しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高瀬舟唄(旭川)

2023年01月23日 | 民謡

 

岡山県三大河川の吉井川・旭川・高梁川と、その支流には、大正末ごろまで高瀬舟が運航していたが、

鉄道にとって代わられた。

本格的なトラック陸送が始まったのは昭和30年代のなかば頃からだろうか。

 

(鉄道と旭川 2019.4.9 建部・福渡)



「旭町史」 旭町 平成9年発行

明治の全盛期には370隻が就航していた。
明治31年の中国鉄道(現津山線)の開通で打撃を受けたが、それでも大正末年まで就航尾はつづき、昭和3年頃運航はなくなった。


船頭2人を乗せる小型船(ヒセン)と、船頭3人で貨物のみを積む大型船(オーブネ)とがあった。
ヒセンも岡山方面への旅などに利用されていた。
船大工は落合と福渡にいた。


下り荷(岡山方面へ)
米・麦・大豆・木炭・割り木、こんにゃく、鉱石。
上り荷(帰り)
酒・雑貨・酢・醤油・塩・砂糖・肥料など。
下り2700~2800貫(約10トン)、上り400貫(1.5トン)ともいわれる。





川筋にある問屋が集荷し、付近には茶屋や旅籠もあり、船着き場も整備されていたが、
そのほとんどがダムにより水没してしまっている。

旭町からは一日あれば岡山に着いた。
帰りは三・四泊を要した。
流れの難所やかんがい用の井堰の航行に難渋した。だいたい一日4~5里しかのぼれなかった。



高瀬舟は、7~8艘つれだっているのがふつうである。
瀬や堰で舟を引き上げるために共同作業をしなければならないからだ。


高瀬舟は、晩までに積み荷を終えて、朝早く出ていくのがふつうである。
舟には飲食に使う道具や寝具などが持ち込まれていた。
米や野菜や、塩干物、調味料なども用意され、石のくどで炊事した。
冬には炬燵も持ち込まれ、風呂はないが川岸の宿場で銭湯にはいった。

船頭は金毘羅様を信仰した。
事故は増水時の下り舟に多かったので、船着き場などに金毘羅様を祀り、舟行の安全を祈ったという。

運賃積みと自己積みがあった。
川筋にはいくつもの安宿があり、岡山の中島遊郭で散財したり、金川でどんちゃんさわぎをして、すってんてんで帰ることもあった。




船頭唄
船頭唄を歌うのは舟を引き上げる時が多かった。
引き上げるのは重労働であるから、親方船頭が綱曳船頭をはげますためにうたう。

川沿いで洗濯などをしている女性をつかまえて、
すぐ唄にする卑猥な唄が多かったといいます。

 

(旭町 2019.4.9)

 

 



「旭川高瀬舟唄」



備前岡山へヨー 一夜で来たがヨー ヤレ
戻りゃ山坂ヨー 七、八日
綱を背にかけ舟を曳く
ヤサェー 高瀬の船頭シューシュラシュー



二里もこがねにヨー 水かさ増したヨー
ヤレー 奥の美作ヨー 雨じゃろか
エンヤー あの娘の涙雨
ヤレサー 高瀬の船頭シューシュラシュー


・・・


「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行

高瀬舟のまち

古から伝わる名物「落合ようかん」は、舟形をしている。
落合は古くから高瀬舟のまちである。
落合より川上の旭川流域の物資は、落合に集まった。
元禄の頃49艘の高瀬舟があった。
落合を未明に出発した舟は、16里(64km)離れた岡山京橋には夕方着いていた。


・・・

 

 

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