♪赤い夕陽の満州は・・・、
昭和20年(満州帝国康徳12年)の8月9日をもって一変した。
満州帝国にソ連軍が攻め込んできた。
日本軍人は先に逃げ、次に役人が逃げ、一般邦人が丸腰の状態で
ソ連軍兵士の餌食になった。
都市住民はソ連兵の、強姦・殺害・持逃げ、を無抵抗でされるがまま。
開拓団の集団は、徒歩で荒野を、乞食同様な姿で・・・その無法の都市へ向かった。
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「昭和時代 敗戦・占領・独立」 読売新聞 中央公論社 2015年発行
恐怖の逃避行
約155万人にのぼる在留邦人(軍人は除く)は、突然のソ連軍襲来に驚き、大混乱した。
根こそぎ動員で一家の柱を失っていた辺境の入植地では、女性や子供、老人たちが置き去りにされた。
その数、約22万人といわれる。
関東軍は、作戦計画が漏れるのを恐れて、一般人に避難勧告をしなかった。
都市部の住民も、突然の避難命令に困惑した。
最初の避難列車は、主に軍人・軍属、大使館や満鉄(南満州鉄道) 関係者の家族たちが占めることになった。
ソ連軍兵士は、満州各地で略奪と暴行を繰り返すなど非道の限りをつくした。
在留邦人は逃げ惑い、殺傷され、集団自決を余儀なくされた。
恐怖の逃避行を続ける人々を飢餓と酷寒と疫病が襲った。
これが、今日に至る中国残留婦人・孤児の悲劇につながっている。
『満洲開拓史』(満洲開拓史刊行会)によれば、
800以上あった開拓団の中で、集団自決などで全滅した開拓団は10を数え、死者は約72.000人に及んでいる。
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「大日本帝国崩壊」 加藤聖文 中公新書 2009年発行
外務省がポツダム宣言受諾を伝える一方、東郷茂徳大東亜大臣(外相兼任)の名でアジア各地の在外公館宛に暗号電信が送られていた。
当時、満洲国を含めた中国や東南アジアの占領地は大東亜省の管轄下にあった。
アジア太平洋地域での日本軍の武装解除と復員については大本営の指令によって行われるが、
民間人の保護と引揚については大東亜省の出先公館に委ねられていたのである。
戦争は終結したが、具体的な敗戦処理はここからはじまる。
これこそが重要な問題であった。
しかも、朝鮮や台湾満州といった植民地ばかりではなく中国から東南アジア、太平洋の島々の占領地を含め、
ヨーロッパ戦域よりもはるかに広大な地域に300万を超す日本軍が依然として展開していた。
さらに、兵士ばかりではなく300万人を超す民間人も同じように各地域に散らばっていた。
とくに日本政府の保護が及ばなくなる民間人の取り扱いが大きな問題となることは明らかであった。
しかし、日本政府が敗戦を受け入れる過程で、こうした問題は深く議論された形跡が見あたらない。
本土決戦を譲らない軍部を押さえて戦争をいかに終結させるかに関心が集中した結果、
国体護持という抽象的な問題だけが争点となってしまい、
敗戦にともなって想定される問題の洗い出しも対応策の具体的な検討も政府内部で行われなかったからである。
大東亜省は、具体的な指示を伝えた。
そこには、「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」とされていた。
すなわち、大東亜省は現地定着方針による事実上の民間人の切り捨てを行ったのである。
また、電信では同時に、朝鮮人を「追て何等の指示あるまでは従来通り」としたが、
追って指示はないまま、彼らに対する保護責任は連合国側へ丸投げされた。
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「福山市史下巻」 福山市史編纂会 昭和53年発行
青少年義勇隊などの民間人の場合には、ほとんど遺棄されたままにおかれ、とくに中国にいた民間人の場合には、
軍人が先を争って帰国しようとしたため、その半数がふたたび故国の土を踏めなかったといわれている。
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「新修倉敷市史・第6巻」 倉敷市 平成16年発行
敗戦と満蒙開拓団
昭和20年8月9日ソ連参戦、15日の敗戦を契機に満州での青少年の生活は一変する。
虚構の満州国はあえなく瓦解した。
一般開拓団、青少年義勇軍を問わず、彼らは日本政府と日本軍・関東軍に捨てられ、茫然自失した。
中国農民の土地を奪って入植していたのであり、逃げ出し引揚げる以外に道はなく、
敗戦後にも悲惨で冷酷な歴史が展開されたのである。
ソ連参戦と同時に関東軍は国境に 一部の少数兵力を残していち早く後退し、
開拓農民と青少年を見殺しにしてしまった。
成年男子を根こそぎ応召動員されて、老幼婦女子を主力とした開拓団、義勇軍の青少年たちは、
無防備の中で完全に取り残された。
以後は命からがらの長い長い逃避行であり、修羅地獄であった。
胡盧島を出帆して内地に帰還した彼らは、多くの肉親・友人を失い、まさに中国侵略の犠牲であった。
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