先日、某旅行会社の主宰する、
『白川郷・飛騨高山・郡上八幡・犬山城下町
美濃・飛騨路スペシャル』」
へ出かけた。1泊2日。
テレビの旅番組をそのまま持ってきたようなタイトルの長さは、
この旅行会社の特徴である。
前日に、高速道路で事故が起きたばかりということもあり、出発前に
運転手さん自らが、元気よくご挨拶。安全運転をこころがける旨をアピール。
わたしたちの胸に一抹の不安があるのを察してのことだと思う。
そうは言っても、自分の乗っているバスは大丈夫だろうと、楽観視したいのが人情というもの。
威勢のいい運転手さんに安心したわけでもないが、席替えで、
1番前の座席になってからは、窮屈かつ面倒で、ついシートベルトをはずしたままで過ごした。
さて、バスの隣席は、同じくおひとり参加の同世代の女性。
今回は、おひとりさま限定のツアーではなく、時期もゴールデンウイーク中ということもあり、
老夫婦、中年夫婦、母娘のペアが多いようであった。
全員がひとり旅だと、隣り合った人に積極的に話しかけて、親しくなろうと努力するせいか、
バスの中はかなり賑やかになるのだが、家族同士、特に老夫婦の場合、今更話すこともないのか、
車内はいたって静かであった。
ツアーと言えば、定番なのが美術館と城。
昨年、箱根のポーラ美術館に行った時には、あまりの作品の多さに辟易、
もう一生、美術館に行かないと誓ったものだが、
今回は美術館ではなく、犬山城のオプションである。
高いところに登ってみたくなるというのは、観光客の心理。
城の中は、急勾配の階段があり薄暗く、全国の城の写真や当時の小道具や資料、
武将の似顔絵など歴史物が展示してあるだろう…とおよその見当がついているものの、
「せっかく来たのだから」という気持ちも働き、申し込む。
天守閣をぐるりと囲む回廊は、ふたりがすれ違うのがやっとの狭い幅。
それが外にむき出しになっており、下を覗き込むと、木曽川が悠々と流れている。
じいっと眺めていると、吸いこまれそうである。
ここでグラリときたら振り落とされるか、さもなくば、城ごと川の中に落下していくような心もとなさを感じる。
木製の古い手すりに、「寄りかからないように」と書いてあるのも、迫力を添えていた。
ツアーは、時間厳守が鉄則である。
集合時間を守りたい気持ちは、やまやまであるが、わたしは、方向音痴である。
あらかじめ、どことどこへ行こうと、目星をつけておくものの、
地図で見るのと、実際に歩いてみるのとでは、感覚が大きく違う。
ちょっと寄り道にと、ふらりと店に入ろうものなら、出てきた時に、
自分がどっちの方向に進んでいたのかわからなくなり、気付くと、もと来た方へ引き返していたりする。
時計や地図とにらめっこをしながら早歩きするものだから、目の前の景色への集中力が、おざなりになる。
加えて、そこ、ここに居並ぶおみやげもの屋さん。
どこで売っているものも、おんなじ、おんなじ、とわかっていても、やはり気になる。
挙句、できるだけ短い時間に、より多くのものを見たり食べたりしなくてはならないような義務感に駆られ、
段々とせかされてくる。
今回のテーマは、「ゆったり散策」ではなかったか?
