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雨宮処凛 生きづらい女子たちへ 虐待、親の精神疾患、援〇交〇、そしてコロナ禍〜「普通になりたかった」という彼女

2022年06月08日 | 生活

Imidas 連載コラム 2022/06/07

 

「何よりも、普通になりたかったんです。普通の女子高生とか女子大生になりたかった」

 取材中、彼女は何度かそう口にした。

 普通の人生。それに憧れる理由が、彼女には多くあった。

最近注目された言葉に「ヤングケアラー」がある。

 小さな頃から家族のケアを担ってきた子どもたち。親が病気で家事や兄弟姉妹の世話をしてきたという人もいれば、祖父母の介護を担ってきたという人、また親が精神疾患だったという人もいる。

 精神疾患のある親のもとで育った子どもの生きづらさもこのところ注目されている。中には虐待された経験を持つ人もいれば、小さな頃から親が偏見に晒されていることに気づき、何かとケアしてきたという人もいる。一方、このところ「毒親」問題も注目されているが、毒親と一言で語られる問題の背景には、やはり精神疾患などの病が隠れていることもある。

 今回登場して頂くリカさん(20代前半・仮名)は、今紹介してきたようなことを一身に背負うような子ども時代を過ごしてきた。

 繰り返される母親からの暴力。そんな母親へのさまざまな対応。それだけでなく、「教育虐待」と言えるような環境に身を置いてきた。一方、教育熱心な母親はなぜか子どもにマトモな食事を与えなかった。空腹に耐えきれなかったリカさんは、中1から援助交際を始めている。

 さまざまな経験を経て、今は信頼できる支援者と出会い、「将来は自分もなんらかの形で女性支援に関わりたい」と語るリカさんに話を聞いた。

 リカさんが生まれたのは、経済的には何不自由ない家庭だった。父親が働き、母親は専業主婦。その母親は統合失調症だった。

 幼い頃から、リカさんには母親から多大な期待がかけられていた。それに応えられないと待っていたのは殴る蹴るの暴行だ。高いところから突き落とされて歯が欠けたこともあるという。

「生後8カ月から塾に行ってて、2歳からバレエ習ってました。幼稚園の時は、朝6時半から塾のテキストをやらされて、それが終わらないと幼稚園に行けない。ずーっと母親が隣にいて、1問間違えるごとに殴られて、鉛筆の芯で刺されたりしました」

 その話を聞いて頭に浮かんだのは、5歳で命を落とした目黒女児虐待死事件の船戸結愛(ふなとゆあ)ちゃんだ。

「もうおねがいゆるして ゆるしてください」「ほんとうにもうおなじことしません ゆるして」

 毎朝4時頃に起床して、一人でひらがなの練習をさせられていた結愛ちゃんがノートに残したものだ。結愛ちゃんが思い通りにならないと、義父は殴る蹴るの容赦ない暴行を加えた。わずか5歳の女の子にである。そうして結愛ちゃんは、虐待によって命を奪われた。

 幼い頃のリカさんの境遇も、これに近いものだったのではないだろうか。

 子どもに暴力を振るう妻に対して夫はどうしていたのかと言えば、「腫れ物扱い」だったという。また、ある時期から父親は単身赴任のような状態となり、家庭は母親と子どもだけの密室になった。そんな母親はリカさんが小学生の頃に精神科に2度ほど入院しているそうだが、退院すると通院も服薬もやめてしまったという。当然病状は悪化するものの、家庭内を知る大人はいないという状況。暴力と隣り合わせの日常の中、彼女は常に萎縮し、10年も経つ頃には痛みも感じなくなったという。

「感覚もなくなっていって、殴られても痛くなくなるんです」

 痛みの感覚には鈍くなったものの、耐えられないのは空腹だ。

 母親の作る食事は、リカさんが小学校高学年頃から「とても食べられたものではない」状態になっていった。カビた食パンに生の鶏肉をまぶしたようなもの。真面目に食べたきょうだいが吐いてしまうほどで、「いかにうまく捨てるか」に神経をすり減らしていたという。育ち盛り、食べ盛りの時期、家で食事がとれないのはあまりにもキツい。中学生になり、部活に励むようになってから空腹は耐え難いものになった。

