TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

日脚伸ぶ

2023年02月05日 | エッセイ
春は苦手と言いつつも、こうも冷える日々が続くと、暖かくなるのが心底待ち遠しい。
が、日が長くなっているのは明らかで、夕方、自転車の鍵をあけようとすると、ふた月ほど前までは、真っ暗な中、数字を合わせるのに難儀したが、最近ははっきりと見えるようになった。
聞くところによると、日が昇る時間が早くなるよりも、日没の時間が遅くなるのが先なのだそうだ。

1年以上通い続けた句会の開催が、土曜日から木曜日にうつったことで、ほとんど参加できなくなった。
休会しようかな、と迷っていたところ、世話役の女性が、次回のお題は「日脚伸ぶ」に決まりました、とメールをくださった。
まさに今どきにふさわしいお題である。
休会の意向が揺らぐ。
宿題が出るたびに、歳時記をひっくり返し、ああでもない、こうでもない、と言葉をひねくり回し、なんとなく5.7.5にまとまったのを、しばらくあたためておく。
そして日をおいてから見直したときに、ぴったりとくる語彙と語順がまるで降ってわいたようにやってくることがあって、そういう瞬間は格別である。
作句じたいはひとりでもできるが、やはり人前にさらしたい。
先生からずばり、「この句は良くない!」と批評されるのはもちろん嬉しくはなく、帰る道々、ズドーンと落ち込みはするが、それだけに、たまに褒められたりすると、あら、すごいじゃないの、という周囲からのお世辞を真に受けて、舞い上がらんばかりの気分になるのである。

今どきは、夕方帰ると、西向きの部屋には、夕焼けの名残が部屋に満ちている。
短い時間ではあっても、そのぶん赤さが強烈で独特のすごみがある。
これを「冬夕焼け」(もう立春を過ぎてしまったが)というのだそうで、同じ夕焼けでも、微妙に語感の違う語彙を教わることのできるのも楽しみである。

以前、「やすらぎの郷」という老人ホームを舞台にしたテレビドラマがあった。
毎日録画してせっせと観たが、そのホームでは、句会が開かれていた。
わたしは手先がそうとう不器用で、施設のリクレーションにありがちな手芸や折り紙、ぬり絵などは楽しめそうになく、囲碁もあれだけ習ったのにすっかり忘れてしまった。
もしも俳句の会なんかがあったら、せめてそこにだけは居場所を見つけたい、などと心のどこかで思っている。
もちろん、認知能力や寿命がどこまでもつのか、そんな優雅な施設にはいるゆとりがあるのかどうかは、また別の話ではある。

コメント (2)
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