人たちが入隊したのは八月十五日の朝なんだよ。
村に残ったのは年寄りの団長とおじさんが一人、それからおれともう一人、耳がものすごく遠い二十五歳の中川さんという青年。
あとは女子どもばっかり。
十五日の正午に玉音放送があって、近くの雑木林に年寄りと女子どもが集まって一夜を明かした。
その日は何事もなく、いったん村に帰ることになったんだが、
だんだん中国人が集まってきたんだよ。
開拓団の事務所に入ってくる者もいて、物色してた。
外を見たら、もう二、三百人が集まっている 。
そこへ馬をすっ飛ばして中国軍人が来て、 大声を上げながら空へ向かって拳銃をパンパンと二発ぶっ放したんだ。
それと同時に群衆がときの声を上げ、日本人の住宅になだれこんで、われ先にと物を運び出したんだ。
しまいには窓枠まで取り外して、担いでいっちゃった。
おれたちは棍棒で叩き出されて、さんざん殴られたもんで、逃げ出してトウモロコシの畑の中に隠れたら、そこに中川さんも来た。
もう夜になってたから、二人とも一眠りしちゃったんだ。
それも十分か十五分ぐらいのもんだと思うんだけども、どっかから女の声が聞こえて気がついた。
先に出発していた団長以下、女子どもが略奪にあっとったんだね。
おれたちが出て行くと、「や、男が来た。 それ!」っち ゅうわけで、
団長と中川さんとおれの男三人は棍棒でいやっていうほど殴られた。
取るもの取ったら連中は引き揚げたけど、団長は虫の息になっちゃって、
「おれはだめだ、早く楽にしてくれ」と言うわけ。
「おまえたちはなんとか日本へ 帰って、この状況を報告してくれ」って。
でもおれは十五歳の少年だし、あとはおばさんたちだけだからね。
結局、校長先生の奥さんたち三、四人が話し合って、「しかたないだろう」って言って、
みんなで手をかけたんだ。
さよならだ、お別れだという意味で手足や体を触って、それから二、三人で首を絞めて、団長の息の根を止めてしまったわけよ。
前日の朝に出征した人たちが、敗戦になって帰ってこないっちゅうことは、みんな殺されたのか、戦死したのか。
どっちみち、日本人は一人残らず殺される。
私たちもおもちゃにされて殺されるより、ここで死のうという話になった。
―女性たちが、集団自決することを決めたわけですね。
久保田
えらいことになったなと思ったけど、どうしようもない。
日本が終わりなんだから、世の中もこれで終わり。
そんな感じだったな。
おれは家族がいないから、なんの感慨もなくぼうっとしてた。
そのうちにおばさんたちは、 わが子の首を絞めて殺し始めて。
―母親が自分の子どもを?
久保田
そうなんだ。 「お父さんたちはみん戦死した。一緒にお父さんのところへ行う」と子どもに言い含めて、首を絞めた。
おれがぼうっとしてたら、「久保田さん、なにしてんの。早くしないと夜が明けちゃう」と言われた。
殺すのを手伝ってくれっちゅうわけだ。
それでおれも手伝って、小さい子どもから順に、首を絞めて殺した。
お母さんが、「さあ、お父さんとこに行くんだから、手を合わせなさい」と言うと、
子どもが言われたとおりに手を合わせて座る。
その後ろからひもで首を絞めるんだ。
まだおんぶされているような小さい子どもは、きゅっと押さえるだけでいい。
息が止まると、順に枕を並べて、
「お母さんも後から行くからな、先に行っとれよ」っちゅうようなことを、
みんな独り言みたいに言いながら。
大きい子は大変なんだよ。苦しいからどうしても抵抗しちゃうわけだ。
お母さんも力尽きて首を絞めてる手がゆるんじゃう。そうするとまたやり直しだわな。
それを見とった看護婦の経験者が「苦しい思いをさせるのはか わいそうだ」って、要領を教えてくれたんだよ。
首に巻くひもに余裕を持たせて、そこへトウモロコシの茎を二本ぐらい入れてぐるぐ ねじり上げるんだ。
そうするとちょっとぐらいじゃ緩まない。絞められたほうは体がぐうっと伸びて、あおむけに反り返るんで、
そのみぞおちを足でぽっと蹴ると、さっと息が止まっちゃうんだよ。
そういうふうに子どもたちを殺してしまうと、今度はおばさんたちがお互いに
「それじや、今度は私を頼む」
「はい」
って順に首を絞める。
まあ、とんでもないことになってしまったわけさ。
―そこで何人の方が亡くなったんですか。
久保田
