しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「平家物語」敦盛最期  (兵庫県神戸市)

2024年05月19日 | 旅と文学

平家物語には、いくつもの”花”があるが、
「敦盛の最期」も古くから多くの人の心に残る話となった。
近代では歌に映画にドラマに、美少年が歌ったり演じたりした。
古くは織田信長の幸若舞”敦盛”も有名。

神戸の須磨寺にはたいそう立派な二人の銅像が建っている。

 

 

旅の場所・兵庫県神戸市須磨区須磨寺町・須磨寺  
旅の日・2021年11月4日 
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

 

 

 

・・・


「平家物語」 熊谷

熊谷次郎直実は、なんとかして平家方の大将に組みたいものと、波打ち際に馬を進めた。
その熊谷の目の中に、大将とおぼしきひとりの武者の姿が映った。萌黄匂い(黄緑色)の鎧を着て、
形打った甲の緒をしめ、黄金作りの太刀をはき、連銭葦毛の馬に乗って、沖の船へ泳ぎ着こうと、
海へざっと打ち入れた武者の様子は、あっぱれ一方の大将軍と見えた。

熊谷は手に持っ扉をさっと開き、
「そこなお方はあっぱれ平家の大将軍と見受けまする。敵に後ろを見せるとは卑怯ですぞ。返したまえ!」
すると相手はすぐに馬の向きを変え、波打ち際の熊谷目がけて引き返してくる。
水を切って上がろうとするところへ、熊谷は押し並べてむんずと組み、どうとばかりに両方の 馬の間へ落ちた。
熊谷は坂東に聞こえた大力無双の豪傑である。
たちまち相手を取って押え、下に組みしいて首を取ろうと、相手の顔を仰のけて見れば、こはいかに! まだ十六、七歳の少年ではないか。 
薄化粧さえした紅顔の美少年である。

「ぜんたい、どこのどなたでございますか。御名を名乗って下さい。お助けいたしましょう。」
「そういう貴公は?」
「名のある者ではございませぬが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実と申しまする。」
「さては貴公にとってはよい敵だ。ゆえあって自分の名は名乗らぬが、首を取って人に尋ねてみよ。見知っておるであろうぞ。」
少しも悪びれたところがなく、少年ながら、じつにりっぱな態度である。
熊谷はほとほと感心した。


―たとえ、この人ひとりを見のがしても、味方の勝利には変わりがない。
助けてやろう。
熊谷の心には、仏のような慈悲が生じてきた。
ところが運の悪いことに、後ろから源氏の武者が五十騎ばかりかけてきた。
熊谷は涙をはらは と流して、
「お助けしようと思いましたが、あいにくと味方の軍勢が参りました。」
「どうでもよいから、早くこの首を取れ!」
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ!」
熊谷は小声で念仏をとなえながら、目をつぶってついに相手の首を取った。

ああ、武士ほどつらいものはない、武芸の家に生まれなかったなら、このように残酷なまねはせずにすんだであろうものを。
ああ、むごいことをしたものだ。残念なことをしたものだ。
熊谷はしばらくそこにうずくまったまま、鎧の袖を顔に押しあてて、男泣きに泣くのであった。

・・・

 

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「徒然草」仁和寺にある法師  (京都府・石清水八幡宮)

2024年05月19日 | 旅と文学

数年前に旅行で、北海道の神威岬に行ったことがある。
駐車場から岬まで、歩いて前に進むほどに景観に感動が増してきた。
ついに岬まで行き満足感にひたりながらUターンして来た道を戻った。
行きも帰りも見事な眺めに北海道に来たよかった。
神威岬に来てよかった。そう思った。
旅行から家に帰り復習をしていると、ガイド本と、景観が一致しない。

神威岬の肝心な場所を見物していなかった。
カメラで動画を残していたで見てみると、
約半数以上の人が、同じように、肝心な場所を眺めないまま岬を去っていた。


徒然草の有名な話、「仁和寺にある法師」は、
たぶん誰でも二~三回は、同じような体験があるように思う。

 

