10年ほど前から〝ひとりカラオケ〟を楽しんでいる。
職場の最寄り駅近くにたまたまカラオケボックスがあった。
どういう風の吹きまわしか、ふらりとはいってみたのが、始まりである。
今でこそ、ひとカラなどといってひとりで店にはいるのも、さほど珍しくはなくなったが、
当時はそんな言葉もなく、敷居が高いものだった。
なんといっても、最初の難関は受付である。
ほかの客がいないのを見計らい、
「今の時間、ひとりでもだいじょうぶ?」
などといかにも、もの馴れた口ぶりで常連を装ったものだ。
いったん個室にこもってしまえばこちらのもの。ヘッドホンステレオで何度も聴いたお気に入りの曲を試す舞台だ。ときには中島みゆきのように重々しく、またあるときは、加藤登紀子のようにしみじみと――。
もちろん、たまには知り合いと連れ立って行くのも楽しい。
レパートリーを増やすきっかけになったり、ブラウン管時代の懐かしい曲に再会できたりするからだ。
しかし、なにぶんわたしの周りの聖子や明菜は、そろってメドレー好きときている。
ひとたび彼女たちにマイクを握らせたら、こちらに回ってくるのはいつのことになるやらわからない。
周囲をはばからず、同じ曲を気が済むまで何度でも練習できるのが〝ひとカラ〟の魅力なのだ。
音の高さをあげたりさげたりしながら、難しい歌詞を伴奏にのせて歌えるようになったその瞬間は格別である。
しかしながら、熱唱場面を店のスタッフに目撃されるのは、いまだに気恥ずかしく、
うっかり飲み物など注文してしまうと、歌いながらも気がそぞろ。
ノックの音とともにマイクを放り出し、その手を素早く端末操作に切り替えて、
まるで、ただ今選曲中であったかのように振る舞ってしまうのである。
職場の最寄り駅近くにたまたまカラオケボックスがあった。
どういう風の吹きまわしか、ふらりとはいってみたのが、始まりである。
今でこそ、ひとカラなどといってひとりで店にはいるのも、さほど珍しくはなくなったが、
当時はそんな言葉もなく、敷居が高いものだった。
なんといっても、最初の難関は受付である。
ほかの客がいないのを見計らい、
「今の時間、ひとりでもだいじょうぶ?」
などといかにも、もの馴れた口ぶりで常連を装ったものだ。
いったん個室にこもってしまえばこちらのもの。ヘッドホンステレオで何度も聴いたお気に入りの曲を試す舞台だ。ときには中島みゆきのように重々しく、またあるときは、加藤登紀子のようにしみじみと――。
もちろん、たまには知り合いと連れ立って行くのも楽しい。
レパートリーを増やすきっかけになったり、ブラウン管時代の懐かしい曲に再会できたりするからだ。
しかし、なにぶんわたしの周りの聖子や明菜は、そろってメドレー好きときている。
ひとたび彼女たちにマイクを握らせたら、こちらに回ってくるのはいつのことになるやらわからない。
周囲をはばからず、同じ曲を気が済むまで何度でも練習できるのが〝ひとカラ〟の魅力なのだ。
音の高さをあげたりさげたりしながら、難しい歌詞を伴奏にのせて歌えるようになったその瞬間は格別である。
しかしながら、熱唱場面を店のスタッフに目撃されるのは、いまだに気恥ずかしく、
うっかり飲み物など注文してしまうと、歌いながらも気がそぞろ。
ノックの音とともにマイクを放り出し、その手を素早く端末操作に切り替えて、
まるで、ただ今選曲中であったかのように振る舞ってしまうのである。