忠海高校出身の友人Kくんには、
忠海の決まった自慢話があった。
一つは学校のOB自慢、池田勇人首相とNHK政治討論会の司会者・唐島基智三さん。
二つは「エデンの海」があり、鶴田浩二が映画ロケで来て馬で走った。
たしかに首相を輩出した学校は、滅多にあるものではない。
鶴田浩二が馬に乗って街を走るロケがあったことも、大いに自慢できる。
忠海の街は、前に瀬戸内海、後ろに白滝山・黒滝山がそびえ、風光明媚な呉線沿いの湊町。
市役所のある竹原も、重伝建の町並み、洋酒のニッカ、塩田跡など見どころが多い。
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「エデンの海」は、小説の内容や時代背景が「青い山脈」と似ている。
何度も映画化されるのも、また似ている。
女学生たちが敗戦によって「学徒動員」や「竹槍訓練」から解放され、
次にマッカサーによって「女性が開放」された。
その時代を非常によく現した作品と思う。
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代理当直でその夜舎監室にとまった青年教師南条は、十時半の尾道上りの巡航船の笛を夢うつつに聞いてま
たひと眠りしたとき、
耳もとにささやく生徒の声に目をさました。
「先生、どろぼうがはいったんです」
白シャツでねていた南条は、そこにあっただれかのレインコートをひっかけて忍び足に急いだ。
早くも黒い影は塀ぞいに走りかけた。
どろぼうではないと直覚し「待て!」と呼んで懐中電燈を背中に浴びせかけると、
立ちどまってこちらを向いたのは南条の受持、三年生東組の清水巴だった。
舎監室の八十燭光の下で、巴の顔は淡化粧でもしているのかと思われるほどかがやいて見えた。
まぶしそうに細めた睫の表情が無類である。
「わたし、本当に好きな人は、先生です」
またたきもしない。
かえって南条の眼がたじろいだ。
旅の場所・広島県竹原市忠海町
旅の日・2006.9.26
作品名・エデンの海
作者・若杉慧
発行・「名作文学6・野菊の墓ほか」 学習研究社 昭和53年発行
明るい太陽、海の反射、段々畠にみのるレモン、オレンジ、「制服の処女」の群れ――
独身の男教師は採用した例がないというこの南国の海の女学校に、南条は破格の足音を立てて登場したのである。
彼の新生活ははじまった。
彼の口ずさむ歌は音楽教師の正課よりもすみやかにひろがり、町の写真屋では彼の手札型が彼の知らぬまにブロマイドのように焼き増しされていた。
いたるところの樹木に彼の名がほられた。
馬と少女はトンネルの中からたちまち明るい陽光の中におどり出た。
あまりにも不意な『コロンバ』の出現。
絹ポプのブラウスにもんぺ草履ばき、ひらりと飛びのって裸と裸の接触、馬人一体。
自然の二つの生きものが脈搏そろえた美しさであった。
南条は岩群の先端に立って遠く目をやった。
生と死を抱蔵し、あらゆる生命の流動をひそめて海は沈黙していた。
悲しみも、よろこびも、生の恐怖もまたその希望も、一つの沈黙に溶けて揺れうごいていた。
彼の身内にもそれに呼応するものを感ずるのだけれども、何の言葉で呼んでいいかわからなかった。
(エデンの海)