(仁和寺にある法師が見た八幡宮)

 

旅の場所・ 京都府八幡市男山  石清水八幡宮
旅の日・2015年2月18日 
書名・徒然草
原作者・吉田兼好
現代訳・「徒然草・方丈記」島尾敏雄  世界文化社  1976年発行

 

 

(仁和寺にある法師が見なかった八幡宮)

 

「徒然草」 

仁和寺にある法師

仁和寺に居た或る法師が、年をとるまで石清水八幡宮に参詣したことがなかったので情ないことに思い、
或る日思い立ってただひとり歩いてお参りをした。
麓の極楽寺や高良社などの末社を拝み、これだけのものと思いきめ、山上の本社には行かずに帰ってしまった。 
さて、仲間に会って、「長いあいだ思いつづけてきたことがやっと果たせて、やれやれだ。
聞きしにまさる尊いものであった。
でも参詣の人がみんな山の方に登って行ったのは何があったのだろう。
自分も行ってみたかったけれど、神詣でこそ本筋と思い、山の上までは行かなかったよ」と言ったという。
些細なことにも先達はほしいものだ。

(第五十二段)


・・・・

 

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「義経記」 弁慶義経に君臣の契約申す事    (京都市五条大橋)

2024年05月16日 | 旅と文学

童謡「牛若丸」で有名な五条大橋。

京の五条の橋の上 
大のおとこの弁慶は 
長い薙刀ふりあげて 
牛若めがけて切りかかる

歌の他にも
児童図書・絵本・漫画・紙芝居・映画・歌舞伎・絵画等、
日本人なら知らぬ人はいないほど有名なお話し。

「義経記」では、
当日、弁慶は「五条」を出て、「堀河通」で牛若丸と出会い、「清水寺」で対決した。
当時、五条に「五条大橋」は架かってなかったそうだ。

 

・・・・

旅の場所・京都市東山区五条通鴨川
旅の日・2016年12月2日
書名・「義経記」
原作者・不詳
現代訳・「義経記曽我物ほか」 世界文化社 1976年発行

・・・

 

 

 

訳者・井口樹生

弁慶義経に君臣の契約申す事

弁慶が考えたのには、およそ人の重宝は数を千揃えて持つものだ。
奥州の秀衡は名馬を千疋、鎧を千領揃え持ち、
肥前の国の松浦の太夫は胡籬千腰、弓千張揃え持っているという。
このように重宝を揃えて持つには、我等法師にとっては代金がないからして、買って持つべき方法がない。
つまるところは京都の街中にたたずみ、人がいている太刀千振をとって自分の重宝にしようと思い立ち、夜な夜な人の太刀を奪い取る。

 しばらくすると、
「このごろ洛中に背丈一丈ばかりもある天狗のような法師がのし歩いて、人の太刀を取る」
という噂が立った。
かくてその年も暮れて、次の年の五月末、六月の初までに、数おびただしい太刀をとった。
それをば樋口烏丸の六条御堂の天井に隠し置いたが、ある日数えてみると 既に九百九十九振取っていた。


趣深い笛の音が聞えてきた。
弁慶これを聞いて、風流なことよ、このような夜更けに天神に参る人が吹く笛か、法師であろうか、男であろうか、
立派な太刀を持っていたらば取り上げようと思って、笛の音の方に近づいて行き、かがみ腰してみると、
白い垂直に、白い胸板のある腹巻(鎧の一種)を着け、黄金造りの太刀の思いもよらず立派なのを帯いたまだ若い男であった。 
弁慶これを見て、ああ何とも良い太刀だ、どうともあれ、あの太刀取らずにおくものかと思って、待った。


こうして弁慶は義経の黄金造りの太刀欲しさにうちかかったが、
義経は六韜の兵法により九尺の築地を飛び上がり、あまつさえ弁慶の太刀を折りまげてしまった。

 