「給食とかも『おかわり』って言えるタイプじゃなかったし、部活から帰ってきて食べれないって、すごいしんどかったです」

 そう振り返るリカさんはある時、「おっさんと会って言われた通りにしたらお金をもらえる」ということを知った。実際にアプリを使って書き込むと、すぐに会う相手が見つかった。待ち合わせ、本屋さんのトイレで言われた通りにすると5000円が手に入った。初めて自分のお金でお菓子が買えた。

「こんなに簡単にお金が手に入るんだって思いました」

 まだ中1だった。それからリカさんは援助交際を重ねたという。そこで稼いだお金は食費と、「周りの子みたいなちょっとした娯楽」に使った。友達と遊ぶにも何をするにもお金がかかるようになる時期だ。

 お金が手に入るようになっても、家に帰らなければならない現実は変わらなかった。母親は変わらず暴言暴力でリカさんを追い詰め、きょうだいは母親に刃物で刺されることもあったという。警察沙汰もあったそうだが、あまりにひどいことが起きた時の記憶はない。家にいない父親からは、「何かあったらベランダから車の上に飛び降りろ」とだけ言われていた。そんな環境に耐えられず、中3の時、学校で市販薬を大量に飲む。そのことによって、やっと児童相談所に保護された。

 保護されて病院で初めて食べた夕食を、今も鮮明に覚えているという。ご飯、味噌汁、卵焼きに魚、納豆。

「一般的なものだけど本当に嬉しくて。人間として扱われてるって思いました」

 それほどに、家には「人間らしい生活」がなかったのだ。

 一時保護が解除された後は、親戚宅に身を寄せた。そこから通信制高校で学ぶ。勉強自体は好きだったので、1年分のレポートを1週間くらいで終わらせたという。精神科に入院することもあったが、勉強の甲斐あり、無事に大学に合格。

「独学ですごい!」と思わず口にすると、「とりあえず、普通の18歳になりたかったんです」と彼女は言った。その願いは叶(かな)い、大学では友人にも恵まれ「普通の女子大生」のような時間も持てたようだ。

「学生寮に入って、それまでずっと友達いなかったのが初めてできて、『みんなでご飯行こう』とか、ものすごく楽しくて嬉しかったです」

 しかし、生活は苦しかった。父親に「生活費は出さないが学費は出す」と言われていたものの、2年生から学費の支払いは止まってしまう。奨学金とバイトでやりくりするようになるが、それは過酷な日々だった。月〜金は大学に行き、休みの日は警備のバイト。朝の4時から夜中12時まで拘束されることもあった。警備だけでは足りない時は工場で働いた。月のバイト代は7万円くらい。「1日でも休めばピンチ」という状態が続いたという。

 そんな自転車操業の日々を襲ったのがコロナ禍だった。警備の仕事はぱったりなくなり、大学の授業もすべてオンラインに。4年生では2回しか登校せずに卒業となってしまった。

 が、何よりも大変だったのは、住まいの確保だ。

 家賃が高い学生寮にい続けることはできず、出ることになった。しかし、ギリギリの生活だったので部屋を借りるお金などない。学費も出してくれない父親に経済的に頼ることもできないし、当然、実家に戻る選択肢などない。

「だったら生活保護を受ければいい」という人もいるかもしれない。が、大学生が生活保護を使うには、休学か退学しなければならないという厳しいルールがあるのだ(夜間大学はOK)。

 結局、給付型の奨学金を受けられることになり、また、たまたま見つけた民間のシェルターに住むことができたものの、ずっといられるわけではなく期限が来てしまう。再び住まいを失ったのは、2020年4月、初めて緊急事態宣言が出る直前。コロナでバイト先を見つけるのも至難のわざという時期だった。

 行き場がない彼女が見つけたのが、自立援助ホームだった。自立援助ホームとは、何らかの理由で家庭にいられなくなった15〜20歳(場合によっては22歳)の子どもたちがいられる施設。が、その施設はいっぱいで入ることはできなかった。しかし、支援者の好意で住む場所が与えられることに。そこで大学卒業を迎えたという。

 ただ、そこもずっといられるわけではない。大学を出る3月には出なくてはいけないことになり、卒業と同時にまたしても住む場所を失ってしまう。近年、児童養護施設出身の若者を支援する取り組みなどもあるが、彼女は養護施設には行っていないので対象外。制度の穴に落ち込むようにして、支援の網からこぼれ落ちてしまう。

