TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

本当のことを言えば

2021年07月10日 | インポート
温泉にでも行きたい、というのは以前からよく聞かれるセリフである。
特に緊急事態宣言の繰り返しで、外出自粛疲れも限界に達している昨今とあればなおさらである。
わたしも、御多分に洩れず、ついそう思ってしまうのだが、よく考えてみれば、温泉が大変苦手であることに最近気がついた。温泉、温泉って皆がいいもののように唱えるから、そのように思い込んでいただけのようである。
どこかに行くよりも、帰ってくるほうが好きなので、帰ってくるためには、とりえあえずどこかに出かけなくてはならない、そのための目的地としてはふさわしかもしれないが。

のぼせやすいたちなので、気持よく浸っていられる時間はほぼ1分程度である。
湯船の種類がいくつかあれば、その間を渡り歩きながら体を適度に冷やして浸かるのだが、限界がある。さすがに寒い季節の露天風呂などは、入った瞬間、じわーっと気持いいと思うが、それも長くは続かない。そもそもリラックスするためにきているのに、極限に挑戦するということじたい、趣旨に反している。
また、極度の近視なのでメガネが手放せないが、曇った浴場内では使い物にならないことが多い。
シャワーと蛇口の切り替え方向にいちいち迷い、脱衣場が迷路のようになっているようなところもあり、やたらにもたもたする。無防備な恰好をしているのでよけい心もとない気分になるのかもしれない。
浴場施設が外にあるときはさらに事情がフクザツになる。
すぐそこに見えているのに、入口がわからずうろうろと無駄に歩き疲れ、玄関先では、シューズボックスと貴重品入れを間違えたのを受付のスタッフに目撃され恥ずかしい思いをする。スタッフの説明が一度で理解できないことが多くなり、彼らのおっしゃる”脇の階段”が内なのか外なのかわからず、生来の方向音痴に加齢が加わって、初めての場所がそうとうきつくなっていることに気づかされる。リラックスしたくて来てるのに、かえってどっと疲れて帰ってくる。
それでも、せっかく来たのだからと何度もはいって、苦行になりながら、もとをとろうとする。
こういうのを煩悩というのかしら。
そういえばホテルの枕元なんかに、聖書とともに仏教聖典が置かれていたことがあった。昔、祖母が送ってくれた小学生向けの道徳本のように、教訓が物語風に書かれていて面白く読めた。しかし、物語としておもしろかったのであって、全然血肉になっていなかったらしい。
 


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする