”南北朝正閏論”は、
南北朝のいずれが正統かの論議で、下記の4論がある。
南朝正統論
北朝正統論
両統対立論
両統並立論
戦前は都合のいい物語が重視で、戦後は歴史学が重視されているが、皇室の歴史だけに自由議論とは言えないように見える。
・・・・・・
「時代小説で読む日本史」 末国善己 文芸春秋社 2011年発行
帝国大学国史科初代教授・重野安績
1875年から国家主導による修史事業の責任者になった重野は、
西洋から輸入された歴史学に触れ、政府の方針とは異なる主張を始める。
複数の資料を比べ、その資料が信頼できるかを検証する実証主義を重んじるようになった。
「大日本史」を批判し、児島高徳を空想上の人物と断じた。
1893年編纂事業は文部大臣により停止が命ぜられた。
南北朝正閨論争
明治天皇は北朝系の天皇だが、明治政府は天皇親政を実現させた御醍醐天皇が起源となる南朝を正統としたかった。
つまり南北朝を論じる限り、万世一系という国是を論理的に説明することが難しいのだ。
1911年国会で問題になった。
南北朝の正当性を議論することはタブー視され、これが『太平記』の神格化を強めていくのである。
・・・・
大楠公御殉節・七生報国
兵庫県神戸市・湊川神社
(「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」と互いに誓いあい、兄弟刺しちがえて、その偉大な生涯を閉じられたのでした)
・・・・
建武中興六百年記念祭
1930年代にはいると、国民精神の高揚が叫ばれるようになり、
特に建武中興や南朝、天皇の忠臣・楠木正成の神格化が本格化する。
1934年が後醍醐天皇が建武と改元してから600年、
1936年が楠木正成が湊川で戦死してから600年、にあたることから
全国各地でほぼ2年にわたって様々な式典が行われた。
尊王思想を徹底させる記念祭は神職会が推進したが、その背後には政治家や軍部の強力な支持があったとされている。
同じ1934年1月には、斎藤実内閣の中島久万吉商工大臣が、雑誌「現代」に、
天皇を裏切った逆賊・足利尊氏を擁護する論文を発表したことが国会で問題となり、辞職に追い込まれている。
ここからも、当時の南朝礼賛の熱狂が見て取れるだろう。
後醍醐天皇悪玉論
後醍醐天皇は殷の紂王のように「君の徳」から外れた暗遇な指導者とされている。
『太平記』の巻一には、
「年十七八なる女の、みめかたち優に、膚殊に清らかなるを二十余人」集め
「すずしの単衣ばかりを着せて、酌を取らせ」ては「遊び戯れ舞ひ歌う」パーティを開いていたと記述されている。
後醍醐天皇=悪玉論を覆したのが、1657年からはじまった水戸光圀編『大日本史』である。
尊王思想を軸に歴史解釈で執筆された『大日本史』は、『太平記』が虚実ないまぜの軍記”物語”であるにもかかわらず、そのすべてを歴史的事実として採用。
後醍醐天皇から始まる南朝を正統とした。
『大日本史』は、儒教、国学、神道による国家運営を是とする水戸学を生み出し、幕末の尊王運動にも影響を与えることになった。
・・・・・・
(2018.3.9 東京都千代田区)
戦後
(Wikipedia)
第二次世界大戦後は、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。
ただし、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになる。
また価値観の転換や中世史の研究の進歩で、
足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「悪党」(悪者を意味せず、幕府等の権力に反抗した者をさす)としての性格が研究されるようになり、
後醍醐天皇の建武の新政は宋学の影響で中華皇帝的な天皇専制を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。
網野善彦は職能民など非農民層に着目し、
南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。
南北朝のいずれが正統かの論議で、下記の4論がある。
南朝正統論
北朝正統論
両統対立論
両統並立論
戦前は都合のいい物語が重視で、戦後は歴史学が重視されているが、皇室の歴史だけに自由議論とは言えないように見える。
・・・・・・
「時代小説で読む日本史」 末国善己 文芸春秋社 2011年発行
帝国大学国史科初代教授・重野安績
1875年から国家主導による修史事業の責任者になった重野は、
西洋から輸入された歴史学に触れ、政府の方針とは異なる主張を始める。
複数の資料を比べ、その資料が信頼できるかを検証する実証主義を重んじるようになった。
「大日本史」を批判し、児島高徳を空想上の人物と断じた。
1893年編纂事業は文部大臣により停止が命ぜられた。
南北朝正閨論争
明治天皇は北朝系の天皇だが、明治政府は天皇親政を実現させた御醍醐天皇が起源となる南朝を正統としたかった。
つまり南北朝を論じる限り、万世一系という国是を論理的に説明することが難しいのだ。
1911年国会で問題になった。
南北朝の正当性を議論することはタブー視され、これが『太平記』の神格化を強めていくのである。
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大楠公御殉節・七生報国
兵庫県神戸市・湊川神社
(「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」と互いに誓いあい、兄弟刺しちがえて、その偉大な生涯を閉じられたのでした)
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建武中興六百年記念祭
1930年代にはいると、国民精神の高揚が叫ばれるようになり、
特に建武中興や南朝、天皇の忠臣・楠木正成の神格化が本格化する。
1934年が後醍醐天皇が建武と改元してから600年、
1936年が楠木正成が湊川で戦死してから600年、にあたることから
全国各地でほぼ2年にわたって様々な式典が行われた。
尊王思想を徹底させる記念祭は神職会が推進したが、その背後には政治家や軍部の強力な支持があったとされている。
同じ1934年1月には、斎藤実内閣の中島久万吉商工大臣が、雑誌「現代」に、
天皇を裏切った逆賊・足利尊氏を擁護する論文を発表したことが国会で問題となり、辞職に追い込まれている。
ここからも、当時の南朝礼賛の熱狂が見て取れるだろう。
後醍醐天皇悪玉論
後醍醐天皇は殷の紂王のように「君の徳」から外れた暗遇な指導者とされている。
『太平記』の巻一には、
「年十七八なる女の、みめかたち優に、膚殊に清らかなるを二十余人」集め
「すずしの単衣ばかりを着せて、酌を取らせ」ては「遊び戯れ舞ひ歌う」パーティを開いていたと記述されている。
後醍醐天皇=悪玉論を覆したのが、1657年からはじまった水戸光圀編『大日本史』である。
尊王思想を軸に歴史解釈で執筆された『大日本史』は、『太平記』が虚実ないまぜの軍記”物語”であるにもかかわらず、そのすべてを歴史的事実として採用。
後醍醐天皇から始まる南朝を正統とした。
『大日本史』は、儒教、国学、神道による国家運営を是とする水戸学を生み出し、幕末の尊王運動にも影響を与えることになった。
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(2018.3.9 東京都千代田区)
戦後
(Wikipedia)
第二次世界大戦後は、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。
ただし、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになる。
また価値観の転換や中世史の研究の進歩で、
足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「悪党」(悪者を意味せず、幕府等の権力に反抗した者をさす)としての性格が研究されるようになり、
後醍醐天皇の建武の新政は宋学の影響で中華皇帝的な天皇専制を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。
網野善彦は職能民など非農民層に着目し、
南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。
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