本当は、2度3度と訪れてこそ、あれもこれもの心境から解放されて、
その町を味わう余裕も出てくると思うのだが、旅行先を選ぶ時は、せっかくなら、
今まで行ったことのない土地を…となってしまうものだから、この貧乏性な行動パターンに嵌ることになる。
最後の訪問地は、飛騨高山であった。
昔、子供の頃、両親と訪れた記憶がある。
当時から、“旧い街並み”を銘打っていたと思うが、こんなにも観光地化されていただろうか。
現地の人々が、日々の生活を営む雰囲気とは程遠く、観光客のためにセットされた古い家並み。
そのほとんどが、やはり、おみやげもの屋さんか、飲食店である。
みたらし団子や飛騨牛の串焼き、コロッケの食べ歩き、散策に疲れたら、
町家を改造したカフェで一休み…。
ガイドブックに書かれたうたい文句を、そのまま再現できるようにできた通り。
そういう意味では、期待を裏切らない町であった。
よく考えてみれば、地元、鎌倉の小町通りも、ここ、飛騨高山も、売っているものは同じなのである。
違うのは、キャラクターだけ。片や、地蔵や大仏、片や、さるぼぼ、それだけの相違である。
わかっていることなのに、毎度引っかかってしまう。
○○が有名と聞けば、是非ともそれを味わおうと、あらかじめチェックしていた店を目指し、
予定外の店につい立ち寄ろうものなら、嬉しいと思うよりも、その展開に動揺する。
旅行の醍醐味は、思いがけないできごとなのに、計画通りにいかなかったことが、かえって、
ストレスにさえなってしまうのだ。
普段、職場で、時間を管理したりされたりしながら過ごしていると、
せめてプライベートな場では、気ままに過ごしたくなる。
しかし実際は、急に、日頃の行動パターンを変えることはできない。
そもそも、ツアーという旅行形態に参加するというこがそうだ。
他人に時間を管理してもらいたがっている。
交通が不便な土地なら、ツアーにお任せしたほうが、経済的にも安くつくし、
効率よく周れるのは事実だ。
それと引き換えに、自由行動は120分、休憩時間は何時何分まで、食事は何時からどこで…
といった旅行会社のたてた計画に身を任せることになる。
あれも食べたい、ここにも行きたい、あと30分欲しいと思ったり、
もう少し朝はゆっくりしたいということも多いが、それでも、からだと心は、管理されることに、違和感なく馴染んでいる。
さて、旅も最終日。(と言っても2日目ですが)
旅行というのは、自分の帰って行く場所を再確認するためにあるような気がする。
バスが解散場所の横浜駅に近付くにつれ、帰ってからしなくてはならないアレコレの些事が脳裏を横切る。
早く帰ってシャワーを浴び、馴染んだ布団にくるまってゆっくり寝ることだけが、
ただ今の願い。
睡眠不足の頭の中は、もはや、その瞬間だけが楽しみとなっている。
今回は、バス席や、食事の会場で隣席だった女性のお陰で、ひとり参加の居心地の悪さを感じなくて済んだ。
隣人に恵まれた旅といえる。
例え一泊でも朝から晩まで行動を共にすると、参加していたメンバーや
添乗員さんに親近感を抱く。
バスが無事到着し、ひとりひとりに笑顔で挨拶をしている添乗員さんの姿を見ると、
お祭り騒ぎの終わった、寂しさと虚しさが交錯する。
そこで知り合った人とメールアドレスの交換などする場合もあるようだが、
旅のできごとは引きずらずに、その場に置いてくる。
この、あとくされのなさ、その場限りというものの心地良さは、昨年参加した、
おひとりさま限定の旅の時に実感したことでもある。
『白川郷・飛騨高山・郡上八幡・犬山城下町
美濃・飛騨路スペシャル』」
へ出かけた。1泊2日。
テレビの旅番組をそのまま持ってきたようなタイトルの長さは、
この旅行会社の特徴である。
前日に、高速道路で事故が起きたばかりということもあり、出発前に
運転手さん自らが、元気よくご挨拶。安全運転をこころがける旨をアピール。
わたしたちの胸に一抹の不安があるのを察してのことだと思う。
そうは言っても、自分の乗っているバスは大丈夫だろうと、楽観視したいのが人情というもの。
威勢のいい運転手さんに安心したわけでもないが、席替えで、
1番前の座席になってからは、窮屈かつ面倒で、ついシートベルトをはずしたままで過ごした。
さて、バスの隣席は、同じくおひとり参加の同世代の女性。
今回は、おひとりさま限定のツアーではなく、時期もゴールデンウイーク中ということもあり、
老夫婦、中年夫婦、母娘のペアが多いようであった。
全員がひとり旅だと、隣り合った人に積極的に話しかけて、親しくなろうと努力するせいか、
バスの中はかなり賑やかになるのだが、家族同士、特に老夫婦の場合、今更話すこともないのか、
車内はいたって静かであった。
ツアーと言えば、定番なのが美術館と城。
昨年、箱根のポーラ美術館に行った時には、あまりの作品の多さに辟易、
もう一生、美術館に行かないと誓ったものだが、
今回は美術館ではなく、犬山城のオプションである。
高いところに登ってみたくなるというのは、観光客の心理。
城の中は、急勾配の階段があり薄暗く、全国の城の写真や当時の小道具や資料、
武将の似顔絵など歴史物が展示してあるだろう…とおよその見当がついているものの、
「せっかく来たのだから」という気持ちも働き、申し込む。
天守閣をぐるりと囲む回廊は、ふたりがすれ違うのがやっとの狭い幅。
それが外にむき出しになっており、下を覗き込むと、木曽川が悠々と流れている。
じいっと眺めていると、吸いこまれそうである。
ここでグラリときたら振り落とされるか、さもなくば、城ごと川の中に落下していくような心もとなさを感じる。
木製の古い手すりに、「寄りかからないように」と書いてあるのも、迫力を添えていた。
ツアーは、時間厳守が鉄則である。
集合時間を守りたい気持ちは、やまやまであるが、わたしは、方向音痴である。
あらかじめ、どことどこへ行こうと、目星をつけておくものの、
地図で見るのと、実際に歩いてみるのとでは、感覚が大きく違う。
ちょっと寄り道にと、ふらりと店に入ろうものなら、出てきた時に、
自分がどっちの方向に進んでいたのかわからなくなり、気付くと、もと来た方へ引き返していたりする。
時計や地図とにらめっこをしながら早歩きするものだから、目の前の景色への集中力が、おざなりになる。
加えて、そこ、ここに居並ぶおみやげもの屋さん。
どこで売っているものも、おんなじ、おんなじ、とわかっていても、やはり気になる。
挙句、できるだけ短い時間に、より多くのものを見たり食べたりしなくてはならないような義務感に駆られ、
段々とせかされてくる。
今回のテーマは、「ゆったり散策」ではなかったか?
