特攻の観光地、鹿児島県知覧に観光で行った人が、
特攻隊員の手紙を読んで泣く。
それは観光客の自由で、泣きたいだけ、気が済むまで
存分にいつまでも泣けばいい。
だが
原則、「死人に口なし」。
特攻隊員の遺書は隊員の直筆だが、
「まだ死にたくない」「負ける」とでも書こうものなら、即座に没。
「お父さん、お母さん、お世話になりました。お国のため、喜んで死に行きます」は、即座に採用。
そこだけは、前提として読んでから・・・泣いてほしい。
・・・
殉国の士を、
せめても書き残して、後世に継ぐ、
そういう著者の篤い志が伝わる郷土本が笠岡市にもある。
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(新山小・奉安殿)
「先哲と殉国の士・新山人物誌」 山部明 新山公民館 昭和47年発行
私の新山村助役時代は、
支那事変から大東亜戦争(こんな言葉は使ってはいけないとかだが)の再只中で、
私は来る日にも来る日にも出て立つ、若き戦士の勇姿を、
今は無き新山駅頭に送った。
そしてその多くは彼方の地に散華され、
迎えたのは白布につつまれた英霊でありました。
このことは素朴な農夫である私の心を永久に痛ましめるものであります。
そして、
これらの方々の名前だけでも集録して、
後世にとどめておきたいという祈願が、
長く私の胸に去来し、これが本書をものした第一の動機であります。
関係のお家で、根ほり葉ほりお話を伺ったりして、
失礼な事も多いと思いつつ
それでも私にできる老後のご奉公の唯一のものと信じ、
稿を閲した次第です。
・・・
山部巧
生 大正9.2.22
没 昭和20.4.7(26)
山口の人。
父永三郎は、現役兵当時、聯隊きっての模範兵で、感状賞状その数を知らず。
不幸、42才で去った。
母ナツノは男5人、女2人を無事に育てた。節婦である。
功は兄弟たちと共に、母に孝養を尽くした。
昭和12年、呉海軍工廠に就職した。
昭和16年徴兵検査に甲種合格となり、現役兵として呉海兵団に入った。
海軍軍人としての教養を着々と身につけ、軍艦大和に乗り込んだ。
大和は連合艦隊の旗艦で、三千三百人の乗組員はみな
最優秀の技倆の持ち主ばかりであった。
君はその中に選ばれて、
開戦以来、全海域にめざましく活躍した。
しかし戦争末期大和は巡洋艦、駆逐艦を率いて沖縄特攻を企て、
昭和20年4月7日、
徳之島西方の海域において、二時間余の激戦の後轟沈した。
君また乗組員一同と共に南海の華と散った。
戦功により勲七等功5級を賜る。
官は海軍兵曹長。
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