 

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「好色五人女」お夏清十郎物語  (兵庫県室津港)

2024年05月16日 | 旅と文学

お夏清十郎の舞台は姫路城下だが、清十郎の放蕩の始まりが室津港。
お夏は「お夏狂乱」後は子細が不明だが、
備前市片上にお墓がある。

物語りは、歌舞伎に映画に舞台に今も大スターが演じつづけられている。
主な役者に、
水谷八重子、田中絹代、美空ひばり、大原麗子、大地喜和子、
長谷川一夫、市川雷蔵などがいる。

 

 

旅の場所・兵庫県たつの市御津町室津
旅の日・2009年9月6日
書名・「好色五人女」
原作者・井原西鶴 
現代訳・「好色五人女」  世界文化社 1975年発行

・・・

 

 

・・・

「好色五人女」  世界文化社 1975年発行
 


お夏清十郎物語

天下泰平の春の海に、財宝を積んだ船が碇をおろし、播磨の国室津は活気のある豊かな港町である。
この町の造り酒屋で、和泉清左衛門という人物がいた。
家業繁昌で、なんの不足もない身の上である。
その上、清十郎というその息子は、生れついての美男で、写し絵の業平を上まわるくらい、女好きのする姿かたちである。

十四のときから、遊蕩にうちこみ、 室津の遊里にいる八十七人の遊女たちと、ことごとく深い仲になった。 
心中立ての紙は厚い束となり、
遊女の寄越した小指の爪は手箱からあふれるくらい、
遊女が切った黒髪は、太い縄 をなえるくらいの量である。
この縄を見れば、どんなに 嫉妬深い女でも、かえって心をひかれるだろう。
遊女からの手紙が毎日届いて山となり、贈りものの定紋つきの小袖は、積み上げたまま手も触れない。

三途の川のほとりで亡者の着物を剥ぐという鬼婆も、これを見たならば
うんざりするだろうし、
高麗橋筋の古着屋もあまりの数が多さに値段が付けられないだろう。
それらの品物は蔵に詰め込んで、「浮世蔵」と扉に書き記しておいた。

「この馬鹿者めが、こんなに品物を蓄めこんで、値上りするのを待ってでもいるのか。
そのうち勘当される羽目になるだろうに」
と、蔵を見る人はそう言って歎いているが、やめられないのは色の道である。

非難の声や世間の噂などなんともおもわない。
月夜にちょうちんをあかあかとともすような駄々羅あそびをつづけ、
昼間から座敷を閉め切って、昼のない国にして、小ざかしい幇間を沢山集め、夜の気分を出すために、夜番の拍子木をたたかせ、蝙蝠の鳴きまねをさせる。 

今度は世界地図にある裸島の真似をしようと、店中のこらず裸に剥き、
無理矢理着物を脱がせられ女郎たちは、肌の見えるのを羞じらった。

 

・・・

 

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五・一五事件(昭和7年5月15日)

2024年05月15日 | 昭和元年~10年

大統領や首相が暗殺されることは、世界でもたまにある。
しかし国の首相が暗殺され、その犯人にたいして
助命嘆願とか、求婚をする国民がいただろうか?
残念ながら、それが昭和7年の日本であり、しかも一等国を自認する国民であった。


いったい昭和7年とは、どんな時代だったのだろう。

・・・

「1億人の昭和史」 毎日新聞  1975年発行

少壮軍人が前年に計画したクーデター「三月事件」と「十月事件」はともに未然に発覚したが
この年2月に井上準之助 
3月に團琢磨が”一人一殺”を唱える血盟団員の手で暗殺され 
5月15日 
陸海軍人が首相官邸を襲い 犬養首相を殺害した

・・・

 

