敦賀の宿の主は酒をすすめてくれた。
それから氣比神宮に夜、お参りした。
境内は神仏混淆、大鳥居に五重塔、三重塔あり、
堂々として木々からは月光がさしこんでいた。
遊行上人の砂持ち伝説があり、
それは現在も、神事「お砂持ち」が営まれている。
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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行
夕暮、敦賀の津に宿を求めた。
その夜、月はことに晴れていた。
「明日の夜もこんなだろうか」と言うと、
「天候の変りやすい越路の習いで、明晩のお天気は予測できない」と主人は言い、
私に酒を勧めるのだった。
氣比の明神に夜参した。
仲哀天皇の御廟である。
社殿のあたりは神々しく、松の木の間から月光が洩れて来て、神前の白砂が霜を敷いたようである。
「その昔、遊行二世の他阿上人が、大願を思い立たれて、みずから草を刈り、土や石を荷い、
悪竜の住む泥沼を乾したので、参詣のため往き来する人の煩いがなくなったのです。
その昔の故事が今につづいて、代々の遊行上人が神前で砂をかつがれるのです。
これを遊行の砂持と申します」と、亭主は語った。
月清し遊行のもてる砂の上
(代々の遊行上人が持ち運ばれる神前の白砂の上に、秋の月がすがすがしく照り輝いている。)
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旅の場所・福井県敦賀市曙町「気比神宮」(けひじんぐう)
旅の日・2015年8月4日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉
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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎 筑摩書房 2022年発行
気比神宮は北陸道の総鎮守である。
気比神宮は第二世遊行が自ら草を刈り、泥沼をかき出し、砂を敷きつめた神宮である。
遊行(一遍上人)の柳の名所は前半に詠んだ(田一枚植て立去る柳かな)で、
後半の旅では遊行ゆかりの神宮に拝して、
月清し遊行のもてる砂の上
(遊行二世が持ち運ばれた砂の上に月光がさしているよ)
と呈した。
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「芭蕉物語」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行
宿の主人が説明してくれた。
他阿上人は字は真教、俗姓は源氏、時宗の開祖一遍上人に従って修行し、遊行二世の法位をついだ 坊さんである。
時宗は藤沢の清浄光寺を本山とし、諸国を遊行して勧化するので、俗に遊行宗といった。
他阿上人の砂持ちにはこんな由来がある。
気比神宮と西方寺との間は三町ほどへだたっていたが、その間は泥沼になっていて、
黒白の竜が住んでいたので、気比明神が嘆いておられた。
他阿上人はそれと知って泥沼を埋めようと発起し、名号を書いて沼に沈め、西方寺の僧尼とともに砂を運びこんだ。
付近の人々も群集して、その仕事を助けたので、日ならずして平地になったと伝えられている。
その習わしは今日まで続き、代々の遊行上人が藤沢の遊行寺(清浄光寺)からここにやって来て、
敦賀湾の西海岸の常宮砂を運んで神前に敷くことになっていた。
青竹二本に白布を垂れ、その中に真砂盛り、西方寺の住持を相棒にして遊行上人がかつぐという大がかりな行事であった。
元禄二年(一 六八九)にも、芭蕉の来る前に、遊行四十四世尊仁上人が北陸巡錫の途次砂持ちの儀式が行われた。
芭蕉は気比神宮に参拝して、こういう句をよんだ。
月清し遊行のもてる砂の上
気比の明神に参拝してみると、 社前に美しい砂が敷かれて、おりから八月十四日の月が、その上を々と照らしている。
その砂は遊行上人が持ち運ばれた砂だと思うと、まことに尊い有難い思いがする、というのである。
「月清し」というのは、ただ月が清らかであるばかりではなく、
白砂の清らかなことや、神前の神々しいことや、遊行上人の心境の清らかなことまで説明しているようである。
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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行
月清し遊行のもてる砂の上
これは『おくのほそ道』に組み込まれた一句である。
敦賀市の気比神宮には、昔、毒竜がすんでいて危険な沼があった。
それを二世の遊行上人が人々と図って、沼を砂でうめることにした。
そして毒竜は退治されて、人びとはやっと安心して暮らせるようになった。
そういう謂れのある砂原の上に清らかな月が輝いているという一句である。
これも故事を中心にした月の旬で、二世の遊行上人の毒竜退治という武ばった行為と、
無言でただただ清らかな月とを対比させている。
言ってみれば、現実の月が昔話と組んで、ひとつの美しい句ができあがった。
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