七十三人。はっきりしたことはわからんけど、おれは二十数人、手をかけたと思うんだよ。
―逃げようと言う人はいなかったんですか。
久保田
一人もいなかったな。
日本が負ければ一人残らず殺されると、そういう教育があったからかな。
しかし、全部の開拓団がそうだったかというと、そうじゃねえ。おれたちの開拓団だけそういうことになっちゃった。
―二十数人を次々に手にかけていく、そのときはどんなことを考えていましたか。
久保田
そんなもの、何も考えとりゃせんね。
夢中だ。
ただ夢中のうちに、事が起きて、終わってしまった。
最後に中川さんとおれが残って、二人でどういうふうに死のうか話し合ったんだ。
ナイフ一丁でもあれば、のどを突いて死ねるけど、 なんにもないんだな。
石を探してきて、交互に眉間を殴り合った。そのときの傷はまだここに残ってる。
五、六回殴る と、生ぬるい血がドロドロ流れ出して、「よしれで死ねるわ」って横になって、二人 とも気絶しちゃった。
でもその数時間後にものすごいスコールがあって、二人とも気がついてしまったんだよ。
薄日がさしていて、見上げたら太陽が真上にあった。
周りを見たら、屍の山と言うより、屍の海。
畑の中に七十三人の屍が横たわってる。
それさ、衣服をまとっている死体はほとんどないんだ。
お母さんたちがちゃんと枕を並べておいたのを、ごろごろ動かされて服がみんな盗られちゃってる。
ほんとにぶざまな格好で、裸の屍が横たわっていた。
スコールのたまり水と泥と一緒にすすって、それで一応生き返ったんだな。
だけど、首を絞めた人は一人も生き返らなかった。
―その後、久保田さんたちは中国の内戦に巻き込まれて帰国に三年かかり、その間、中川さんは病気で亡くなったそうですね。数年前まではこの体験を語ることはなかったそうですが。
久保田
ほんなもん、集団自決なんてとんでもない体験、話せないと思ってた。
だけどそれではいかんと思うようになったんだな。
そういう悲惨なこともあった後に、今の平和な日本があるんだっちゅうことを、みんなに知ってもらおうと話を始めた。
―女性たちはなぜ自決という道を選んだと思いますか。
久保田
それは国のために死んだんだわな。
負けたから、日本人であるために、国のために死ななきゃしょうがないっちゅうことになった
......そう考えな、しょうないな。
あの時分、「一億一心」という言葉があって、一億の日本人が協力して戦争を勝ち抜こう、そういう教育だったんだ。
最後の一兵まで戦うっちゅうことだったから、日本が負けということは、お父さんはすでに戦死した。
そう思い込んだのは間違いないわ。
何十年も経ってから、「おばさん、やめろ。 なんとか逃げていこう」って、どうしておれ、 言わなかったかなっちゅうことも、考えたことがあるよ。
生きておれば、こんな平和な日本の生活をしとれるんだって、
亡くなった人たちには、ほんと、声をかけたいよ。残念でしかたがない。
―つらい体験を語るのは、負担ではありませんか。
久保田
負担だよ。
消耗する。
でも、いまさら亡くなった人のためにもならんだろうけど、 今後戦争なんか起こらんように、二度とあんなことが起こらんように、知っていてもらいたい平和な日本のためになればと思うわな。
(2009年8月11日放送)
現在、八十五歳になった久保田さんは、六年前の放送時と変わらず、地元・長野の「満蒙開拓語り部の会」に所属。中学校や公民館で、戦争を知らない世代に集団自決の悲劇 語り継ぐ活動を続けています。
・・・
「NHKラジオ深夜便」 2015年10月号」戦争を知らない世代に集団自決の悲劇 を
語り継ぐ活動を続けていらっしゃる久保田様のご紹介を心して拝読させて頂きました。
申し訳ないと思いながらも「満州に行かなくてよかった」の感想でした。
先日NHKドキュメントに無事に帰還されたにも関わらず、戦地での出来事がトラウマになって
酒乱に母親を死ぬほど蹴ったり、殴ったりした様子に帰ってこなければよかったと
戦後生まれのお子様たちが語っておられました。
そのことを知るまでは帰還された家族が羨ましいと思っておりました。
そのような不幸な家族が大勢おいででしたことも初めて知りました。
国はそのような悲劇はないと言い続けていたことも知って愕然としました。
その事実を知ってから「父はお国のために名誉の戦死」と思い続けたく思っております。