2023年4月1日   岡山市北区吉備津・吉備津神社   

・・・


とどめを刺された 政党内閣

血盟団事件の記憶もなまなましい五月一五日の白昼、
四班にわかれた 海将兵の一隊が、首相官邸、牧野内大臣邸、警視庁、政友会本部、日本銀行、三菱銀行本店などを襲撃した。
この事件に参加した勢力は、古賀清志、三上卓海軍中尉を中心とする10名の海軍青年士官、陸軍士官候補生11名からなる行動隊、
愛鄉塾頭橘孝三郎を主領とする農民決死隊、大川周明、本間憲一郎(紫山塾頭)、頭山勇 (天行会長、頭山満の三男)、長野朗ら民間における援助者であった。
クーデター全体の指揮は古賀中尉が当たることとなり、
第一段の行動として、三上以下の第一組が首相官邸と日本銀行を、
古賀以下の第二組が牧野大臣邸を、
中村らの第三組が政友会本部を、
明大生二名の第四組が三菱銀行を襲撃、
さらに第二段の行動として、第一~三組が集合して、警視庁を襲撃、
他方、別動隊として農民決死隊が日没ごろから市内の変電所を襲撃して東京を暗黒化する。
また川崎長光が「裏切者」の西田税を射殺する。
こうして東京を混乱におとしいれ、戒厳令下に、荒木貞夫陸相を首班とする軍部政権を樹立しようというものであった。

この計画で完全に成功したのは、犬養首相の暗殺だけであった。
首相官邸にいた犬養は「話せばわかる」といって制止したが、「問答無用!」のことばとともに拳銃で射殺された。
その他の各所では拳銃を発射して手榴弾を門前に投げるなどの示威を行なったのち、憲兵隊へ自首。


事件の公判は翌年7月から開かれた。9月にはいって下された判決は、
「青年将校決起機は諒とする」との理由で、意外に軽く、陸軍側10名はいずれも禁固4年、海軍側は古賀、三上の禁固15年を最高に、13年1名、2年2名、1年11名という結果であった。
これに対して民間側20名は、橘の無期を筆頭に、大川・後藤・池松武志各15年、最低3年6ヶ月となった。
橘は下獄にさいし、「自分に与えられた無期の判決は青年将校の身代りになりえた」 と洩らした。

首相を失った犬養内閣は事件の翌16日総辞職した。 
軍部は事件の結果を最大限に利用し、
それを政党攻撃のプロバガンダとするとともに、 
「純真なる青年将校」を政治圧力として自己の発言権をいっそう強化することに成功した。

「教養人の昭和史5」 現代教養文庫 昭和42年発行

 

・・・


昭和7年は今でも有名な事件が目白押しだが、
やはり「満州国」に関する事が目につく。


前年度(昭和6年=1931)に柳条湖事件勃発、15年戦争が始まっている。
その流れの延長で昭和12年に、日中戦争が起こり、
昭和16年には太平洋戦争。
昭和20年に敗戦。

昭和7年は15年戦争の2年目、
以後、日本は発狂したかのように神国化したが、国土は焼け野原になって終わった。

こうしてみると、
木堂先生が満州国を認めようとしなかったのは、
自己の命を懸けてでも国を護るという、本当の”国士”だったとも思われる。

 

・・・

■昭和7年の出来事

1月8日  李奉昌 桜田門外で天皇の馬車に爆弾を投げる
1月26日 相撲界の革新を叫び天竜ら脱退
1月28日 上海事変
2月9日 前蔵相・井上準之助暗殺
2月22日 肉弾三勇士の戦死を軍部が発表
2月2日 リットン調査団来日
3月1日  満州国の建国宣言
3月5日  三井合名理事長・團琢磨暗殺
3月24日  中野重治らプロレタリア作家検挙される
4月2日 東京の上野駅が新築落成
4月18日 浅草の活弁・楽士3千人がトキー映画に反対してストライキ
5月9日  大磯・坂田山心中事件
5月1日  チャップリン来日
5月13日  五・一五事件 犬養首相殺害
5月26日  斎藤実内閣成立
6月22日  警視庁特高警察部を設置
7月24日  全国労農大衆党と社会民衆党が合同社会大衆党を結成
7月27日  文部省農漁村に20万人の欠食児童と発表
8月7日 ロスアンジェルス・オリンピックの実況放送が行われる
10月1日  東京市の人口497万人余 世界第2位の大都市となる
10月1日 リットン調査団報告書が届く
10月3日 満州へ武装移民団410人出発
11月1日  大日本国防婦人会が発足
11月10日  日本橋・白木屋デパートで火災