 話を聞きながら、「虐待」と一言で語られるものの現実を、まざまざと突きつけられる気がした。

 多くの人が「虐待」という言葉で思い浮かべるのは、船戸結愛ちゃんのような幼い子どもの痛ましい死ではないだろうか。しかし、亡くなる子どもが報道される一方で、この国にはその何倍もの「生き残った子ども」たちがいる。その「元子ども」たちは、トラウマを抱えてその後の人生を生きていかなくてはならない。

 それだけではない。「親に頼れない」というハンディを抱えた中、格差社会をサバイブしなければならないのだ。

「もし自分だったら」と考えてほしい。20歳そこそこで、親に頼れずに自立などできただろうか。

 私自身のことで言えば、高校を出て美大の予備校に入るために北海道から上京した18歳から物書きとしてデビューする25歳の7年間は、もっとも親に迷惑と経済的負担をかけた時期だった。予備校時代は学費を払ってもらった上に仕送りしてもらっていた。進学を諦めフリーターとなってからは、バイト代だけでは足りず、家賃を滞納したり電気やガスが止まるたびにお金をせびっていた。あの時期、親に頼れなかったら。私はいろんなことを諦めて、失意の中、実家に帰っていただろう。

 しかし、虐待で親から逃げ続けている「元子ども」たちには、帰れる実家もないのだ。

 せめてリカさんが住む場所や学費に困らず安心して学べる制度があったらと思うのは、私だけでないだろう。

 さて、そんな時期に出会ったのが、前回の本連載「DVを経験した彼女が、加害者更生と女性支援を続ける理由」にも登場して頂いた吉祥眞佐緒(よしざきまさお)さんだ。彼女の支援を受け、現在は生活保護を利用しながらシェアハウスで暮らしている。やっと「いつまでここにいられるのか」を心配せず、落ち着いて過ごせる日々がやってきたのだ。

 そんな彼女にとって大きな心配は、「母親に居場所がばれないか」ということだ。親から逃げているすべての人にとって切実な問題だろう。

が、これには「支援措置」という制度が使える。虐待の被害者やDVやストーカー被害者が申し出れば、住民票の写しや戸籍の附票の写しの交付などが制限される制度だ。親子や婚姻関係がある相手は住民票や戸籍の住所を見られるため、逃げた人が新しい居場所を知られないための制度である。詳しくはNHKハートネットの記事「虐待・DV 家族に住所を知られたくない人のために」(21年8月18日)を参照してほしい。リカさんも、この制度を使っている。

 やっと安心できる居場所を手に入れつつあるリカさんに、子どもの頃、大人たちにどんなふうにしてほしかったか聞いてみると、彼女は言った。

「なんかしら、関わり続けてほしかった。私が『もういいです』って言ったらみんな引いたので。傲慢かもしれないけど、気にかけていてほしかった」

 児童相談所は大量服薬をして保護された時は「わーっと来た」ものの、保護が解除された途端にいなくなった。親戚宅に住むようになってからも、伴走するような支援はなかった。中学時代、唯一相談できると思っていた先生には、「お母さんも頑張ってるのよ」と言われて心が折れかかった。大学生になってから出会った支援者にも、「ここまでしかできません」と線を引かれている感覚があった。

 しかし、吉祥さんとの出会いは彼女を変えたようだ。「細く長く関わっていこう」と言ってくれて、時に怒ってくれる存在。もうひとつ安心できる居場所的なところもあり、今、リカさんは他者への信頼を取り戻しつつあるように見える。

 が、当然、波はある。嫌なことがあったりすると、全部リセットしたくなる衝動が抑えられないこともあるという。住まいを失い、いろいろなところを転々としてきたので、トランク1個でいつでも逃げられる状態でないと安心できないようだ。それでも、彼女が手を伸ばせば、今は握り返してくれる人がいる。

 まだ、20代前半。これまで大変だった分、たくさんたくさん幸せになってほしいと勝手に熱望している。頭の回転が速く、自分の気持ちを言語化することに長けている彼女がこれからどんな大人になっていくか、それを見るのも楽しみだ。

 そして彼女と同じような境遇の「元子どもたち」が、もっともっと生きやすい社会になるよう、その小さな声に耳を澄ましたい。改めて、そんな決意を固くしたのだった。


ツルニチニチソウと鉄線が競う。



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