家は果物農家だった。
残念ながら父母に、戦時中の果物の作付制限のことを聞いていない。
父母は、その事を自らも話をしなかった。
たぶん、
父は断続的に兵役に就き、
母は農婦・主婦・母・家政婦および雑役婦で身体も気力も余力が無く、
毎日のことで精いっぱいだったので、
果物の作付・・・この場合、老木の植え替え・・・まで、事実上手が回らなかったと思える。
おそらく、桃や梨を植えるのは茂平でも、どこでも日本全国制限があった。
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「新修倉敷市史6」
農業も厳しい統制下へ
昭和16年4月、農産物作付制限規則を公布
果物・桑・茶・庭木など新植を抑え、翌年からは
スイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
昭和18年秋、いっそう強められ、農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。
農作業の仕方も統制された。
共同で田畑の管理・田植え・除草・収穫など決め、人を雇ったり雇われたりして農業することを制限した。
一方で農家は米麦や芋類の食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで供出の増加を求められた。
農科は深刻な肥料不足にも対処しなければならなかった。
玉島町では学童を動員して家庭の灰を集め、市街地のゴミや人糞尿、蚕の糞から川底の泥まで肥料にしている。
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「真備町史」 真備町史編纂委員会 昭和54年発行
農地作付統制規則
昭和12年7月より支那事変、このため県下の農業も戦時体制への転換となる。
この時の農業で最も重視されたのは食糧の増産と管理であった。
供出と配給は米に始まり、次第に麦、いも、雑穀類まで適用され、
次第にすべての副食物、調味料も配給、本県では昭和14年の旱害により節米を奨励し、15年から統制。
食糧統制は昭和17年食糧管理法で供出の事前割当制、部落責任供出制などにより一層強化、
決戦態勢となり昭和16年には農地作付統制規則が制定され、不要の作物の作付は制限または禁止となった。
続いて17年からは桑園、ぶどうを除く果樹園などの整理をし、主要食糧作物に転換せしめ、これがため換金作物を制限された面では農家に不利となる。
肥料の配給は昭和12年より始められ、
肥料を施すのも制限が加えられ、主要食糧の増産の方に肥料をまわすよう指示。
農機具も昭和13年より統制され、18年には農機具生産者の整理統合。
また、昭和13年には農地委員会が設けられ、小作料の軽減を企てた。
更に小作人から高く米を買い上げ、地主米の価は安くし小作料の金納も認めた。
これにより地主は農地改革を待たずして大きな打撃を受けるに至る。
主要食糧作物のうち麦類,いも類は作付面積が多くなり、特に昭和15年には小麦の作付け面積は史上最高となった。
水稲は14年、15年と不作、昭和20年には特に不作。
しかし農家の経済面は良くなって戦後に続いた。
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「岡山市百年史」
戦時体制下の農漁村
一般農産物のほかに軍需農産物の増産がはかられた。
当時、軍需農産物といわれたものは、
大麦・乾燥稲わら・梅干・ウサギ毛皮・ウサギ肉・牛馬・むしろ類・真綿類・綿花・サツマ芋などであった。
昭和15年10月に、中央で大政翼賛会が発足し、いわゆる新体制運動がはじまった。
昭和16年10月には、農民は
スイカ・メロン・花卉・イチゴの作付けを禁止され、
蘭・白ウリ・レンコン・除虫菊などは大幅に制限されることとなった。
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復刻版「岡山県農地改革誌」 船橋治 不二出版 199年発行
臨時農地等管理令の制定
大陸の彼方に限りなく拡大された支那事変は軍需生産増強の要請を絶対なならしめ、
そのため農地が軍需関係用地に転用されるものが増加した。
更に農村においては、労働力が不足し農地の完全利用がなされず休空閑地さえ散在する状況を示し、
しかも極端な労働減は遂に安易な作物へ作付け転換をなすものすら漸増せしめる結果となった。
このような情勢から農地の保全と食糧増産の目的を完遂するために農地の潰廃を統制し、農作物の作付けを制限すると共にその調整を図ることにした。
1・農地潰廃の制限
農地を耕作している者は、農地以外に供すときは、50坪を超えるときは原則として知事の許可を要する。
2・耕作の強制
知事は休空閑地に対し、耕作するよう勧告することができる。
しかし本県においてはこの規制によって知事が作付けの強制命令を発したことはない。
3・耕作の調整
不急不要な作物も作付けされているので、国家の要請に合致した重点的な作物の作付けがなされるよう作付けの調整を行うこととされたのである。
(イ)
作付けの制限又は禁止
農林大臣又は知事は必要と認めたときは、その農地の所有者、耕作者に対して一般的に農作物の種類、作付け期間等を指定して作付けの制限又は禁止することができる。
(ロ)
作付けの命令
知事が必要と認めたときは特定の農地の管理者に対し農作物の種類、その他の事項を指定してその作付けを命ずることができる。
かくして不急不要の農産物を制限、又は禁止して緊急な農作物の増産を図ると共に農地の利用を完璧を期したのである。
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農地作付制限の実施
第一次統制
昭和16年4月17日公布実施して統制すべき作物を第一種、第二種に区分しその作付に制限を加えた。
第一種制限作物
農地全般
果樹、桑樹、茶樹、庭木、柳、桐、マオラン、竹。
第二種制限作物
田
西瓜、甜瓜(メロンまたはマクワウリ)、越瓜、蓮根、薄荷、除虫菊、花卉、藺草、苺、綿、苗木、(・・・ほかにもあり、漢字が読めず未記・管理人)
畑
西瓜、甜瓜、花卉、苺。
統制方針
(イ)
第一種制限作物
昭和16年4月17日以後、新に栽植することを禁止した。
(ロ)
第二種制限作物
作付せんとするときは知事の許可を受けねばならぬ、
但し自家用は除く。
(ハ)
昭和17年、第二種は許可に加え田の制限率を定めた。
(ニ)
藺草
ほかのものと切離して別途これを統制した。
農家経済の急激なる変動打撃を緩和する意図も含み、許可面積を定めた。
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第二次統制
昭和16年10月16日、農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
必要に応じ食糧農産物に作付転換せしむことが規定された。
食糧農産物
稲、麦、甘藷、馬鈴薯、大豆。
制限農産物
桑、茶、薄荷、果樹、花卉。
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第三次統制
第二種制限作物の第三次統制告示
太平洋戦争ますます苛烈を極め時局が深刻化するとともに農村労力の極端なる不足を見るに至り、
更に農具、肥料等の生産資材の欠乏甚だしいものがあって、農業生産力は必然的に減産し国民食糧は極めて緊迫を告げるにいたった。
この改正に於いては田に対する作付は全面的にこれを禁止する方針をとったが、藺については軍需も相当あったので昭和18年作付面積を確保する方針で統制し、
除虫菊は南方戦場に於ける特殊作物であったので作付を認めた。
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第四次統制
不要不急作物の作付制限を一層強化し、必需農産物の作付面積を確保する趣旨により、昭和19年8月1日省令を改正。
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