「1億人の昭和史」 毎日新聞  1975年発行

・・

 

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「芸北神楽」を見に『2024JFE西日本フェスタinふくやま』に行く 2024.5.12

2024年05月12日 | 令和元年~

場所・広島県福山市大門町津之下
名称・2024JFE西日本フェスタinふくやま
日時・2024.5.12 9:30~16:00

 

 


子どもの頃から、神楽(かぐら)=備中神楽だった。
九州や出雲の神楽は、ひとまず置いといても、近くの
広島県の「芸北神楽」は是非一度見てみたいものだと思っていた。


毎年恒例の『JFE西日本フェスタinふくやま』で、芸北神楽の上演があり、
見に行った。
今日は雨予報だったが、一時の小雨ですんだ。

神楽は午前10:10~10:50で、
琴庄神楽団「八岐大蛇」。

 

 

 


神楽の筋は神話の素戔嗚尊の大蛇退治で、備中神楽と同じだが
演じ方はまったく別ものだった。

芸北神楽は踊りが派手で、
芝居よりも見栄えを重視しているように感じた。
見て楽しい神楽。
絵になる神楽。

 


・・・

 


「JFEフェスタ」は、以前の「鋼管祭り」の時より、毎年豪華なゲストが来演する。
今年は、
広島県倉橋島の出身、島谷ひとみ。
広島県上下(じょうげ)の出身、アンガール田中が来る。
ラジオ中国で放送される。

 

 

歌は見ずに会場を去ったが、今年も盛りあがったことだろう。

 

・・・

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「下天は夢か」桶狭間  (愛知県桶狭間)

2024年05月12日 | 旅と文学

新聞小説は、たまに面白いのがある。
津本陽の「下天は夢か」は、その代表小説。
おもしろかった。

毎朝、出勤する前に読んだ。ゆっくり読んだ。
毎晩、帰宅後に二度目を読んだ。吞みながら読んだ。

作者の津本陽は作家になる前、「神島化学」に勤めていた。
それで、笠岡や神島のことを本や新聞によく書いていた。
そういう親近感もあった。


・・・

「桶狭間の戦い」の場所は、伝えられている場所が二ヶ所ある。
そのどちらもが
市街地化していて、戦国時代の面影はまったくない、という事も知っている。
知っていても、一度は訪ねてみたいと豊明市の「桶狭間」に行った。
行ってみると、雨中に今川義元が討たれたのはここか。
という満足を強く感じた。

・・・

 

旅の場所・愛知県豊明市栄町  桶狭間古戦場伝説地   
旅の日・2014年10月11日 
書名・「下天は夢か」Ⅰ巻  
著者・津本陽 
発行・日本経済新聞社 1989年発行

 

 

 

桶狭間

全身泥人形のようになった毛利新助は、ふるえる手で義元の首を掻きとり、
首袋に納めると味方のほうへ駆けもどった。

「お殿さま、今川殿が首級を、毛利新助頂戴いたしてござりまするぞ」
彼は声をふりしぼって信長に知らせた。
信長は新助の差しだす首級を見て、狭間にひびきわたる大音声で、敵味方に知らせた。
「今川治部大輔がみ首級は、ただいま頂戴いたしたるぞ」
義元の首級を取られたと知った今川勢は、戦意を失い八方へ逃れ去る。
「追え、追い討ちをかけよ。一人も逃がすな」
信長が声をはげまして下知をかさね、織田勢は切先が折れ、歯こぼれした刀槍をふるい、逃げまど
う今川勢に追いすがり、打ち倒す。