本当は、2度3度と訪れてこそ、あれもこれもの心境から解放されて、
その町を味わう余裕も出てくると思うのだが、旅行先を選ぶ時は、せっかくなら、
今まで行ったことのない土地を…となってしまうものだから、この貧乏性な行動パターンに嵌ることになる。
最後の訪問地は、飛騨高山であった。
昔、子供の頃、両親と訪れた記憶がある。
当時から、“旧い街並み”を銘打っていたと思うが、こんなにも観光地化されていただろうか。
現地の人々が、日々の生活を営む雰囲気とは程遠く、観光客のためにセットされた古い家並み。
そのほとんどが、やはり、おみやげもの屋さんか、飲食店である。
みたらし団子や飛騨牛の串焼き、コロッケの食べ歩き、散策に疲れたら、
町家を改造したカフェで一休み…。
ガイドブックに書かれたうたい文句を、そのまま再現できるようにできた通り。
そういう意味では、期待を裏切らない町であった。
よく考えてみれば、地元、鎌倉の小町通りも、ここ、飛騨高山も、売っているものは同じなのである。
違うのは、キャラクターだけ。片や、地蔵や大仏、片や、さるぼぼ、それだけの相違である。
わかっていることなのに、毎度引っかかってしまう。
○○が有名と聞けば、是非ともそれを味わおうと、あらかじめチェックしていた店を目指し、
予定外の店につい立ち寄ろうものなら、嬉しいと思うよりも、その展開に動揺する。
旅行の醍醐味は、思いがけないできごとなのに、計画通りにいかなかったことが、かえって、
ストレスにさえなってしまうのだ。
普段、職場で、時間を管理したりされたりしながら過ごしていると、
せめてプライベートな場では、気ままに過ごしたくなる。
しかし実際は、急に、日頃の行動パターンを変えることはできない。
そもそも、ツアーという旅行形態に参加するというこがそうだ。
他人に時間を管理してもらいたがっている。
交通が不便な土地なら、ツアーにお任せしたほうが、経済的にも安くつくし、
効率よく周れるのは事実だ。
それと引き換えに、自由行動は120分、休憩時間は何時何分まで、食事は何時からどこで…
といった旅行会社のたてた計画に身を任せることになる。
あれも食べたい、ここにも行きたい、あと30分欲しいと思ったり、
もう少し朝はゆっくりしたいということも多いが、それでも、からだと心は、管理されることに、違和感なく馴染んでいる。
さて、旅も最終日。(と言っても2日目ですが)
旅行というのは、自分の帰って行く場所を再確認するためにあるような気がする。
バスが解散場所の横浜駅に近付くにつれ、帰ってからしなくてはならないアレコレの些事が脳裏を横切る。
早く帰ってシャワーを浴び、馴染んだ布団にくるまってゆっくり寝ることだけが、
ただ今の願い。
睡眠不足の頭の中は、もはや、その瞬間だけが楽しみとなっている。
今回は、バス席や、食事の会場で隣席だった女性のお陰で、ひとり参加の居心地の悪さを感じなくて済んだ。
隣人に恵まれた旅といえる。
例え一泊でも朝から晩まで行動を共にすると、参加していたメンバーや
添乗員さんに親近感を抱く。
バスが無事到着し、ひとりひとりに笑顔で挨拶をしている添乗員さんの姿を見ると、
お祭り騒ぎの終わった、寂しさと虚しさが交錯する。
そこで知り合った人とメールアドレスの交換などする場合もあるようだが、
旅のできごとは引きずらずに、その場に置いてくる。
この、あとくされのなさ、その場限りというものの心地良さは、昨年参加した、
おひとりさま限定の旅の時に実感したことでもある。