狭い窪地で、地獄絵のような殺戮がつづけられた。
信長は、いま敵を再起できないまでに叩きつけておかねば、逆襲されると攻撃の手をゆるめなかった。
気がついてみると、狭間のうちに動いている人影は、味方ばかりとなっていた。

「義元が首級を持て」
信長はふるえる膝を地につき、首実検の作法通り、首台にのせた首級をあらためる。
義元の首からは、沈香が馥郁と薫っていた。

 

 

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「宇治拾遺物語」中納言師時が法師の男根をあらためた事  (京都府宇治市)

2024年05月12日 | 旅と文学

「宇治拾遺物語」は、日本やインドや中国の面白い話を編纂している。
目的が「面白い話」なので、現代でも通用する面白い話が多い。

古典であるが、童話の方で知られる「こぶとりじいさん」や、
芥川龍之介の小説、「芋粥」の原典になっている。

今は死語になりつつある”わいだん”(猥談・Y談)も多く、
この”中納言師時が法師の男根をあらためた事”もソレで、
少年少女にはちょっと話しにくいお話。

 

旅の場所・京都府宇治市
旅の日・2010.4.8
書名・「宇治拾遺物語」
原作者・不明
現代訳・「今昔物語・宇治拾遺物語」 世界文化社 1975年発行 訳者・野坂昭如

 

 

 

中納言師時が法師の男根をあらためた事

これも今は昔の話だが、中納言師時という方がいらした。
その方のもとへ、ある時、しっ黒の墨染めの衣、丈みじかくまとい、山伏の用いる袈裟をかけ、大きな木練子の数珠をくりつつ、
一人の修行僧があらわれたのだ。 
「お前は、何者か」 中納言が、たずねると、修行僧はひどくあわれっぽい声で、
「この世にはかない生命長らえるのは、辛いことです。さらにまた、はかない生命の、
来し方行く末くだらぬ悩みいだいて、無明の闇にふみ迷うのは、無駄なこと。
そこで、悩みの大本を切り捨て、
浮世を超越しようと思い立った者でございます」と答え
「悩みの大本を切り捨てるとは、どういうことなのか」 中納言が、さらにたずねれば、
修行僧えたりとばかり「これ、この通りでございます」衣の前かき上げて、むさくるしいあたりをあらわとなし、
なんと八重むぐらしげるのみにて、男のしるしが見えぬ。


これはまた面妖なことだと、中納言はしげしげながめたあげく、どうも袋のあたりが怪しい感じなので、
「誰かいないか」と人を呼び、出て来た侍二、三人に、「この法師を引きすえろ」と命じた。
修行僧は、空とぼけた様子で、念仏など口にしつつ、
「さあ、どのようにでもお調べ下さい」足を投げ出し、
瞑目したのを、「もっと足を開けさせろ」中納言が命じ、
みんなで寄ってたかって、下半身をあらわにした。

そして、眉目美しい少年を呼び寄せ、
「あの法師の、いちもつのあたりを、やさしくなでさすってやれ」
といいつけ、少年は、おおせにしたがい、やわらかい掌を押し当て、上下にうごかす。
しばらくして修行僧は、なおとぼけたふりはそのままに、「もうよろしいでしょう」 と、許しを乞うたが、
中納言はきかず、「なにやらその気のきざしはじめたようだぞ、もっと念入りに、ほらほら」とそそのかし、
すると、八重むぐらの中から、むらむらと大きな松茸のような男根があらわれ、
あらわれただけでなく、腹にひょこひょこ打ちつける始末、
これには当の修行僧までが、手を打ちころげまわって笑い出した。

なんと男のしるしを、下の袋にもみ入れ、飯粒で毛をそれらしく張り、
あたかも去勢した如く装い、したり気なことをいっては、物乞いをしようとたくらんだので、
いやはや、とんでもない不埒な坊主であった。
(巻一 第六)

 

 

 

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「平家物語」祇王妓女  (京都市祇王寺 )

2024年05月11日 | 旅と文学

白拍子(しらびょうし)は室町時代に消えた職種だが、
静御前や祇王、祇女、仏御前によって時代を彩ったことが知られている。

この有名な4人は、権力者に愛されたが、正妻でなく愛妾だったこと。
しかも、わずか1~2年で棄てられたこと。
そして年端もいかない年齢で人生を終えたように表舞台から消えて仏門に入ったこと。

”春の夜の夢の如し”の「平家物語」を、一つに小さくまとめたような女性たちだ。

 

 

旅の場所・京都府京都市右京区嵯峨鳥居本「祇王寺」  
旅の日・2014年11月21日 
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

 

 

・・・

「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

祇王妓女

「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ......」
この世に希望を失った三人の女は、ひたすら死んでからゆくという来世の幸福を祈るのだった。 
その時、さきほどしめたはずの竹のあみ戸を、ほとほととたたく音が聞こえた。
初めは風のいたずらかと思っていた三人の尼も、それがたしかに人のおとずれであることに気づいた。
「はて今ごろ、だれかしら。」
この一年間だれひとりたずねて来たことのないこの小屋へ、こんな寂しい秋の夜にたずねて来るのはだれであろう。
もしかすると平家の追手ではあるまいか。
それとも女三人だけの弱みにつけ込んで、強盗がねらいに来たのだろうか。
そう思うと、三人は足がガタガタとふるえだし、だれひとり門をあけに立ち上がる者がない。
「しかし、平家の追手や強盗ならば、あんな弱々しい竹のあみ戸一つ、押し破ってもはいるでしょう。」
妓王はこう言うと、自分が立って門の方へ出て行こうとする。

「どなたさまでございますか。」 媼が恐る恐る声をかける。
「私です。仏でございます。」
という声はまさしく仏御前幽霊でも天狗でもなく、仏御前の声にまぎれもない。

 

 

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自衛隊が学校のグラウンド拡張工事をする

2024年05月11日 | 昭和36年~40年

昭和30年代は、自衛隊が多くの学校の、校庭の拡張造成工事に従事した。


昭和30年代は、自衛隊が国を護る緊急度が少なかった。
時代は東西冷戦。
日本が国境を接する国で、日本に攻め込む可能性がある国は、せいぜいソ連くらいだったが、
そのソ連ともカニの漁獲量を競う程度の問題しかなかった。
つまり、自衛隊は、国家を護る点では、ヒマだった。

いっぽう学校は、
生徒数も増え、学校も増え、校舎・校庭も拡大・拡張、プールも新設という時代だった。
そこで自衛隊が出動した。

 

・・・

これは岡山県小田郡美星町の自衛隊の学校工事。

どこの学校とは書かれてないが、同じ美星町で三校が、自衛隊にお世話になった。

 

2024年4月28日・「芳井歴史民俗資料館」
『美星町&芳井町 写真で振り返る我が町の70年』

自衛隊による学校運動場の拡張工事
昭和37年(1962)7月

自衛隊の協力を得て公共施設の敷地建設を進める動きは、周辺の市町でみられていた。 
この年美星町は、美星高等学校・美星中学校・黒忠小学校のグラウンドの拡張工事のため自衛隊の協力を得た。 
美星中学校は、 昭和37年4月に 美星・宇戸・日里の3中学校の統合が決定したため、グラウンドを拡張した。

・・・


笠岡市内でも自衛隊が工事をした。
(自分の記憶では)
笠岡高校の校庭拡張工事。
有田・用之江道路新設工事。(現在の県道井原福山港線の一部)

 

 

 

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